~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

11.黄金の女神(3)

黄金のライオンの姿がかき消えると、再び少年が現れた。
前の少年より背は低く、髪はペンダントの光を受けて、燃え立つように紅く輝いている。
「ああ、ダイアデム!」
抱き締めようとしたサマエルの腕をすり抜け、化身は、彼の頬を思い切りひっぱたいた。
眼に涙を浮かべ、何か叫んでいるが、その声は聞こえない。

「済まない……」
サマエルが頭を下げると、ダイアデムはふわりと浮き上がり、ようやく彼の抱擁(ほうよう)と口づけを受け入れた。
しかし、次の瞬間、またも化身の姿は霧のごとくに(はかな)く消えて、同時に紅い光も消滅し、魔界の王子が一人、取り残された。

ペンダントを持つ手が激しく震え、サマエルは、がくりと床に膝をつき、紅い貴石に口づけた。
「……済まない、泣かせてしまって……。
愛しているよ、“焔の眸”、愛している、愛して……」
彼は、ウィルゴを固く握り締め、うなだれて愛の言葉を繰り返した。

突然の出来事に気を飲まれ、呆然としていたラファエルとメタトロンは、ようやく気を取り直し、サマエルに槍を突きつけた。
「おい、今のは何だ!」
「答えろ、サマエル!」

「私の妻、“焔の眸”……その化身達、さ」
つぶやくような答えを、彼は返した。
「まさか、触れ合えるとは思わなかった……石があれば、声くらいは聞けるかと……私達の愛の力、かな」
魔界の王子の(あで)やかな笑みに魅せられて、大天使達はまたも言葉を失う。

先に我に返ったのは、ラファエルだった。
「つまり……ここと魔界がつながった、というのか?」
「ご明察。頭がいいな、お前は」
サマエルは、悲しげに宝石を頬を寄せ、眼を閉じた。

メタトロンは首を横に振った。
「考えられぬな。幾重もの結界……さらに、檻の中では魔力が無効に……む、まさか」
大天使ははっとし、サマエルからペンダントをもぎ取った。
「これは通信装置か! 特殊な仕掛けがしてあるのだな!」

「何っ!?」
ラファエルは、同僚の持つ、紅い石を覗き込む。
サマエルは、哀願するように手を差し伸べた。
「それに通信機能などないよ、返してくれ。
宝石を介して、私と妻の、求め合う波動が共鳴しただけだ」

「駄目だ、渡せぬ」
険しい表情で、メタトロンはラファエルとうなずき合う。
「うむ、魔界へつながるのなら、逃亡も可能だしな」
「逃げ出せるものなら、さっきしたはずだろう。
……返さない気なら、何も話さないぞ」
本当は話したくとも出来ないのだったが、それはおくびにも出さず、冷ややかに、サマエルは言ってのけた。

「……く!」
カッとなったラファエルは、同僚の手からペンダントを引ったくり、床にたたきつけようとした。
「よせ!」
「お待ちなさい!」
サマエルとフレイアが叫んだのは、ほぼ同時だった。

振り上げた手を渋々止めて、ラファエルはフレイアを見た。
「ですが、女神様、これは危険です!」
「だからといって、いきなり壊すことはないわ」
「その通りです、さすがは女神様」
すかさず、サマエルは合いの手を入れる。

「そうよ、もったいないじゃない。
世界にたった一つしかない、美しい宝石を壊すなんて」
「お言葉ですが、これは敵の通信装置……」
「いや、ただの装身具だよ、私の手になければ、ね」
メタトロンの台詞を、サマエルはさえぎった。
「そもそも、持って来る前に散々調べたのだろう、うろんな仕掛けがあるというなら、なぜ、そのとき発見出来なかったのだ?」

「たしかにそうね。わたくしが身につけていても、何もなかったじゃない」
「それは……呪文か何か、発動の条件があるのでは」
「そんなに心配なら、檻と同じ材料で封具を作ればいい。
この輝きだ、うまく作れば、貴石を引き立たせる美しい装飾になるだろう」
サマエルは、光あふれる檻をぐるりと手で示す。

「こんな危険で怪しい物を、わざわざ残す必要がどこにある!
それに、この檻の中から魔界に通じたのだぞ、そんなことで封印できるわけがない!」
怒鳴るラファエルにくるりと背を向け、サマエルは檻の出入り口に近づき、片膝をつくと、深々と頭を下げた。
「女神様、お願いがございます。
失礼ながら、あの貴石の主となって頂けないでしょうか」

「貴様、何を言い出すのだ!?」
「いけませぬ、女神様!」
「誘いに乗っては危険です!」
「何を企んでいるか分かりませぬぞ!」
慌てて止めようとする四人の大天使達に、フレイアは、黙れというように手を振り、サマエルとの会話を続けた。
「わたくしに?」
「はい。
私は、やはり、魔界を裏切ることは出来ません……ですが、彼らの様子を見るに、私が処刑された後、ウィルゴが破壊されるのは確実ですから」

「大丈夫よ、形見として(のこ)せば」
フレイアは、青ざめ、気が遠くなりそうな眼をしているサリエルの方へ、手を振った。
「いえ、息子に遺したいのは山々なのですが……あれを使って、魔族に内通したなどと、あらぬ疑いをかけられても困りますし」
「そうねぇ……」
女神は、可愛らしく小首をかしげた。

ここぞとばかり、サマエルは力説した。
「壊すに忍びないと思って下さる心優しいお方になら、大切にして頂けると存じます、女神様、どうか、あれをお持ち下さいませ」
「貴様、こんな光り物ごときで、女神様を買収する気か!?」
メタトロンが、語気荒く問い(ただ)す。

サマエルは首を横に振った。
「買収だなど、考えたこともないよ。
女神様、私はただ、自分が生きた証を残しておきたいだけです。
私が死んでも、父も兄も、涙など見せはしないでしょう。
妻と子孫達は少しは悲しんでくれるでしょうが、妻は兄の元へ連れ戻され、“焔の眸”と“黯黒の眸”、二人の妃を持つことになる兄は、かえって喜ぶでしょうし……」
しんみりと彼は言った。

「まあ、ずいぶん冷たい親兄弟ね」
「私は生け贄ですから。
紅龍、すなわち“カオスの貴公子”は、魔族にとって贖罪(しょくざい)山羊(やぎ)……すべての罪を背負い、殺される運命にあるのです」
「生け贄ですって? 王子のお前が、なぜ?」
女神は、驚いたように眼を見開く。

魔界の王子は、眼差しを遠くに彷徨わせた。
「紅龍となる資格を持ち、かつ、過酷な試練に耐えた者のみが、“黯黒の眸”からカオスの力を授かります。
その資格とは『貴き身分の者の中で、最も気高く清純で、同時に最も卑しく汚れし者、(うるわ)しき者の中で最も美に優れ、しかも最も醜き者、心優しき者の中で、最も柔和で、かつ最も猛々しき者』とされているのですが……」

フレイアは首をひねった。
「何、それ? わけが分からないわ。正反対の言葉を並べてあるだけじゃないの」
「そうですね。ともかく父は、こじつけてでも、私に資格があることにしたかったのでしょう。
何しろ、強大な混沌の力を我が物とするには、数十年もの間、すさまじい苦痛を、心身両面に受け続けなければなりません。
よほど自我が強くなければ、狂うか、死にます。
けれど、試練を乗り越え力を得ても、待っているのは生け贄としての死……。
厄介払いには、もってこいだったのでしょうね」

魔界の王子は淡々と話していたが、女神は痛ましそうな顔をした。
「でも、どうして生け贄なんて……? 実の親、なのよね?」
サマエルは、肩をすくめた。
「理由の一つに、ミカエルが昔、私の母に横恋慕(よこれんぼ)して、母を拉致(らち)したことがありまして、私は、あいつの子なのではとの疑いが……」

「ええっ!? ミカエルは、そんなことまでしてたの!? じゃあ、お前……」
女神は、サマエルをまじまじと見つめた。
彼は苦笑し、首を振って否定する。
「いえいえ、私が、あいつの血を引いていないことは確実です、ありがたいことに」
フレイアは、安堵の表情を浮かべた。
「そう、よかったわね。お前が敵でも、心からそう言えるわ」

「ありがとうございます、女神様」
サマエルは胸に手を当て、優雅に頭を下げた。
「それでも、父は母を信じ、愛していました。しかし、その最愛の女性を奪ったのが、私だったのです。
母は、私を出産後、肥立ちが悪くて亡くなりましたから……」
「まあ、お気の毒に。でも、それはお前のせいではないでしょ」

「ええ。ですが、父も兄も、そうは考えなかったのですよ。
子供時代、魔法が使えなかったせいもあったのでしょうが、父は私を、存在していないかのように無視し、食事もろくに与えてくれませんでした。
兄にも、事あるごとに母殺しとののしられ、何度も乱暴されて……。
恥を忍んでお話しますと、私は、やはり父の子ではなく、かつて謀反(むほん)を企み殺された、伯父の子だったようですので……」

フレイアは、扇を口に当てた。
「まあ、何てこと……。生きている方が不思議なくらいね、もしそれが本当なら、だけれど」
「作り話だとお考えですか?」
「だって、酷すぎない? ありそうもない話に聞こえるわ」
「カオスの貴公子の名において、すべてが真実です。
残念ながら、今、証明することは出来ませんが……」
「ふうん……」

そのとき、ラファエルが、おもねるように口を挟んで来た。
「女神様、お話中のところ、真に申し訳ございませぬが、そろそろ……。
あまり遅くなられますと、天帝様が……」
サマエルの話に釣り込まれていた女神は、はっと我に返った。
「あ、そうね、戻らなくちゃ」

「では、女神様、石に、新しい名前をつけて下さいますか。
名づけは、自分の所有物にするまじないの一種です、それによって、完全にあなた様の物となり、私のつけ入る隙もなくなるでしょう」
にこやかに、サマエルは言った。

「そう。じゃあ……炎みたいに紅いから、ブリーシンガメン、はどうかしら」
「素敵な響きの名前ですね。末永く、可愛がってやって下さい」
彼は、深々と頭を下げた。
「分かったわ、もらってあげる」

「女神様、そのような物を!」
「お考え直し下さい!」
「裏があるに決まっています!」
「天帝様に叱られるのでは……」
「大丈夫よ、直にお願いして、厳重な封じの細工を作ってもらうから」
フレイアにそう言われてしまうと、檻の内外の大天使達は、反論も出来ない。

女神は扇をたたみ、檻のサマエルに近づいた。
「ところで、お前、本当に秘密を話す気はないの?
そうすれば、死なずに済むのよ?
お前にはサリエルのために、生きていて欲しいのだけれど」
サマエルは、軽く会釈(えしゃく)した。
「お心遣い、痛み入ります……が、あなた様なら、どうなさいますか?」
訊き返されて、女神は眼を見開く。
「え?」

「たとえ命永らえて、毎日息子が会いに来てくれたとしても、日々、自分のせいで同族が滅んでしまったと、自責の念に駆られ続け……そして、成長を楽しみにしたくとも、息子は自分より先に死ぬ……。
残る人生を、ただ無為(むい)に、檻の中で過ごす……それは、死んでいないというだけで、生きているとは到底言えません。
それでも、生き長らえたいと?」

「無駄に生きるよりも、誇りを持って死にたい、そう言いたいのね」
彼女は、扇でサマエルを指す。
(おっしゃ)る通りです」
彼が答えた刹那、サリエルが暴れ出した。
「駄目ですっ、父上! フレイア様、父上を殺さないでっ!」

おもねる【阿る】

人の気に入るように振る舞う。へつらう。

うろん【胡乱】

1 正体の怪しく疑わしいこと。また、そのさま。

むい【無為】

1 何もしないでぶらぶらしていること。また、そのさま。