~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

12.最後の晩餐(ばんさん)(1)

「嫌かい? ……そうだろうな。無理強いはしないよ」
サマエルは優しく言い、父親に似た紅い瞳をうるませて、サリエルはうなだれた。
「ご免なさい、父上……」
「謝らなくていい、お前は何も悪くないから」
声こそ平静だったものの、サマエルは内心、穏やかでなかった。

ここが魔界なら、魔法医のエッカルトが、息子が嫌がらないような、別の方法を探し出してくれたかも知れないのだが。
彼は、戦が始まるまで息子の存在を知らず、それも、会った直後、亜空間で死んだと思っていた……囚われて初めて、あれが複製だったと知ったのだ。

自分の処刑は目前、そして、この息子もまた、長くは生きられない。
一体どうすれば……。
腕の中の温かい体が、冷たく固くなっていくところを想像し、彼は背筋が凍った。

その一方で、静かに余生を(まっと)うさせる方がいいような気もした。
血なまぐさい復讐などに、身を捧げるよりも。
力尽くで、とも考えたが、しくしく泣いている姿は哀れを誘い、自身、辛い経験があるサマエルには、出来そうにもなかった。

冬の海のように荒れる思考を静めようと、彼は眼を閉じた。
闇に閉ざされた心を、哀しみが満たしていく。
(どうして、生まれて来てしまったのだろう……。
私がいなければ、おそらく、マトゥタは別の……神族の男と幸せな家庭を築き、生まれた子も、平穏に暮らせたのだろうに……)

彼は大きく息をついた。
ともかく今は、息子の気持ちを和らげることが先決だと思い、口を開きかけたとき、聞き覚えのある足音が近づいて来た。
「アスベエルかい?」
顔も上げず、彼は問いかけた。

「あ、そうです……済みません、お邪魔しちゃ悪いとは思ったんですけど、夕食をお持ちしました。
サリエルは、昼も食べてないし、腹ぺこで、ぐずってるんじゃないかと……」
思った通り、声の主は看守長だった。
「そうか、ありがとう、気が利くね」
サマエルは、心から相手に微笑みかけた。
空腹では、たしかに、感情の抑制も難しくなる。

「いえ、そんなこと、ないです」
アスベエルは、ほっとしたように、配膳用の穴に食事を差し入れた。
大きなトレイには、二人分の食事が湯気を立てていた。
分厚いステーキと付け合せの野菜、パン、スープが銀器に盛られ、赤ワインが注がれたグラスが二つ、銀製のナイフとフォーク、スプーンまでが二人分揃っている。

「今日はまた、ずいぶんと豪勢だね……これは、何の肉かな?」
「親子の最後の晩餐だから、せめて豪華に、って、ラファエルが。
あ、ひょっとして、肉はお嫌いですか?」
「いや。だが、死にゆく私などのために、殺された生き物がいると思うとね……」
サマエルは眼を伏せた。

「大丈夫です、何も死んでません、ラファエルが魔法でこさえた料理ですから。
安心してお召し上がり下さい」
アスベエルが請合った刹那、サマエルの眼がきらりと光った。
「……ほう。では、この食器類も彼が?」
「はい、正餐(せいさん)だからって」

それを聞いた彼は、笑みを浮かべた。
「……なるほどね。お心遣い痛み入りますと、伝えておいてくれ」
「分かりました。じゃ、俺行きます、もう誰も来ませんから、ごゆっくり」
看守長は軽く礼をして、義弟に向かって手を振り、去って行った。

サマエルは、息子に声をかけた。
「せっかくの心尽くしだ、冷めないうちに食べないか?
……肉は久しぶりだ。元々私は、あっさりしたものが好きでね」
「でも、僕、あんまり食欲なくて……」
涙をぬぐいながら言った瞬間、匂いに誘われたのか、サリエルの腹がぐうと鳴った。

「あれ……」
「おやおや」
思わず、親子は顔を見合わせた。
「さ、腹の虫も催促していることだし、頂こう」
「はい、頂きます」
サリエルの表情も和らぎ、彼らは食事にかかった。

無言のまま食べ終えると、サリエルはグラスを差し出した。
「僕、飲めません、どうぞ」
「ああ、もらおうか」
サマエルは、ゆっくりとグラスを回して芳醇(ほうじゅん)な香りを楽しんでから、口に運んだ。
少量を舌の上で転がし、味わう。
「……とてもいいワインだ。これもラファエルが作ったのか……分かっているね、彼は」
「そう、ですか」

やがて、飲み終わり、彼はグラスを置く。
もじもじしながら、それを見守っていた少年は、思い切ったように口を開いた。
「あの……父上、さっき、フレイア様が入って行ったとき、怖がってましたよね……?
フレイア様は、ぽんぽん言うけど、優しいとこもあるし、そんな怖い人じゃないんですよ」

「いや、そうではなくてね。私は淫魔だ……しかも、飢えている。
こんな状態では、お前の味方をしてくれる女性にまで、本能のままに襲いかかってしまうかも知れない……そう思って、用心のために離れようとしたのだよ。
……済まない、こんな父親で」
魔界の王子は頭を下げた。

サリエルは、否定の身振りをした。
「そんな、父上、謝るようなこと、なさってないじゃないですか。
ホントに襲ったりしたら、僕もびっくりして、悲しくなるかも知れませんけど」
「……そうか、そうだね」
サマエルは微笑み、自分のグラスを手に取り、またもゆっくりと味わう。

ワインを飲み干し、グラスをトレイに戻したとき、サリエルがおずおずと、()いて来た。
「あの、それと、父上……さっきのお話なんですけど……あれって、どういう……?
ミカエルと同じことって、言ってましたよね……?」

「ああ……それを説明するには、まず……」
彼は、息子の髪をかき分け、額の盛り上がった部分に触れた。
「知っているかい、お前のここに、角が埋まったままでいるのを。
本当なら、お前くらいの年には、とっくに生えて来ていなければならないのだけれどね」
「え、ここに角が!?」
慌ててサリエルは、自分のおでこに触れた。

「そう。文献には、お前のように角が生えて来ない子供は、他種族との混血に多く、大部分が成人前に死亡する、とあった。
しかし、同時に、寿命を延ばす方法も二つ、記されていたよ。
一つは、生死の境を彷徨(さまよ)うような、過酷な体験をさせる。
これは、心身に過度の負担がかり、うまくいかないことが多い……アルファのように、最後の手段だね。
もう一つが、さっき言った、大人が相手をし、魔族として覚醒させる方法だ。
こちらは、負担も軽く、約半数が覚醒して成人を迎えられるそうだ……それで、提案してみたのだよ」

「半数、ですか……」
サマエルはうなずいた。
「まあ、それを多いと見るか、少ないと見るかは、受け取る方の考え方次第だが」
「残りの半分は……その、やっぱり、死んじゃうんですか?」
「いや。変化なしだ。いきなり死ぬようなことはないよ」
「そうですか……」
サリエルは考え込んだ。

そのまま沈黙が続き、ややあって、サマエルは、ふと思い出したことを口にした。
「そういえば、私の初体験は、今のお前より若かったよ。
一万二千歳(人族の12~13歳)だったな……」
少年は眼を見開いた。
「え、そんなに早いんですか、魔族って?」

「いや、さすがに、普通はもう少し後だがね。
私の場合、イシュタル叔母上が心配して……おそらく、同じ文献を読んだのだろう、私も混血だし、幼少期は魔力もなかったから。
誕生日の翌朝、ベッドを共に……」
サリエルは顔を赤らめた。
「……叔母様と、ですか?」

「魔界では、男女関係に、血の濃さはあまり考慮されないのだよ。
だが、嫌だろう、こんな父親は……」
少年は(かぶり)を振った。
「いいえ。だって、それも神族のせいなんでしょう?
たくさん魔族が殺されて、少なくなっちゃったから……」
「その通りだ、よく知っているね」

「ええ、僕、調べたんです。
それで……そのお話だと、僕がちょっと我慢して、もし成功したら、僕は魔族になれて、長生きも出来るようになる、ってことですよね?」
「……そういうことになるね」
「えっと……それなら、僕、ちょっと試してみたいかも……」
ためらいながら、サリエルは言った。

サマエルは悲しげに首を振った。
「私から言い出しておいて何だが、男同士……しかも、親子だ、魔族としても()められた行為ではないよ。
ここが魔界なら、叔母上にお願いするところなのだが。
成功も、確約は出来ないし……それに、結果はすぐには分からないよ、体内で徐々に進行し、変化は眼には見えない。
……だからこそ、負担も少なくて済むわけだが」

「え、すぐに変化しないんですか?」
「ああ。数ヶ月で済む場合もあるが、何百年もかかることも珍しくないらしい。
待ち続けているうちに、命果てるかも知れないのだよ。
お前は、それに耐えられるのかな?」

「で、でも、可能性は半分もあるんだし、今日は駄目でも、明日は変化出来るかもって思えば、未来にも希望が持てる、かも……。
僕、母上が亡くなってから、生きててもしょうがないような気分になってて、さっきもラファエルさんに……けど、ホントは、死ぬのは嫌だし、怖い……。
だから……だから、もし、少しでもチャンスがあるんなら、賭けてみたいって思うんです……!」

たどたどしくも懸命に訴える息子の眼を、サマエルは見返し、問いかける。
「いいのか、本当に?」
すると、それまで弱々しかった顔に、さっと決意の色が浮かんだ。
「はい、お願いします!」
少年は、深々と頭を下げた。
「……分かった。では、服を脱いで」

「はい」
ローブに手をかけたサリエルは、急にきょろきょろし始めた。
「……どうした?」
「えっと、あのかぶと虫、いませんよね?
見られてたら嫌だな……って、見られてたら、止められちゃうんじゃ……」

「使い魔はいないよ」
辺りを見回すこともせず、彼は断言した。
「ラファエルが監視をやめると言ったのは、私達が心中すると思い込み、手間が省けると考えてのことだからね」
「ええっ、僕らが心中!?」
少年は紅い眼を真ん丸くした。

サマエルはにっこりした。
「そう信じ込ませるために、何があっても邪魔するなと言い、お前にも、わざわざ全員に別れを告げさせた……見事、引っかかってくれたよ。
お陰で、彼の思惑とはまったく別の……これからすることに、朝まで邪魔は入らないというわけさ。
いいから、お脱ぎ。夜は短い」

「あ、はい。でも、あれにそんな意味が……あ、だから、彼は急に、親に従いなさいって……」
慌てて衣装を脱ぎながら、もごもごとサリエルは言う。
「そう。そして、差し違えて死ねるよう、晩餐にかこつけて、ごていねいにナイフまで用意してくれたわけだよ」
言いながら、サマエルもまた、着衣を脱ぎ捨てた。

初めて見る、生まれたままの父親の姿に、サリエルは息を呑んだ。
脱衣したことで、(かぐわ)しい香りが全身より解き放たれ、解かれた輝く銀髪が、透き通るような肌に(なまめ)かしく絡みつき、床を這う。
淫魔の王子……妖艶(ようえん)という言葉が、これほど似つかわしい男もいないだろう。

少年のやつれた頬が、みるみる紅潮していく。
「す、すごい。……神々しいっていうか、その、何ていうか……」
「くく、何を言っているの、私は悪魔だよ?
まあいいさ、おいで。優しくするよ、約束する」
含み笑いしたサマエルは、獲物を捕らえた蜘蛛のように、息子の体をたぐり寄せた。

「あ……」
「変化が終了した暁には、ここに、私と同じ角が生えるだろう」
淫魔の王子は、角が眠る額に、約束の証としてのキスをする。
「さあ、成人の儀を始めよう、サリエル、我が息子よ」

せいさん【正餐】

西洋料理で正式の献立による食事。また、西洋で1日のうちの主な食事。ディナー。