10.大天使の落し物(4)
「まともな天使が、息子達の後見人になってくれてうれしいよ、ラファエル」
サマエルの言葉に、大天使は不機嫌な顔になった。
「お前を喜ばせるためではない。
それに、息子達? アスベエルは、お前の子などではないぞ」
「分かっているが、息子の義兄弟だし、二人共、幸せであって欲しいと願っても、罰は当たるまい。
これからも、よろしくお願いする」
サマエルは、軽く頭を下げた。
「ふん。捕虜の癖に態度が大きいな」
大天使は彼を横目で見、腕組をした。
「では、これが私の誠意だ。どうか、息子をよしなに、大天使ラファエル殿」
何のためらいもなく、サマエルは、檻の床に
「敵に土下座!? く、プライドがないのか、お前は!」
ラファエルは、かっとなり、編み上げサンダルの足で、彼の頭を踏みつけた。
「そんなもの、何の役に立つのだ、この状況で。腹も膨れないぞ」
サマエルは、
「私も、親の愛情を知らないから、つい、お節介を焼いたのさ。
最初の子のときは、前妻に叱られたものだよ、過保護は子供を駄目にするとね。
ともあれ、同族の中に居場所があるのはいいことだ。
どうか、さっきの一幕は、なかったことにしてもらいたい」
彼の頭に足を乗せたまま、大天使は肩をすくめた。
「言われるまでもない。アスベエルに、裏切りなど出来るものか。
義兄弟に父親が現れ、
諸事情から看守の長に
「ありがたい。これで、命短いサリエルも、辛い思いはせずに済みそうだ」
「何? ──うわ」
ラファエルが体勢を崩しかけ、足を下ろした隙に、上体を起こしたサマエルは、相手の眼を捉え、念押しするように尋ねた。
「息子は、長くは生きられないのだろう?」
「何を言うか。お前が父親でも、彼は女神の血を引く、
例のホムンクルスは、不幸な事故で……」
「いや、私が言いたいのは、息子の寿命は元々短いのだろう、ということだ」
大天使をさえぎり、サマエルはすっくと立ち上がった。
「な、何ゆえ、そう思うのだ?」
大天使はぎくりとし、一歩後ろに下がる。
「サリエルは、体の割に翼は小さく、言動も幼い。
額のわずかな盛り上がりが、埋もれたままでいる角なら、おそらくは生殖能力もない……三つの種族の遺伝子が複雑に混ざり合った結果で、長く生きられるとは、とても思えないな。
だからこそ、今まで生かされて来たのだろう、さもなくば、女神が処刑され、複製が創られた時点で、地下室送りにされていたはずだ」
「たしかに、生まれた直後の検査では、寿命は短いとされたようだがな、女神の血を引く者が、生体実験に回された前例はないぞ」
「……ならばいいが。女神は知っていたのか? このことを」
「教える必要もないだろう、いかなる理由にせよ、親子が引き離されることもなく済んだのだ」
「……女神の処刑までは、か」
サマエルは悲しげに首を振り、それから、ふと気づいたように、檻の外の壁を指差した。
「お前は、あれを使わないのか?
サリエルに言ったのは方便で、やはり、私を拷問する気なのだろう?」
ラファエルは、壁の拷問道具に視線を送り、眉をしかめた。
「……むう。だが、翼をもがれても平気なお前が、今さらあんな物で吐くとは思えぬが」
「そうだな。元々、インキュバスは、女性を相手にするように出来ている。
道具などより、男に
サマエルは、まるっきり他人事のように答えた。
大天使は、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「さては、ミカエル様やウリエルにも、そう言ってたらしこんだのだな!
通常の拷問よりも効果的だとか、そのよく回る舌で!」
「それは誤解だ。看守達に訊いてみるがいい。
ミカエルは、口も利けずにいた私に、発情した犬も同然にのしかかって来たし、ウリエルは……」
「黙れ!」
大天使は檻を飛び出し、拷問道具を引っつかんだ。
「その鞭よりも、隣のが効果が高いと思うぞ」
平然とサマエルは言ってのける。
「く、わたしに指図するな!」
そう答えつつも、二つ鞭を手にし、檻の中へ取って返したラファエルは、ぎょっとした。
「な、何をしている!?」
「何って、服は邪魔だろう? こうして腰布も着けている、半裸でも、男同士なら平気だろうに」
サマエルは、囚人服を脱いできちんとたたみ、脇に置いていたのだ。
黄金の光に浮かび上がる、
「くうう……そんな生っ白い肌を露出して、わたしを誘惑出来るとでも思っているのか!?」
ラファエルは、頭から湯気を出す勢いで怒鳴り、天井から下がる鎖に彼の手枷をつなぐと、力任せに鞭打ちを始めた。
キャット・オブ・ナインテイルという名称の革鞭の、いくつもに分かれた先端には硬い結び目があり、振り下ろされるたび、剥き出しの肌に痛々しいみみず腫れを残していくのだった。
しばらくの間、大天使は、狂ったようにサマエルを打ち据えていた。
吊るされた腕はしびれ、体は無残な傷に覆われていく。
それでも、苦痛には慣れていた、小さな頃から。
鞭を振るうラファエルの方が、彼より、よほど苦しげだった。
天使長が拷問官を兼ねているため、看守を含めた他の天使は、拷問行為には慣れていないのだろう。
魔界の王子が声も上げずに耐えているうち、大天使はついに疲れ果て、床に片膝をついてしまった。
「て、敵、ながら、
切れた唇を無理に動かし、サマエルは答えた。
「命を捨てる覚悟なら、とっくに出来ている……。
元々、私は、天界との開戦に先立ち、アナテ女神への
ただ、息子にだけは……生きていてよかったと、笑って死ねるような人生を送ってもらいたい、それだけだ……」
「……安心しろ、
わたしの眼の黒いうちには、誰もサリエルには手出しさせぬ」
ラファエルは、自分の胸をたたいた。
「ありがたい……さすが、ウリエルの親友だな」
サマエルは、にっこりした。
大天使は頭を振り、滴る汗を拳でぬぐった。
「親友? 違うな、彼ら同様、わたし達も義兄弟だ。
人界から来たわたしの母と、大天使だった父が、わたしと一緒にウリエルを……それこそ実子同然に育てたのだが、彼は、実母に複雑な思いを抱いていたようでな……。
そもそも、先代ウリエルと女神との婚姻は、うまくいかなかった。
先代の葬式にさえ女神は参列せず、さらには息子の養育も拒んだ……。
片親が大天使の場合、子は神に列せられず、大天使となる決まりがあるため、あまり愛情が湧かなかったのだろうが……」
「ああ、それで……私に同情的だったのか……。
お前の言う通り、ウリエルの死は私のせいかもな……。
そういうことなら、知恵をつけてやればよかった……彼に飼われてみるのも、一興だったかも知れないのに……」
サマエルはうなだれた。
「ふん。今さら遅いが、どんな知恵だ?」
好奇心から、ラファエルは尋ねた。
サマエルが、魔界の参謀と呼ばれる知恵者であることは、天界でもよく知られていたのだ。
「そう……例えば、私を飼うに当たっては、光の檻と同じ物を屋敷の地下に作り、押し込めておくことにすると言えばいい、とか……。
そうしておいて、さらに私の体を女に変え、子供を産ませれば、彼の愛と子供、この二つで縛っておけるだろう……そんな風に言えば、お前の言い分も通るかも知れないとか……。
そうしたら、ウリエルは投獄もされず、生きていられたのだろうか……」
サマエルは、冥福を祈るように眼を閉じた。
しばし、彼をじっと観察していた大天使は、つぶやいた。
「サマエル……お前は、恐ろしいな」
意外な言葉に、彼は眼を開けた。
「今頃、何を言っている? 私は紅龍なのだぞ」
ラファエルは、力なく、首を横に振った。
「いいや、真に恐ろしいのは、紅龍の力などではない、お前の話術だ。
お前の話は、すっと相手の心に浸透し、警戒心を解く。
気づくと、おのれのことを話すように仕向けられている……。
それは、お前が、偽りのない心情を
決して、嘘を信じさせようとか、騙そうとか考えず、あくまでも正直に……しかも、相手のためになるような提案までする……。
そんなお前に魅入られて、一人が命を落とし、さらに一人が堕天するところだった……」
「……ではどうする? もっと私を鞭打つか?
それとも、舌を切り落とすか? もう誰のことも、誘惑出来ないように?」
サマエルは、ぺろりと舌を出して見せた。
「この……!」
大天使は、さっと
「やめておく。わたしには、相手に苦痛を与えて喜ぶ性癖はない。
拷問したが吐かなかった、そう報告するさ。実際、そうだったからな。
それより、お前は、ペンダントに執着しているようだが?」
「……ああ、聞いていたのだったな。
妻が創り出したあの宝石には、私達が結ばれた情景が記録されていて、繰り返し見ることが出来るのだ」
「そんなものを記録? 何度も見返すなど……」
大天使は、鼻にしわを寄せた。
「元々、“焔の眸”本体は、化身の経験を、余すところなく記録しているからな。
喜びも悲しみも、苦痛までもだ。
あれには、愛し合う部分だけが切り取られ、入っているに過ぎない」
「……ふん、誰かに見られると、恥ずかしいとでもいうつもりか?」
「いや、見ることが出来るのは、私と妻だけだ。そうではなくて……」
サマエルは口を濁した。
「どうした?」
「息子を帰してくれてよかったよ、子供には聞かせられない話だ……」
「何だと」
ラファエルはしかめ面をした。
「つまり、淫魔は食事だけでは満たされない。どうしても相手が必要だ。
我慢の限度を超えると、誰彼構わず襲いかかってしまう危険性もある。
看守が一番危ないが、アスベエルにはこれ以上、苦痛を与えたくはない……。
そういう衝動を鎮めるのに、あれは必要なのだ、分かってくれ」
哀願するようにサマエルは言った。
「誰が分かるか、汚らわしい!」
大天使は、不快極まりないといった顔で横を向いた。
「だが、魔界の王族が淫魔になったのは、お前達のせいではないか。
我らは種の保存のために……」
「もうよい、聞きたくもない。自白せぬならペンダントはやらぬ、それだけだ」
ラファエルの答えは、そっけなかった。
「むう……」
サマエルは困り果てたが、ともかく提案してみた。
「では、こうしよう。
ともかく一旦、あれを渡してくれないか、そうすれば、私も、気が変わるかも知れない……」
「ふむ。駄目なら、取り戻せばいい、か……」
大天使が考え込んだとき、天使がニ人、駆けて来た。
「ラファエル様、大変です! 看守長殿が倒れました!」
「何、アスベエルが!? 話はまた後だ、お前達、囚人を下ろしてやれ!」
指図もそこそこに、ラファエルは檻を走り出て行った。
ぬかずく【額突く/叩頭く】
ひたいを地につけて拝礼する。ひたいが地につくほどに丁寧にお辞儀をする。
キャット・オブ・ナインテイル
柄に九つ、もしくはそれ以上の数の革紐を取り付けた拷問器具。
一度の振りで多くのみみず腫れを起こす。房が多い分一本一本の威力が低く戦闘用には向かないが、拷問用としては致命傷を与えにくいことが長所となる。
ひとみごくう【人身御供】
1 人間を神への生け贄(にえ)とすること。また、その人間。人身供犠(じんしんくぎ)。
2 集団または特定の個人の利益のために、ある個人を犠牲にすること。また、その個人。
きょうじゅん【恭順】
命令につつしんで従う態度をとること。
こうこのうれい【後顧の憂い】
あとに残る気遣い。あとあとの心配。
Gloria in excelsis Deo (グロリア・イン・エクチェルシス・デオ)
(挿絵の天使が持つ巻物に書かれた言葉)
『天のいと高きところには神に栄光あれ』を意味する教会ラテン語成句。