~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

11.黄金の女神(2)

「これと引き換えに、魔界の秘密を話すって約束したんでしょ?」
焦らすように、檻の前でペンダントを揺らしながら、女神は言った。
サマエルは(かぶり)を振った。
「いえ、確約はしていません。気が変わるかも知れない、とは言いましたが」

「そう。じゃ、渡せないわね」
女神は、華奢な手で紅い石を包み、彼の眼から隠した。
「そうですか」
サマエルの態度は落ち着いていた。
「あまりがっかりしないのね」

「ええ。ラファエルも、同じことをしたでしょうからね……そうしたら、私は」
一息ついて、彼は続けた。
「私と一緒に息子も殺せ、そう言ってやったと思います」
「えっ……!?」
フレイアだけでなく、その場にいた全員が、彼の言葉に凍りついた。
特にサリエルは、やつれた顔に浮かんだ、驚きと悲しみの色が痛々しかった。

それに気づいているのかどうか、サマエルは淡々と続けた。
「実は、サリエルは、元々、長くは生きられない体なのだそうですよ。
女神の庇護(ひご)なき今、息子も義兄アスベエルも、ミカエルに殺されるか、地下で切り刻まれるのが関の山、ならば、息子だけでも共に()けるようにしてやるのが、父親としてのせめてもの温情と思いましてね。
私は、一緒に天国の門をくぐることは叶わないでしょうが、あの子をマトゥタの元へ送り届けるくらいは、出来るでしょうから」
父親の宣告を耳にしたサリエルの顔色は、さらに悪くなっていく。

「馬鹿なことを申すな! わたしが保護者でいるうちは、地下になど決して送らぬわ!」
抗議の声を上げるラファエルに対し、サマエルは、彼にしては珍しく、舌鋒(ぜっぽう)鋭く切り返した。
「お前の方こそ!
私が自白を渋ったら、殺すと脅すため息子を連れて来る、そんな無慈悲な男が、“保護する者”を名乗るとは笑止だな!」
「く、……」

反論出来なくなった大天使の代わりに、フレイアが言った。
「お待ちなさい。
父親は魔物でも、母君は女神なのよ、わたくしがサリエルを殺させやしないわ、絶対に」
「女神様、お言葉ですが、天界のため、ある程度の犠牲はやむを得ないかと……」
今度は、メタトロンが口を挟んだ。

「お黙りなさい、サリエルは友人よ!
わたくし達、大人しかいない世界の、たった三人だけの子供だったわ。
お前達には分からないでしょう、それがどういうものなのか。
わたくしにとって、友と呼べるのは彼らだけなのよ!」
フレイアは、サリエルとアスベエルに向けて、さっと手を振った。

「は、申し訳……」
頭を下げるメタトロンに、彼女はぴしゃりと言った。
「もういいわ、お前達は口を出さないで!」
大天使達をへこませておいて、女神は、サマエルに向き直った。
「でも、どうして、アスベエルまで殺されるなんて言うの?
ミカエルと何かあったのかしら?」

「彼は、殺された直後の、血まみれのウリエルを見てしまったのですよ。
そのショックで、自分にも同じ運命が待っていると思い込んで眠れなくなり、一週間前、ついに倒れてしまって……」
「えっ!? 倒れたなんて初めて聞いたわ!」
フレイアは蒼白な顔で、自分より頭一つ分、背が高いアスベエルを見上げる。

「ご心配なく、もう平気ですから」
看守長もまた、血の気の引いた顔で、それでも無理に笑って見せた。
女神は、つられたように微笑む。
「そう。無理しちゃ駄目よ、アスベエル。
お前もサリエルも、ミカエルなんかに殺させやしないから、安心して」
その声も眼差しも、他の者に対するより優しかった。

「ありがとうございます」
うやうやしく頭を下げる看守長の脇で、大天使達が目配せし合ったことに、サマエルは気づいた。
「でも、なぜ、ミカエルは、命令もなしにウリエルを……?
そもそも、彼が裏切り者だなんて信じられないのよ、わたくし」

「裏切ってなんか……ウリエル様は、ただ、その、ええと……」
たどたどしく説明しかけるアスベエルの話を、サマエルは引き継いだ。
「そう、彼はただ、私を愛しただけです。一目惚れしたのだそうですよ……こんな私に」
そして、自分の胸に手を当てる。

眼を丸くし、それから女神は苦笑した。
「まあ……可哀想に、それは見込みないわねぇ。だって、お前は女にしか興味がないでしょ。
女神達の間でも、お前は評判になってるけれど」
サマエルは、わずかに微笑んだ。
「きっと、悪名の方でしょうね」
「当然でしょ。インキュバスは、女と見れば片っ端から食べてしまうそうじゃないの。
それも、誘惑された女は、自分から進んで、喜んで殺されに行く、とか」

サマエルは悲しげに、首を横に振った。
「誤解ですよ。無論、女性を誘惑したことはあります。
浅ましくも、女性の精気が我らの生きる糧ですから。
ですが、誓って、女性を殺したり、まして、食べたことなどありません。
マトゥタが自殺したと聞かされた後、千年は喪に服して女性には触れず、人族の妻を(めと)ったのも、一万年も後でした……。
私を監視していらしたあなた方には、お分かりでしょう……」

女神は、子供のように唇を尖らせた。
「知らないわよ、そんなこと。
それに、今の話が本当だとしても、お前が、わたくし達の敵、忌まわしい悪魔であることに変わりはないわ」
「……その通りですね」
魔物の王子は、淋しげに微笑んだ。

そんな彼の表情に、つい見とれてしまった女神は、苛立たしげに指を突きつけた。
「そういう表情で、女を誘惑するのね!
でも、わたしは騙されないわよ!
そのご自慢の顔を、切り刻んでやりたいくらいだわ!」

「どうぞご自由に。どの道、私は処刑される身、顔だけに限らず、ご存分になさって下さい。
これ以上、ミカエルに(なぶ)られ、もてあそばれるよりは、いっそ、お美しい女性の手で……。
ウリエルも、私への思いを忘れようと努めていたようですが、ミカエルが、拷問を名目に私を無理矢理、……それを知って、彼は頭に血が昇ってしまい……」
「や、やめよ、サマエル! そんな汚らわしい話を、フレイア様のお耳に入れるな!」
ラファエルは、たまりかねたように声を(あら)らげる。

実際にはあきれただけで、ウリエルは、ミカエルの行動に腹を立てるようなことはなかった。
しかし、今となっては、真実を知っているのはサマエルだけである。
彼は、天使長の立場をさらに悪く出来そうな、絶好の機会を逃さなかったのだ。

そんなこととは知らないフレイアは、きりりと柳眉(りゅうび)を逆立てた。
「まあ、そうだったの、何もかも、ミカエルのせいなのね!?
いくら綺麗でも、男の魔物にまで手を出すなんて、信じられない!
本っ当に、どうしようもないわ、純情なウリエルが怒るのも当然よ、それを返り討ちにしたのね、あの卑劣な男は!」

「お待ち下さい、でたらめです。
ウリエルが魔物に一目惚れしたの、天使長様が、ふしだらなことをしたなど……」
ラファエルは一応弁護するものの、声に熱意はなかった。

「お黙り、ラファエル! わたくしが、ミカエルの素行を知らないとでも思って?
じゃ、アスベエルに聞くわ、サマエルの話が本当かどうか」
女神は大天使を睨みつけ、それから看守長を見た。
「お前なら分かるでしょ、看守の長なんだから」

「……はい。本当です……」
アスベエルは、仕方なく肯定した。
「一目惚れした話は、ウリエル様から直に聞きました……あと、天使長様は……。
俺達看守の目の前で、そのぉ……」
彼は、穴があったら入りたいような風情で言いよどむ。

「何ですって!?
……いやあねぇ、本当におぞましいわ、あんなケダモノが天使長だなんて!
こっちの魔物の方が、ずっと上品じゃないの」
拾い上げた扇の陰でフレイアは、可愛らしい顔を思い切りしかめた。
「あ、いえ、ミカエル様は、職務熱心のあまり……」

「いいわよ、あんなのをかばわなくても。
わたくし、ウリエルが天使長ならよかったのにって思うわ。
そして、副官は、まるで奥方みたいに、いつも世話を焼いてたラファエルが、ぴったりだったのに」
「ご、ご冗談を、フレイア様」
思わず、ラファエルは顔を紅潮させる。

「でも、いい覚悟ね、サマエル。気に入ったわ、これ、渡してあげる」
女神は、ペンダントを手の上に乗せて見せた。
サマエルは、ほっと息をつき、頭を下げた。
「ありがとう存じます。
その石は、今の妻が私にくれた、ウィルゴという貴石……この世にただ一つしか存在しない、私にとりましては、命に代えても惜しくない宝物なのです……」

「え、一つしか存在しない?」
フレイアは、可愛らしく小首をかしげた。
「はい。ご存じの通り、妻は“焔の眸”という宝石の化身です。
涙を始め、体液全てが宝石になります……そしてこれは、私と妻が初めて結ばれたときに出来た石でして……」

「ま……」
今度は、女神が頬を赤らめた。
「も、もう、その話はいいわ。檻を開けてちょうだい、アスベエル」
「はい」
「我らがご先導致します、フレイア様」

鍵が開けられると、ラファエルとメタトロンが競うように中に入り、威嚇(いかく)するように、槍の穂先をサマエルに向けて、後ろに退らせた。
ラグエルとラジエルは、サリエルに槍を突きつけたまま、外に残る。
看守長を従え、女神が檻に入って来ると、サマエルは後ずさった。

「わたくしが怖いの? さっきの言葉は取り消すわ。顔を傷つけたりはしないわよ」
サマエルは、首を横に振った。
「いえ、私はインキュバスです……女性には、近寄らない方がいいと思いますから……」
「その通りです、フレイア様。 俺、いや、わたしが渡します、お貸し下さい」

「いいわよ、わたくしがやるんだから」
アスベエルが差し伸べた手を邪険に振り払い、フレイアは彼に近づいていく。
「フレイア様!」
慌てるラファエルに構いもせずに、女神はどんどん進んだ。

サマエルは、ますます後ろに下がり、背中が壁に突き当たると、体を縮込めた。
「何よ、そんなに怯えて! わたくしの言うことが、信じられないの!?」
「いえ、私が触れれば、あなたが汚れます。そこに投げ捨てて下さい、拾いますから……」

少しためらったのち、女神はペンダントを彼に向かって投げた。
「……ありがとうございます、ああ、やっと……」
サマエルは手枷のはめられた手で器用にそれを受けとめ、禍々しい美しさを宿した紅い宝石に口づけた。
その途端、爆発したように貴石が輝き、紅い光が檻を覆い尽くした。

「きゃっ、何!?」
「危ない、フレイア様!」
とっさに、アスベエルは女神をかばう。
「女神様を外へ!」
ラファエルが出口を指差す。
「はい! フレイア様、こちらに!」
アスベエルは夢中で女神の手をつかみ、檻の外へ連れ出す。

次の瞬間、檻の中央に、紅い光に包まれて、長い髪の女性が出現した。
「何者!?」
「侵入者!? まさか、どうやって!?」
槍を構える二人の天使を突き飛ばし、サマエルは女性に駆け寄った。
「フェレス、会いたかった!」
二人の美男美女は抱き合い、口づけを交わした。

だが、すぐに女性は消え、サリエルと同じ年頃の少年が現れた。
「ゼーン!」
またも、彼らは抱き合うが、相手はやはり、瞬く間に消えてしまう。
次に、炎のたてがみを持つライオンが現れて咆哮(ほうこう)し、皆の度肝を抜いた。
「シンハ!」
サマエルは、波打つ黄金の毛並みに抱きつき、ライオンの鼻面にキスする。