~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

10.大天使の落し物(4)

「まともな天使が、息子達の後見人になってくれてうれしいよ、ラファエル」
サマエルの言葉に、大天使は不機嫌な顔になった。
「お前を喜ばせるためではない。
それに、息子達? アスベエルは、お前の子などではないぞ」

「分かっているが、息子の義兄弟だし、二人共、幸せであって欲しいと願っても、罰は当たるまい。
これからも、よろしくお願いする」
サマエルは、軽く頭を下げた。
「ふん。捕虜の癖に態度が大きいな」
大天使は彼を横目で見、腕組をした。

「では、これが私の誠意だ。どうか、息子をよしなに、大天使ラファエル殿」
何のためらいもなく、サマエルは、檻の床に(ぬか)ずいた。
「敵に土下座!? く、プライドがないのか、お前は!」
ラファエルは、かっとなり、編み上げサンダルの足で、彼の頭を踏みつけた。

「そんなもの、何の役に立つのだ、この状況で。腹も膨れないぞ」
サマエルは、(いまし)められた手を差し上げて見せ、淡々と話し続けた。
「私も、親の愛情を知らないから、つい、お節介を焼いたのさ。
最初の子のときは、前妻に叱られたものだよ、過保護は子供を駄目にするとね。
ともあれ、同族の中に居場所があるのはいいことだ。
どうか、さっきの一幕は、なかったことにしてもらいたい」

彼の頭に足を乗せたまま、大天使は肩をすくめた。
「言われるまでもない。アスベエルに、裏切りなど出来るものか。
義兄弟に父親が現れ、(うらや)ましくなっただけだろう。
諸事情から看守の長に()いてはいるが、まだ子供だ」

「ありがたい。これで、命短いサリエルも、辛い思いはせずに済みそうだ」
「何? ──うわ」
ラファエルが体勢を崩しかけ、足を下ろした隙に、上体を起こしたサマエルは、相手の眼を捉え、念押しするように尋ねた。
「息子は、長くは生きられないのだろう?」

「何を言うか。お前が父親でも、彼は女神の血を引く、恭順(きょうじゅん)の意を表している間は、命は保障される。
例のホムンクルスは、不幸な事故で……」
「いや、私が言いたいのは、息子の寿命は元々短いのだろう、ということだ」
大天使をさえぎり、サマエルはすっくと立ち上がった。
「な、何ゆえ、そう思うのだ?」
大天使はぎくりとし、一歩後ろに下がる。

「サリエルは、体の割に翼は小さく、言動も幼い。
額のわずかな盛り上がりが、埋もれたままでいる角なら、おそらくは生殖能力もない……三つの種族の遺伝子が複雑に混ざり合った結果で、長く生きられるとは、とても思えないな。
だからこそ、今まで生かされて来たのだろう、さもなくば、女神が処刑され、複製が創られた時点で、地下室送りにされていたはずだ」

「たしかに、生まれた直後の検査では、寿命は短いとされたようだがな、女神の血を引く者が、生体実験に回された前例はないぞ」
「……ならばいいが。女神は知っていたのか? このことを」
「教える必要もないだろう、いかなる理由にせよ、親子が引き離されることもなく済んだのだ」
「……女神の処刑までは、か」
サマエルは悲しげに首を振り、それから、ふと気づいたように、檻の外の壁を指差した。

「お前は、あれを使わないのか?
サリエルに言ったのは方便で、やはり、私を拷問する気なのだろう?」
ラファエルは、壁の拷問道具に視線を送り、眉をしかめた。
「……むう。だが、翼をもがれても平気なお前が、今さらあんな物で吐くとは思えぬが」
「そうだな。元々、インキュバスは、女性を相手にするように出来ている。
道具などより、男に(なぶ)られる方がよほど苦痛だ、自白させるには後者が有効だな」
サマエルは、まるっきり他人事のように答えた。

大天使は、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「さては、ミカエル様やウリエルにも、そう言ってたらしこんだのだな!
通常の拷問よりも効果的だとか、そのよく回る舌で!」
「それは誤解だ。看守達に訊いてみるがいい。
ミカエルは、口も利けずにいた私に、発情した犬も同然にのしかかって来たし、ウリエルは……」
「黙れ!」
大天使は檻を飛び出し、拷問道具を引っつかんだ。

「その鞭よりも、隣のが効果が高いと思うぞ」
平然とサマエルは言ってのける。
「く、わたしに指図するな!」
そう答えつつも、二つ鞭を手にし、檻の中へ取って返したラファエルは、ぎょっとした。
「な、何をしている!?」

「何って、服は邪魔だろう? こうして腰布も着けている、半裸でも、男同士なら平気だろうに」
サマエルは、囚人服を脱いできちんとたたみ、脇に置いていたのだ。
黄金の光に浮かび上がる、(なまめ)かしい肌が、大天使の怒りを買った。

「くうう……そんな生っ白い肌を露出して、わたしを誘惑出来るとでも思っているのか!?」
ラファエルは、頭から湯気を出す勢いで怒鳴り、天井から下がる鎖に彼の手枷をつなぐと、力任せに鞭打ちを始めた。
キャット・オブ・ナインテイルという名称の革鞭の、いくつもに分かれた先端には硬い結び目があり、振り下ろされるたび、剥き出しの肌に痛々しいみみず腫れを残していくのだった。

しばらくの間、大天使は、狂ったようにサマエルを打ち据えていた。
吊るされた腕はしびれ、体は無残な傷に覆われていく。
それでも、苦痛には慣れていた、小さな頃から。
鞭を振るうラファエルの方が、彼より、よほど苦しげだった。
天使長が拷問官を兼ねているため、看守を含めた他の天使は、拷問行為には慣れていないのだろう。

魔界の王子が声も上げずに耐えているうち、大天使はついに疲れ果て、床に片膝をついてしまった。
「て、敵、ながら、天晴(あっぱ)れ、と言う、べきか……。命乞い、など、せぬのであろうな、お前は……」

切れた唇を無理に動かし、サマエルは答えた。
「命を捨てる覚悟なら、とっくに出来ている……。
元々、私は、天界との開戦に先立ち、アナテ女神への人身御供(ひとみごくう)として殺されるはずだった……兄の気まぐれで生かされた身、どうとでもするがいい……。
ただ、息子にだけは……生きていてよかったと、笑って死ねるような人生を送ってもらいたい、それだけだ……」

「……安心しろ、後顧(こうこ)(うれ)いは無用だ。
わたしの眼の黒いうちには、誰もサリエルには手出しさせぬ」
ラファエルは、自分の胸をたたいた。
「ありがたい……さすが、ウリエルの親友だな」
サマエルは、にっこりした。

大天使は頭を振り、滴る汗を拳でぬぐった。
「親友? 違うな、彼ら同様、わたし達も義兄弟だ。
人界から来たわたしの母と、大天使だった父が、わたしと一緒にウリエルを……それこそ実子同然に育てたのだが、彼は、実母に複雑な思いを抱いていたようでな……。
そもそも、先代ウリエルと女神との婚姻は、うまくいかなかった。
先代の葬式にさえ女神は参列せず、さらには息子の養育も拒んだ……。
片親が大天使の場合、子は神に列せられず、大天使となる決まりがあるため、あまり愛情が湧かなかったのだろうが……」

「ああ、それで……私に同情的だったのか……。
お前の言う通り、ウリエルの死は私のせいかもな……。
そういうことなら、知恵をつけてやればよかった……彼に飼われてみるのも、一興だったかも知れないのに……」
サマエルはうなだれた。

「ふん。今さら遅いが、どんな知恵だ?」
好奇心から、ラファエルは尋ねた。
サマエルが、魔界の参謀と呼ばれる知恵者であることは、天界でもよく知られていたのだ。

「そう……例えば、私を飼うに当たっては、光の檻と同じ物を屋敷の地下に作り、押し込めておくことにすると言えばいい、とか……。
そうしておいて、さらに私の体を女に変え、子供を産ませれば、彼の愛と子供、この二つで縛っておけるだろう……そんな風に言えば、お前の言い分も通るかも知れないとか……。
そうしたら、ウリエルは投獄もされず、生きていられたのだろうか……」
サマエルは、冥福を祈るように眼を閉じた。

しばし、彼をじっと観察していた大天使は、つぶやいた。
「サマエル……お前は、恐ろしいな」
意外な言葉に、彼は眼を開けた。
「今頃、何を言っている? 私は紅龍なのだぞ」

ラファエルは、力なく、首を横に振った。
「いいや、真に恐ろしいのは、紅龍の力などではない、お前の話術だ。
お前の話は、すっと相手の心に浸透し、警戒心を解く。
気づくと、おのれのことを話すように仕向けられている……。
それは、お前が、偽りのない心情を吐露(とろ)しているゆえだ。
決して、嘘を信じさせようとか、騙そうとか考えず、あくまでも正直に……しかも、相手のためになるような提案までする……。
そんなお前に魅入られて、一人が命を落とし、さらに一人が堕天するところだった……」

「……ではどうする? もっと私を鞭打つか?
それとも、舌を切り落とすか? もう誰のことも、誘惑出来ないように?」
サマエルは、ぺろりと舌を出して見せた。

「この……!」
大天使は、さっと気色(けしき)ばんだが、すぐに体の力を抜いた。
「やめておく。わたしには、相手に苦痛を与えて喜ぶ性癖はない。
拷問したが吐かなかった、そう報告するさ。実際、そうだったからな。
それより、お前は、ペンダントに執着しているようだが?」

「……ああ、聞いていたのだったな。
妻が創り出したあの宝石には、私達が結ばれた情景が記録されていて、繰り返し見ることが出来るのだ」
「そんなものを記録? 何度も見返すなど……」
大天使は、鼻にしわを寄せた。

「元々、“焔の眸”本体は、化身の経験を、余すところなく記録しているからな。
喜びも悲しみも、苦痛までもだ。
あれには、愛し合う部分だけが切り取られ、入っているに過ぎない」
「……ふん、誰かに見られると、恥ずかしいとでもいうつもりか?」

「いや、見ることが出来るのは、私と妻だけだ。そうではなくて……」
サマエルは口を濁した。
「どうした?」
「息子を帰してくれてよかったよ、子供には聞かせられない話だ……」
「何だと」
ラファエルはしかめ面をした。

「つまり、淫魔は食事だけでは満たされない。どうしても相手が必要だ。
我慢の限度を超えると、誰彼構わず襲いかかってしまう危険性もある。
看守が一番危ないが、アスベエルにはこれ以上、苦痛を与えたくはない……。
そういう衝動を鎮めるのに、あれは必要なのだ、分かってくれ」
哀願するようにサマエルは言った。

「誰が分かるか、汚らわしい!」
大天使は、不快極まりないといった顔で横を向いた。
「だが、魔界の王族が淫魔になったのは、お前達のせいではないか。
我らは種の保存のために……」
「もうよい、聞きたくもない。自白せぬならペンダントはやらぬ、それだけだ」
ラファエルの答えは、そっけなかった。

「むう……」
サマエルは困り果てたが、ともかく提案してみた。
「では、こうしよう。
ともかく一旦、あれを渡してくれないか、そうすれば、私も、気が変わるかも知れない……」
「ふむ。駄目なら、取り戻せばいい、か……」
大天使が考え込んだとき、天使がニ人、駆けて来た。

「ラファエル様、大変です! 看守長殿が倒れました!」
「何、アスベエルが!? 話はまた後だ、お前達、囚人を下ろしてやれ!」
指図もそこそこに、ラファエルは檻を走り出て行った。

ぬかずく【額突く/叩頭く】

ひたいを地につけて拝礼する。ひたいが地につくほどに丁寧にお辞儀をする。

キャット・オブ・ナインテイル

柄に九つ、もしくはそれ以上の数の革紐を取り付けた拷問器具。
一度の振りで多くのみみず腫れを起こす。房が多い分一本一本の威力が低く戦闘用には向かないが、拷問用としては致命傷を与えにくいことが長所となる。

ひとみごくう【人身御供】

1 人間を神への生け贄(にえ)とすること。また、その人間。人身供犠(じんしんくぎ)。
2 集団または特定の個人の利益のために、ある個人を犠牲にすること。また、その個人。

きょうじゅん【恭順】

命令につつしんで従う態度をとること。

こうこのうれい【後顧の憂い】

あとに残る気遣い。あとあとの心配。

Gloria in excelsis Deo (グロリア・イン・エクチェルシス・デオ)

(挿絵の天使が持つ巻物に書かれた言葉)
『天のいと高きところには神に栄光あれ』を意味する教会ラテン語成句。