11.黄金の女神(3)
黄金のライオンの姿がかき消えると、再び少年が現れた。
前の少年より背は低く、髪はペンダントの光を受けて、燃え立つように紅く輝いている。
「ああ、ダイアデム!」
抱き締めようとしたサマエルの腕をすり抜け、化身は、彼の頬を思い切りひっぱたいた。
眼に涙を浮かべ、何か叫んでいるが、その声は聞こえない。
「済まない……」
サマエルが頭を下げると、ダイアデムはふわりと浮き上がり、ようやく彼の
しかし、次の瞬間、またも化身の姿は霧のごとくに
ペンダントを持つ手が激しく震え、サマエルは、がくりと床に膝をつき、紅い貴石に口づけた。
「……済まない、泣かせてしまって……。
愛しているよ、“焔の眸”、愛している、愛して……」
彼は、ウィルゴを固く握り締め、うなだれて愛の言葉を繰り返した。
突然の出来事に気を飲まれ、呆然としていたラファエルとメタトロンは、ようやく気を取り直し、サマエルに槍を突きつけた。
「おい、今のは何だ!」
「答えろ、サマエル!」
「私の妻、“焔の眸”……その化身達、さ」
つぶやくような答えを、彼は返した。
「まさか、触れ合えるとは思わなかった……石があれば、声くらいは聞けるかと……私達の愛の力、かな」
魔界の王子の
先に我に返ったのは、ラファエルだった。
「つまり……ここと魔界がつながった、というのか?」
「ご明察。頭がいいな、お前は」
サマエルは、悲しげに宝石を頬を寄せ、眼を閉じた。
メタトロンは首を横に振った。
「考えられぬな。幾重もの結界……さらに、檻の中では魔力が無効に……む、まさか」
大天使ははっとし、サマエルからペンダントをもぎ取った。
「これは通信装置か! 特殊な仕掛けがしてあるのだな!」
「何っ!?」
ラファエルは、同僚の持つ、紅い石を覗き込む。
サマエルは、哀願するように手を差し伸べた。
「それに通信機能などないよ、返してくれ。
宝石を介して、私と妻の、求め合う波動が共鳴しただけだ」
「駄目だ、渡せぬ」
険しい表情で、メタトロンはラファエルとうなずき合う。
「うむ、魔界へつながるのなら、逃亡も可能だしな」
「逃げ出せるものなら、さっきしたはずだろう。
……返さない気なら、何も話さないぞ」
本当は話したくとも出来ないのだったが、それはおくびにも出さず、冷ややかに、サマエルは言ってのけた。
「……く!」
カッとなったラファエルは、同僚の手からペンダントを引ったくり、床にたたきつけようとした。
「よせ!」
「お待ちなさい!」
サマエルとフレイアが叫んだのは、ほぼ同時だった。
振り上げた手を渋々止めて、ラファエルはフレイアを見た。
「ですが、女神様、これは危険です!」
「だからといって、いきなり壊すことはないわ」
「その通りです、さすがは女神様」
すかさず、サマエルは合いの手を入れる。
「そうよ、もったいないじゃない。
世界にたった一つしかない、美しい宝石を壊すなんて」
「お言葉ですが、これは敵の通信装置……」
「いや、ただの装身具だよ、私の手になければ、ね」
メタトロンの台詞を、サマエルはさえぎった。
「そもそも、持って来る前に散々調べたのだろう、うろんな仕掛けがあるというなら、なぜ、そのとき発見出来なかったのだ?」
「たしかにそうね。わたくしが身につけていても、何もなかったじゃない」
「それは……呪文か何か、発動の条件があるのでは」
「そんなに心配なら、檻と同じ材料で封具を作ればいい。
この輝きだ、うまく作れば、貴石を引き立たせる美しい装飾になるだろう」
サマエルは、光あふれる檻をぐるりと手で示す。
「こんな危険で怪しい物を、わざわざ残す必要がどこにある!
それに、この檻の中から魔界に通じたのだぞ、そんなことで封印できるわけがない!」
怒鳴るラファエルにくるりと背を向け、サマエルは檻の出入り口に近づき、片膝をつくと、深々と頭を下げた。
「女神様、お願いがございます。
失礼ながら、あの貴石の主となって頂けないでしょうか」
「貴様、何を言い出すのだ!?」
「いけませぬ、女神様!」
「誘いに乗っては危険です!」
「何を企んでいるか分かりませぬぞ!」
慌てて止めようとする四人の大天使達に、フレイアは、黙れというように手を振り、サマエルとの会話を続けた。
「わたくしに?」
「はい。
私は、やはり、魔界を裏切ることは出来ません……ですが、彼らの様子を見るに、私が処刑された後、ウィルゴが破壊されるのは確実ですから」
「大丈夫よ、形見として
フレイアは、青ざめ、気が遠くなりそうな眼をしているサリエルの方へ、手を振った。
「いえ、息子に遺したいのは山々なのですが……あれを使って、魔族に内通したなどと、あらぬ疑いをかけられても困りますし」
「そうねぇ……」
女神は、可愛らしく小首をかしげた。
ここぞとばかり、サマエルは力説した。
「壊すに忍びないと思って下さる心優しいお方になら、大切にして頂けると存じます、女神様、どうか、あれをお持ち下さいませ」
「貴様、こんな光り物ごときで、女神様を買収する気か!?」
メタトロンが、語気荒く問い
サマエルは首を横に振った。
「買収だなど、考えたこともないよ。
女神様、私はただ、自分が生きた証を残しておきたいだけです。
私が死んでも、父も兄も、涙など見せはしないでしょう。
妻と子孫達は少しは悲しんでくれるでしょうが、妻は兄の元へ連れ戻され、“焔の眸”と“黯黒の眸”、二人の妃を持つことになる兄は、かえって喜ぶでしょうし……」
しんみりと彼は言った。
「まあ、ずいぶん冷たい親兄弟ね」
「私は生け贄ですから。
紅龍、すなわち“カオスの貴公子”は、魔族にとって
「生け贄ですって? 王子のお前が、なぜ?」
女神は、驚いたように眼を見開く。
魔界の王子は、眼差しを遠くに彷徨わせた。
「紅龍となる資格を持ち、かつ、過酷な試練に耐えた者のみが、“黯黒の眸”からカオスの力を授かります。
その資格とは『貴き身分の者の中で、最も気高く清純で、同時に最も卑しく汚れし者、
フレイアは首をひねった。
「何、それ? わけが分からないわ。正反対の言葉を並べてあるだけじゃないの」
「そうですね。ともかく父は、こじつけてでも、私に資格があることにしたかったのでしょう。
何しろ、強大な混沌の力を我が物とするには、数十年もの間、すさまじい苦痛を、心身両面に受け続けなければなりません。
よほど自我が強くなければ、狂うか、死にます。
けれど、試練を乗り越え力を得ても、待っているのは生け贄としての死……。
厄介払いには、もってこいだったのでしょうね」
魔界の王子は淡々と話していたが、女神は痛ましそうな顔をした。
「でも、どうして生け贄なんて……? 実の親、なのよね?」
サマエルは、肩をすくめた。
「理由の一つに、ミカエルが昔、私の母に
「ええっ!? ミカエルは、そんなことまでしてたの!? じゃあ、お前……」
女神は、サマエルをまじまじと見つめた。
彼は苦笑し、首を振って否定する。
「いえいえ、私が、あいつの血を引いていないことは確実です、ありがたいことに」
フレイアは、安堵の表情を浮かべた。
「そう、よかったわね。お前が敵でも、心からそう言えるわ」
「ありがとうございます、女神様」
サマエルは胸に手を当て、優雅に頭を下げた。
「それでも、父は母を信じ、愛していました。しかし、その最愛の女性を奪ったのが、私だったのです。
母は、私を出産後、肥立ちが悪くて亡くなりましたから……」
「まあ、お気の毒に。でも、それはお前のせいではないでしょ」
「ええ。ですが、父も兄も、そうは考えなかったのですよ。
子供時代、魔法が使えなかったせいもあったのでしょうが、父は私を、存在していないかのように無視し、食事もろくに与えてくれませんでした。
兄にも、事あるごとに母殺しとののしられ、何度も乱暴されて……。
恥を忍んでお話しますと、私は、やはり父の子ではなく、かつて
フレイアは、扇を口に当てた。
「まあ、何てこと……。生きている方が不思議なくらいね、もしそれが本当なら、だけれど」
「作り話だとお考えですか?」
「だって、酷すぎない? ありそうもない話に聞こえるわ」
「カオスの貴公子の名において、すべてが真実です。
残念ながら、今、証明することは出来ませんが……」
「ふうん……」
そのとき、ラファエルが、おもねるように口を挟んで来た。
「女神様、お話中のところ、真に申し訳ございませぬが、そろそろ……。
あまり遅くなられますと、天帝様が……」
サマエルの話に釣り込まれていた女神は、はっと我に返った。
「あ、そうね、戻らなくちゃ」
「では、女神様、石に、新しい名前をつけて下さいますか。
名づけは、自分の所有物にするまじないの一種です、それによって、完全にあなた様の物となり、私のつけ入る隙もなくなるでしょう」
にこやかに、サマエルは言った。
「そう。じゃあ……炎みたいに紅いから、ブリーシンガメン、はどうかしら」
「素敵な響きの名前ですね。末永く、可愛がってやって下さい」
彼は、深々と頭を下げた。
「分かったわ、もらってあげる」
「女神様、そのような物を!」
「お考え直し下さい!」
「裏があるに決まっています!」
「天帝様に叱られるのでは……」
「大丈夫よ、直にお願いして、厳重な封じの細工を作ってもらうから」
フレイアにそう言われてしまうと、檻の内外の大天使達は、反論も出来ない。
女神は扇をたたみ、檻のサマエルに近づいた。
「ところで、お前、本当に秘密を話す気はないの?
そうすれば、死なずに済むのよ?
お前にはサリエルのために、生きていて欲しいのだけれど」
サマエルは、軽く
「お心遣い、痛み入ります……が、あなた様なら、どうなさいますか?」
訊き返されて、女神は眼を見開く。
「え?」
「たとえ命永らえて、毎日息子が会いに来てくれたとしても、日々、自分のせいで同族が滅んでしまったと、自責の念に駆られ続け……そして、成長を楽しみにしたくとも、息子は自分より先に死ぬ……。
残る人生を、ただ
それでも、生き長らえたいと?」
「無駄に生きるよりも、誇りを持って死にたい、そう言いたいのね」
彼女は、扇でサマエルを指す。
「
彼が答えた刹那、サリエルが暴れ出した。
「駄目ですっ、父上! フレイア様、父上を殺さないでっ!」
おもねる【阿る】
人の気に入るように振る舞う。へつらう。
うろん【胡乱】
1 正体の怪しく疑わしいこと。また、そのさま。
むい【無為】
1 何もしないでぶらぶらしていること。また、そのさま。