~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

11.黄金の女神(1)

「アスベエルの様子は?」
看守達に助け下ろされながら、サマエルは尋ねた。
「大丈夫ですよ、軽い脳貧血のようで、もう意識は戻ってますから。
サマエル様を早くお助けしたくて、大げさに言ったのです」
ベリアスは答えた。
「……そうか」
サマエルは、ほっとした。

「お気の毒に、看守長が日中に外出したのは、三千年ぶりだそうで。
マトゥタ様ご存命中は、半年に一度は許可を得てお屋敷を訪ねていらしたんですが、そのときも、日没後に出て、戻るのも夜中でしたから。
……ともあれ、よかったです、診療所行きにならなくて」
ベリアスも、安堵の表情をした。

「診療所……行くと、何か罰でも受けるのかい?」
サマエルは、不思議に思って訊いた。
「いえ、そういうわけではないのですが。
天使は自力で回復出来るので、診療所に運ばれるのは、よほどの重症に限ってですが、あそこでも手の施しようがないと、すぐ隣にある、闇の塔へ送り込まれてしまいますので……」

「そうか、天使にとっては、あまり行きたくない場所なのだな」
すると、もう一人の看守が口を挟んだ。
「もちろんです。皆、地獄の入り口とか、地獄の門なんて呼んでいますよ」
「……なるほど。また何かあったら教えてくれ」
「はい」

アスベエルは、休養のため、一週間の休みをもらったということだった。
その間、ラファエルは姿を見せず、サマエルは、焦る気持ちを抑えていた。
(失敗したときに失意のどん底に陥る、それが一番恐ろしい……絶望は思考を麻痺させ、行動力を奪うから……。
希望を持たず、絶望もせず、平常心でいること……それが、成功への近道……)
彼は、自分にそう言い聞かせ、朝食を終えた後、緊迫した状況続きで消耗し、檻に削り取られていく体力を少しでも温存しようと、うたた寝を始めた。

どれほど経ったのだろう。
「よし、水は揃ったな。
それにしても、もっとましな服はないのか。ない? なら作れ!」
きびきびと命じる声に、サマエルは、浅い眠りを破られた。
眼を開けると、ラファエルが檻の中に入って来るところだった。
その後ろに、看守達が、手桶を持って後に続く。

「おい、サマエル、起きろ!」
ラファエルは、彼の枕元で怒鳴った。
「起きているよ、何の騒ぎだ?」
言いながら、サマエルは身を起こす。
「何でもいい、今すぐ、裸になれ!」
「えっ、あ、朝から看守の前で……?」
サマエルは思わず、服とも呼べない囚人服を押さえた。

ラファエルは、真っ赤になり、叫んだ。
「か、勘違いするな、お前の体を洗うだけだ!」
「体を……? その後で、するのかい?」
「違うと言うのに! いいから脱げ!」
言うなり大天使は、強引に彼の着衣を剥ぎ取り、全裸にした。
「あ、嫌……」

「よし、水をかけろ!」
ラファエルの命令一下、看守達は、運んで来た手桶の水を、彼に浴びせかけ始めた。
「うぷ……や、やめ……」
あっという間に彼はずぶ濡れになり、床も水浸しになった。
冷水で体を洗うことには慣れていた彼も、これはまったくの予想外だった。
長い髪が全身に張りつき、気持ちが悪い。
彼は頭を振って雫を切り、手で顔をぬぐって文句を言った。
「ああ、もう。一体これは、何のプレイなのだ?」

それには構わず、濡れそぼった髪を、ぐいとつかんで彼を引き寄せ、ラファエルは臭いを嗅ぐ。
「う、何……」
「……ふん、まあいいだろう、元々、さほど臭くもなかったからな。
さあ、体をふいて着替えろ」
大天使は、乾いた布と服を彼の手に押し付けた。
「……ふう。何なのだ、まったく」
サマエルは、ため息をつき、びしょ濡れの体に布を羽織った。

「それと、壁と床の掃除だ。昼過ぎまでに済ませるように。
人手が足りぬのであれば、調達するぞ」
「いえ、大丈夫です、毎日磨いておりますし、我々だけで」
ベリアスが答える。
「では、昼食後にまた来る」
そう言い残し、ラファエルは、風のように去って行った。

あっけに取られていたサマエルは、気を取り直して尋ねた。
「何事なのだい、ベリアス?」
「わたしにもさっぱりですよ。今朝、おいでになって、いきなり……」
「ふうん……? ともかく、命令通りにした方がよさそうだな」
「そうですね、あ、手枷をお外ししましょう」
「ああ、頼む」

看守達が掃除を開始する中、サマエルは檻の隅で、服に袖を通した。
八分丈のズボンと長袖の襟なしシャツは、やはり粗悪な麻布で出来ていたが、上下に分かれて洋服の体裁をとっているというだけでも、ただの布切れのようだった、前のものとは段違いだった。

掃除の後、ベリアスの手を借りて、輝く銀髪に櫛目を通し、後ろで束ねる。
どんな服を身につけようと、彼の貴族的な風貌は隠しようもなかった。
それどころか、お忍びで農婦に身をやつした高貴な女性のようにも見えて、看守達の口からは溜め息が漏れた。

「支度は済んだか、サマ……」
昼食後、やって来た大天使は、サマエルを一目見るなり絶句した。
「……何と美々(びび)しい……」
思わず賛美が口を突いて出てしまってから、ラファエルは慌てて首を横に振る。
「い、いや、いかん、わたしとしたことが……これでは駄目だ」
大天使は、魔法で黒い木綿のローブを出し、檻の中に放って寄越した。

「これを上に着て、フードもかぶって顔を隠しておけ。
看守、掃除は終わったな? ……ふむ、よし、あとはお前達、そこに一列に並べ。
では、お通しするゆえ、皆、粗相(そそう)無きようにな。
特に、サマエル。
お前が、何か仕出かしたら、大事な息子やアスベエルにまで(るい)が及ぶことを肝に命じておけ」
大天使は、再び戻っていく。

看守達は、大急ぎで檻の外に並んだ。
サマエルは、ローブを羽織りながらつぶやく。
「やんごとないお方のご登場、か」
「と仰いますと……?」
ベリアスが聞き返したとき。

「まったくもう、ラファエルったら、大げさなんだから。
ちょっとだけ、夢魔ってものを、見てみたかっただけなのに」
甲高い声が響き、小柄な女性の姿が視界に入った。

その後ろを、ラファエルが小走りについて来た。
「やはり、おやめになった方がよろしいかと、相手は、名うてのインキュバス、お近くに寄られただけで、(けが)れが移るかも知れませぬゆえ」
「イ・ヤ。せっかく、ひいお祖父様に許して頂いたのよ。
こんな機会、もう絶対、ないに決まってるんだから」
「ですが……」

彼らの後に六人の天使が続く。中の一人は、アスベエルだった。
「ラファエル様の仰る通りです、お戻り下さいませ」
「まあ、お前まで何を言うの、アスベエル。もう……」
女性は、ぷっと頬を膨らませたが、すぐに、看守長の向こう側にいた天使に話しかけた。
「そうだわ、サリエル、お前はどう思うの?」

「え、ぼ、僕は……その、父上はお優しい方だから、大丈夫だと思いますけど……」
「ほら。サリエルだって、こう言ってるわよ」
「それはそうでございましょう、自分の親のことを悪く言う者はおりませぬ」
苛立ちを隠し、ラファエルは答える。

(おお……)
サマエルは、心の高鳴りを覚えた。
歩み寄って来るのは、もう会えまいと半ば諦めていた息子……複製ではない、本物のサリエルだったからだ。

思わず立ち上がり、彼が、檻の出口に近づきかけたとき、一行は立ち止まり、女性は扇で彼を指した。
「あれが、お前の父親なの、サリエル?」
「は、はい、そうです……」

口調や態度は高慢だが、どこか愛嬌があるその少女は、肩のところで切り揃えた金髪を後ろに振りやり、活発そうな黄金の眼をくりくりさせ、サマエルを物珍しげに見回した。
「顔がよく見えないわ、こちらへ来て、フードを取りなさい」
「フ、フレイア様、ですから……」
「もういいわ、お黙り」
ラファエルが止めようとするが、女性は手を振って、それを退けた。

(フレイア、だって……!?)
その名と、可愛らしい顔に覚えがあったサマエルは、はっとした。
黄金の女神とも呼ばれるこの女神の姿は、シェミハザに見せられた神々のリストの中に、たしかにあった。

「それにしても、眩しいわね。もう少し、光を弱く出来ない?」
女性は扇をかざし、尊称の由来となった金の眼をすがめた。
「それは無理です、フレイア様。この光が、檻を守っているのですから。
弱くすれば、たちまち檻が破られてしまいますよ」
ラファエルは答えた。

「ふうん……なら仕方ないわね」
女性は向きを変え、サマエルを手招いた。
「聞こえなかったの、お前、早くここへ来なさい。フードも取るのよ」
言われた通り近づいて行きながら、サマエルは内心の興奮を抑え、息子に声をかけた。
「サリエル、こちらの女性はどなたかな?」

「頭が高いぞ、こちらは天帝様の曽孫(そうそん)に当たられる、フレイア女神様である、ひざまずけ、サマエル!」
七大天使の一人、メタトロンが槍を床につき、声高に命じた。
同時に、監視役の天使、ラグエルとラジエルが、サリエルの胸元に、さっと槍を突きつける。

先ほどのラファエルの言葉は、単なるこけ脅しではなかった。
わざわざ本物を連れて来たのは、淋しがるサリエルを父親に会わせる口実の元に、万が一にもサマエルが、天界の重要人物に手を出すことのないよう、予防線を張ったのだろう。

(……想像以上に頭が切れるな、ラファエルは。
もし、ウリエルが天使長となり、彼が副官を務めることになっていれば、戦局は、どう転んだか分からない……)
ともかく、今は命令の通りにしなければ、息子が命の危険にさらされる。
サマエルはその場にひざまずき、(こうべ)を垂れた。

「それじゃ見えないわ、顔を上げなさいって言ってるでしょう!」
女神は、短気を起こしたように叫んだ。
「め、女神様、それでは示しが……」
「メタトロン、相手は檻の中よ、何が出来るって言うの。
ここじゃ、魔法も使えないんでしょ」

「その通りです、ご聡明な女神様。
改めまして、お初にお目文字致します、魔族の第二王子、サマエルと申します」
サマエルは優雅に胸に手を当て、うやうやしく頭を下げた。
「このような、むさ苦しい場所にわざわざのお運び、恐悦至極(きょうえつしごく)に存じます。
美しき妙齢の女神様に、こんなみすぼらしいなりでお目にかかるのは不本意ではございますが、何分、私は虜囚の身。
哀れと(おぼ)し召して無作法の段、何とぞご容赦下さいませ」
そうして、彼は顔を上げ、ゆっくりとフードを取る。

彼の完璧な立ち振る舞いとその美貌に、フレイアはぽかんと口を開け、扇が手から落ちたのにも気づかなかった。
「まああ……魔物なんて皆、汚くて野蛮で、いやらしいものだとばかり思っていたわ……。
お前、サリエルに似てるけど、もっとずっと綺麗ね……」

サマエルは肩をすくめた。
「お()めに預かり恐縮に存じますが、我らとて、礼儀作法は存じておりますよ、女神様。
高貴なお方のご訪問という栄誉に浴しましたのは、あなた様が、ペンダントをお持ちだからなのでしょうね」
「ど、どうしてそれを!?」
ラファエルは眼を見開いた。

「あら、分かった? さすがね。
男の癖にって思ったけど、わたくしだって一目で気に入ったくらいだもの、手放したくないわよねぇ。
だから、これを持って行くついでに、持ち主を見たいってひいお祖父様にお願いしたのよ」
フレイアは、首から提げていたペンダントを取り出す。
胸元から現れたのは、妖しく輝く紅い宝珠……サマエルは思わず息を呑んだ。

びびしい【美美しい】

1 はなやかで美しい。きらびやかである。2 好ましい。りっぱである。

やんごとない【止ん事無い】

1 家柄や身分がひじょうに高い。高貴である。