12.最後の晩餐 (2)
その数時間前、魔界にて。
「た、大変だ、タナトス! サマエルが……!」
机の上に羊皮紙の巻物を広げ、難しい顔で覗き込んでいた魔界王タナトスは、執務室に駆け込んで来た宝石の化身を、じろりと見た。
「貴様、予知能力が戻ったのか?」
ダイアデムは、きょとんとした。
「は? 何の話だよ、ンなわけねーだろ」
「まあいい。ちょうど、貴様を呼ぼうとしていたところだ」
「え?」
「天界が、サマエルの解放条件を伝えて来たのよ」
タナトスの横にいたイシュタルが、机の上を指差す。
宝石の少年は、ひったくるように巻物を手に取った。
「『おぞましき奈落の獣、紅龍サマエル、右の者の処刑を、天界時間で四日後、魔界時間での七日後に
何だよ、これ! 処刑通達じゃんか!」
「落ち着いて、続きをご覧なさいな」
イシュタルは、紅く塗った爪で文章を指し、ダイアデムは渋々眼を通す。
「『ただし、以下の条件に於て解放も可能である、魔界時間での三日後、亜空間にて使者に返答せよ』
──ちっ、もったいぶりやがって。
『一、魔界の結界解除、ニ、汎魔殿の開城、三、現魔界王タナトスの身柄引渡し』……何だこりゃ!?
ふっざけんな、んなモン、飲めっかよ!」
少年は、巻物を机に投げつけた。
「そう、絶対に無理よ、特に最後の……」
叔母の言葉をさえぎって、タナトスは言った。
「俺の命なら、くれてやってもいい。確実にサマエルが帰って来るのなら、だがな」
「嫌だ!」
部屋の端にいたニュクスが叫び、魔界王に抱きついた。
「
ダイアデムは、なだめるように“黯黒の眸”の肩をたたいた。
「興奮すんな、いつもの冗談に決まってんだろ。
何やったって、天界のカスどもが、約束なんざ守るわけねーよ」
「こいつの言う通りだ、ニュクス。あの卑劣な
征服を完全なものとするために、俺の首も手に入れたいだけだろう」
タナトスは、手で自分の首を切る真似をした。
「ならば、ルキフェルは……?」
“黯黒の眸”の化身は、眼に涙を浮かべ、王と、自分の兄弟とを交互に見る。
「覚悟してくれるか、“焔の眸”」
タナトスは精一杯優しく言ったが、ダイアデムは青ざめて唇を噛み、声もなくうなだれた。
華奢な肩が、細かく震える。
次の瞬間、少年の体が紅く輝き、代わって炎のたてがみのライオンが現れた。
「シンハ、貴様、どう思う?」
『かような条件……元より
自身の行為を正当化するための、逃げ口上に過ぎぬ』
重々しくシンハは答えた。
「そうね、条件を提示してやったのに、そっちが勝手に蹴ったとか、何とか……本当、忌々しいわ!」
イシュタルは、美しい顔を、思い切りしかめた。
「くそ!」
タナトスは、力任せに拳で巻物をたたき、ニュクスはびくりとした。
黄金の獅子は、炎の瞳を燃え上がらせた。
『万一、我らが飲んだ場合は、彼奴らは、替え玉を仕立てる腹積もりであったろう。
ならば、我が方も、同じ手にて対抗致せばよい』
「……替え玉ねぇ。誰にやらせるの?」
イシュタルが問いかけた瞬間、ひょいと机に乗って来たのは、紫色をした蛇だった。
「我にやらせてくれ」
「貴様か、偉そうに」
タナトスは、むんずと蛇をつかんだ。
エルピダは身をよじるでもなく、ちろちろと紅い舌を出し、弟そっくりの紅い眼で彼を見返す。
「我なら、王に化けることも、本体か否か見分けることも容易だ」
「ふん、貴様などに頼らずとも」
蛇を放り出し、タナトスは髪を一本引き抜いて、息を吹きかけた。
「──エイリアス!」
ぽんという音と黒い煙が出て、彼そっくりの男が現れた。
「どうだ、見分けがつかんだろう」
満足げな顔で、タナトスは隣に立った。
「それに付き添って、わたしが行けばいいわね」
イシュタルが胸に手を当て、タナトスは眉をしかめた。
「なぜ叔母上が? 使者は複製でよかろう」
「いえ、もしものために、本物もいた方がいいわ」
「危険だ、捕まったらどうする」
「優しくなったものね、お前も。以前なら、捕まろうが死のうが勝手にしろ、と放言したでしょうに」
イシュタルは、にっこりした。その笑顔は、サマエルによく似ていた。
タナトスは思わず紅くなり、舌打ちした。
「……ち。ならばエルピダ、叔母上を護衛しろ」
「任せよ」
蛇が答えたとき、ばたんとドアが開き、息を切らした少年少女が飛び込んで来た。
「お父さんの……」
「交換条件が酷いんですって?」
リオンとシュネ、サマエルの子孫達は、眼に涙を浮かべていた。
「貴様ら……?」
「わたしが知らせたのよ。この子達の複製も行くんでしょ?」
イシュタルが言った。
「気が利くな、叔母上。
さあ、貴様ら、さっさと複製を作れ、そして、」
『期限は三日後ぞ、サタナエル』
勢い込むタナトスを、シンハは冷静に制した。
「ち……!」
「複製なんて……本当は僕、いえ、わたしが行きたいのに……」
鼻をすするシュネの肩を、優しくリオンが抱える。
「仕方ないよ、ヤツらが、簡単に父さんを返すわけない。
この上、ぼくらまで捕まったら……」
『リオンの申す通りだ、シュネ。
ルキフェルに口を割らせるのが無理と分かり、彼奴らは、苦し紛れに、人質交換などと……』
「ううう……」
そのとき、突如ニュクスが顔を覆い、全身が輝いたと思うと、黒衣の人物が現れた。
「どうした、“黯黒の眸”?」
心配そうにタナトスが尋ねると、テネブレは悲しげに首を振った。
「相済まぬ、主よ。ニュクスの嘆き激しく、眠らせた……我らも、ルキフェルとは
「そうか」
すると、ライオンの体も輝きに包まれ、再び少年の姿に戻った。
「あいつ、修羅場くぐったことねーもん、仕方ねーさな」
肩をすくめる兄弟に、テネブレは尋ねる。
「おぬしはいかに、“焔の眸”?」
「……オレ? 何か、ぴんと来てなくてよ。
サマエルは、長い旅行か地下にこもっているか、ちょっと留守してるだけ、って感じでさ。
けど、ホントにいなくなったらって、考えたくないけど、時々考えちまって……そうすっと、ここが変になって……何っつうか、わあーって叫びたくなっちまうんだ……。
ああ、もう、感情ってめんどくせーぜ」
宝石の化身は胸を押さえ、頭を振った。
その眼から、涙がぽろぽろとこぼれ落ち、紅い貴石となって床に転がる。
今度はテネブレが輝き始め、ダイアデムより少し背が高い少年が現れ出て、兄弟を抱きしめた。
タナトスは驚いた。
人前に現れることを良しとしない化身が、みずから出て来るとは。
「“焔の眸”、いや、ダイアデム、決して左様なことにはならぬ、決して、決して!」
ケテルは、自分にも言い聞かせるかのように繰り返した。
「オレも、そう、思いたいんだけど、こうなったら、もう……」
ダイアデムはしゃくり上げた。
涙に暮れる美しい少年達は、雰囲気が似通っているためか、顔立ちは異なっているのに、双子のようにも見える。
リオンとシュネは、思わずもらい泣きをした。
「……ち」
タナトスが舌打ちしたのは、嘆き悲しむ彼らにではなく、天界と、自身の無力さに対してだった。
そのとき、ダイアデムが顔を上げた。
「あ、そうだ、さっきサマエルから連絡が来たんだった、すっかり忘れてた」
「何、なぜ早くそれを言わん!」
タナトスが叫び、イシュタルは、ほっとしたように椅子にへたり込む。
「生きてたのね……!」
「ホントに!?」
「お父さん、逃げ出せたの!?」
シュネとリオンが口々に尋ねると、宝石の少年は否定の身振りをした。
「いや、まだだ。ウィルゴ通じて、天界とつながっただけさ。
あいつ元々、あれ使って通信する気でいたんじゃねーかな。
でも、捕まったときに盗られて……さっきは、どうにか取り戻して連絡くれたんだろ。
けど、すぐ通信が切れて、もうつながらなくて……ウィルゴ、また盗られちまったのかもな」
「そうか……くそ」
助けてやれないもどかしさに、タナトスは歯噛みする。
「お父さん、何て言ってた?」
シュネが尋ねる。
「声は聞こえなかった。でも、元気そうだったぜ。
すっげー眩しいトコにいて、周りに天使が何匹か……あれ、でも、ミカエルのヤローはいなかったな。
あと、檻の外にサマエルの息子……サリエルがいて、槍を突きつけられてたっけ……」
リオンが眼を丸くする。
「え、サリエルって、亜空間で死んだんじゃ?」
「あれも複製に決まっている!
本物の息子を殺すと脅されようと、目の前で拷問されようと、サマエルは自白は出来ん、それでヤツらは、こんな物を送りつけて来たのだ!」
タナトスは、またも巻物を殴った。
「酷い……サリエルは同族なんでしょ……」
またもシュネは涙ぐむ。
「それが神族の遣り口だ」
魔界の王は、険しい顔で腕組みをした。
ともかくも、第二王子の安否が分かり、安堵感が漂う中、イシュタルは立ち上がった。
「このこと、ベルゼブル様にもお知らせを……あ」
その刹那、目の前が暗くなり、ぐらりと倒れかかった彼女を、タナトスは、とっさに抱き止めた。
「どうした、叔母上、立ちくらみか?」
「え、ええ、ちょっと、ね……」
すると、ケテルが、はっとしたように声を上げた。
「タナトス、感じぬか!? このままでは、叔母御は、我同様の末路をたどることになるぞ!」
「何っ、死ぬ!?」
タナトスは叫び、全員が凍りついた。
昔、ケテルが罠にはめられ、餓死したことは、この場にいる皆が知っていた。
「大げさね、ケテル。
そんな顔しないで、タナトス、大丈夫よ……」
イシュタルは笑みを浮かべたが、立とうとしても力が入らない。
タナトスは、やつれた彼女の頬にそっと触れた。
「無理するな、叔母上。こんなに弱って……顔色が悪いのは、この報せのせいだとばかり……。
だが、どうしてだ? 親父が役に立たんのは分かるが、他に男はいくらでもいるだろうに」
「それは……」
イシュタルは眼を伏せる。
「タナトス、彼女を一晩看てやれ」
“黯黒の眸”の化身が言うと、魔界の王は眼を剥いた。
「な、何を言う!?」
「わたしなら、平気よ……」
「もうよい! タナトス、
イシュタルをさえぎったケテルの声は震え、自分のことのように切羽詰っていた。
「しかし……」
「こいつがいいって言ってんだ、早く行け!」
ダイアデムも叫び、寝室の方へ手を振った。
「く、分かった」
タナトスは、出て行きかけて踏みとどまった。
「叔母上の部屋へ行く、ケテル、この埋め合わせは、必ずするからな!
──ムーヴ!」
二人が消えたのを見届けて、“黯黒の眸”の化身は、ほっと息をついた。
「大丈夫か?」
“焔の眸”の化身は兄弟を気遣う。
だが、かつて王子だったケテルは、気に病む様子もなかった。
「王とは後宮を持ち、側室を置くもの、タナトスは側室は持たぬと申すが。
ともあれ、今は祈ろう」
「そうだな」
部屋に残った四人と使い魔二体とは、すべてがうまく行くように祈った。