10.大天使の落し物(3)
「ま、まずいよ、アスベエル! そんなこと言っちゃ!」
慌てたリナーシタは爪先立ちになり、看守長の口をふさごうとした。
「うるさいな!」
彼よりずっと背の高いアスベエルは、たやすくそれを跳ねのけた。
「……お前はまだ、寝返りは決めていなかったと思うのだが。そう言い切るのはなぜだね?」
想定外の成り行きにもまったく動じず、サマエルは穏やかに尋ねた。
「裏切るとか、裏切らないとか、そんなのどうだっていいんだ!
俺は、地下研究所に行きたいんだよ!」
頭を激しく振り、駄々をこねる子のように、アスベエルは地団太を踏んだ。
「ど、どうして……あそこがどんなに怖いトコか、知ってるはずだよ!?」
「だって、両親がいるかも知れないんだぞ!」
看守長の言葉に、ホムンクルスは眼を真ん丸くした。
「えっ!? で、でも、アスベエルのご両親は……」
「ああ、処刑されたって言われて、俺もずっと信じてたよ。
けど、最近、地下で人体実験用に生かされてるって噂、聞いたんだ。
たしかに、両親にはお墓もないし、もしかして……」
「……
ラファエルは、首を横に振った。
「で、でも、ミカエル様は、処刑には関与してないって言ってますよ!?
誰だったか、
だから、処刑は名目で、両親は生きてるんだ、そうに決まってます……!」
眼をぎらぎらさせ、アスベエルは言い募った。
矛盾が多い話だったが、サマエルはそこを突くことはせず、静かに訊いた。
「それで、わざと捕まり、地下に行こうと思ったのか? ……本当は裏切る気もないのに?」
アスベエルは否定の仕草をした。
「裏切ってもいいって思ったのは、ホントさ。
だって、魔族が勝てば、両親を助けてもらえるだろ……」
「馬鹿な、魔物が囚人を助けるなど、あり得ぬわ! 眼を覚ませ、アスベエル、現実を見よ!」
ラファエルは激しく言った。
看守長は、またも首を横に振った。
「現実くらい見てますよ、俺だって。
塔の窓から、昔、遊んでた市街見下ろして、もう、自由にお日様の下も歩けないんだって思い知る……。
一日が終わって帰るのは、地下の暗くて冷たい部屋……。
小さなベッドに潜り込んで、眠りに落ちる前に考えるのは、最後は、ミカエル様に殺されて人生が終わるんだろうな、ってこと……。
生きてても、死んでるのとおんなじような毎日がずっと続く……それが俺の現実……」
アスベエルは顔を覆った。
「いい加減にせぬか、ミカエル様は、仮にも天使長、そんなことをなさるわけがない!
淫魔ごときの
ラファエルは、看守長の肩をつかみ、揺さぶった。
「……サマエル? 関係ないですよ。
ちょっと前まで、両親の分まで頑張って生きようって思ってました……。
でも……血溜まりに倒れてるウリエル様のそばで、ミカエル様が高笑いしてるのを見て……俺も、こんな風に殺されるんだなって、確信したんです……。
あの後、夢を見るようになって……血まみれで死んでるのは、ウリエル様じゃなくて、俺……」
首を横に振るアスベエルの指の間から、涙がこぼれ落ちた。
「でも、あなたなら……恨みません、ラファエル様。
小さい頃、よく、ウリエル様と遊んで下さいましたよね……さあ、早く俺を捕まえて、地下に連れてって下さい……。
一目、両親に会えたら、もう、思い残すこともないですから……」
うなだれたまま、アスベエルは、拳を揃えて差し出した。
それは涙に濡れ、抑えようもなく震えていた。
大天使は、彼の手を押し留めた。
「落ち着くがよい、アスベエル。
両親はもう、この世の人ではない、それが分からぬほど子供でもあるまい」
「……哀れだな、天使というのは」
口を挟んだサマエルの胸倉を、ラファエルは乱暴につかんだ。
「黙れ、それもこれも皆、お前のせいだ! お前が、アスベエルを誘惑したゆえであろうが!」
サマエルは息をつき、あきれたように首を振った。
「やれやれ……お前達はいつもそうだ。
悪いことはすべて敵のせいにして、おのれを
このままでは、遠からず、お前達の社会は崩壊するだろうに、それすら分からないとはな」
「何を言う! アスベエルだけでない、そもそもウリエルが、ミカエル様の手にかかって果てることとなったのは、お前のせいではないか!
お前さえいなければ、天界も彼も、安泰だったのだ!」
大天使は、ぎりぎりと歯を噛み鳴らした。
「お前こそ、何を言うやら。
たかが、私という毒虫が一匹入り込んだくらいで、しかもこうして、囚われているというのに」
サマエルは皮肉な笑みを唇に刻み、枷をはめられた手を上げて、がちゃつかせて見せた。
「私のせいで、体制が揺らぐ? 国家としての基盤が、
「う……ゆ、揺らいでなどおらぬ、ただ、お前や魔族どもが色々画策しているせいで、一部の者が動揺して……」
サマエルは、否定の身振りをした。
「分かっているだろう、真の敵は魔族などではない、ミカエルだ。
ヤツこそまさしく、
「な、何と……! 天使長様を、害虫呼ばわりするとは……!
ゆ、許さぬぞ、お前こそが毒蛇の癖に!」
ラファエルは色を変え、彼を怒鳴りつけた。
サマエルは冷ややかに答えた。
「考えてみるがいい、ラファエル。
シェミハザを筆頭とした天使達が、あれほど多く造反したのはなぜか?
皆、身の危険を感じて逃げたのだ、他ならぬ、自軍の将から害されることを恐れて……アスベエルのように。
私を責めるより、もはや将たる資格をなくしたあやつを、どうにかする方が先ではないのか?」
「く、この、口の回る夢魔め……!」
正論過ぎて、大天使は
すかさず、サマエルは言った。
「拷問する気なら、息子を帰してからにしてくれ。
ついでに、アスベエルも一緒に。
兄弟がいれば息子も落ち着くだろうし、いくら看守といっても、たまには檻の外で息抜きさせないと、精神が崩壊するぞ」
「……余計な世話だ」
「きゃ!?」
「ラ、ラファエル様!?」
「暴れるな、お前達。アスベエル、お前に渡したいものがある」
軽々と二人を抱え、大天使はすたすたと出口に向かう。
檻の外で彼らを下ろすと、ラファエルは呪文を唱えた。
「──カンジュア!
これを。こうなったら、もう渡しておこう。
お前が成人したら、ウリエルが渡す手はずになっていたのだがな」
純白の封筒を受け取ったアスベエルは、そこに書かれていた文字を読み、顔色を変えた。
「……『アモル』に、『オリス』!? これは……!?」
それは、彼の父母の名前だった。
「そう、二人の遺髪だ。お前の両親を処刑したのは、このわたしなのだよ、アスベエル」
ラファエルは、自分の胸に手を当てた。
「い、遺髪……あなたが、両親を……!?」
アスベエルは、震える手で封筒を開き、逆さにした。
それぞれ、紅と白の紙紐で結ばれた黄金の髪が二束、掌に滑り落ちた。
「あの頃、わたしも若く、ミカエル様を信奉していた……狂信的と言ってもいいほどに。
それゆえ、同胞殺しなどさせたくないと思い、役目を代わりたいと申し出たのだ。
あの方は感激し、涙ぐんでさえいたよ、このことは一生忘れぬと。
決して、功名心などではなかったのに……」
大天使は、天を仰いだ。
「今は後悔しているよ、あの方は変わってしまわれた……。
もし出来るものなら、過去に行き、自分に会って、身代わりをやめさせたいくらいだ……。
あの後しばらく、夜も寝られぬほどだったからな……夢でうなされて……」
首を振るラファエルの青い眼には、光るものがあった。
「そうだったんですか……」
遺髪を握り締めるアスベエルの瞳もまた、濡れていた。
「それでも、わたしは、お前の親代わりになろうと思っていたのだぞ。
……処刑の間際、母君に、くれぐれもと頼まれたゆえにな。
だが、マトゥタ様が養母にと名乗り出られ、天帝様も、赤ん坊には母親が必要と仰ったため、辞退するほかなかった。
女神様亡き後、お前達が
ラファエルは、そこで大きく息をついた。
「分かったか? 両親は、すでに
前言を撤回せよ、アスベエル。
わたしが保護者となるからには、決してミカエル様には手出しさせぬし、第一、お前がおらねば、サリエルはどうなる?
いずれ、父親も処刑される……そのショックや孤独を
ラファエルは、ホムンクルスの肩に手を置く。
リナーシタは、無言のまま、二人の大天使の顔を交互に見た。
「……分かりました、ラファエル様……。済みません……俺、馬鹿でした……」
看守長は、遺髪を握り締めた拳を眼に押し当て、うずくまった。
「アスベエル……」
すすり泣く彼の背中を、リナーシタは優しくさする。
「──カンジュア!」
大天使はその間に、魔法でペンと紙を取り出し、サインをしてホムンクルスに渡した。
「さあ、許可証だ。もう戻れ、今日は、兄弟水入らずで過ごすがよい。
それと、行きがけに代わりの看守を呼んでくれぬか。こやつと二人きりは危険だからな」
「分かりました、ラファエルさん。
立てる? アスベエル」
リナーシタの手を貸りて立ち上がった看守長は、拳で涙をぬぐい、深々と頭を下げた。
「ラファエル様……サリエル共々、よろしくお願い致します」
「よろしくお願いします」
ホムンクルスも礼をする。
「うむ、今日はゆるりと休め」
「はい」
「あ、あの、父上にも、お別れを」
リナーシタは、檻に駆け寄る。
「父上、もっとお話したかった……また、お会い出来ますよね……?」
サマエルも出口に近寄り、微笑みかけた。
「ああ、状況が許せば、ね。今はさらばだ、アスベエルと仲良くな」
サマエルは、手を上げて見せる。
「はい。父上」
それから、ホムンクルスは、大天使に向き直った。
「ラファエルさん……父上に、あまり酷いことを……あ、お役目なのは分かってます、でも、出来るなら手加減して下さい、ちょっとだけ……。
それでもし不足なら、代わりに僕を殴って下さい、いくらでも。僕はどうせ……あ」
まくしたてるホムンクルスの頭に、ラファエルは、ぽんと手を乗せた。
「案ずるな。今日のわたしの仕事は、お前をここに連れて来て、監視することのみで、盗聴や拷問は言いつけられてはおらぬ。
使い魔が落ちたはまったくの偶然、心安んじてアスベエルと過ごすがよい」
大天使は優しく言った。
少年は、ほっとした顔色になる。
「はい。では、父上……」
「ああ、元気で」
「さようなら……さようなら……!」
リナーシタは、どこか呆然としているアスベエルの手を引き、何度も振り向いては手を振りながら、檻を後にした。
きせき【鬼籍】
死んだ人の名や死亡年月日を書きしるす帳面。過去帳。点鬼簿。
獅子(しし)身中(しんちゅう)の虫
《獅子の体内に寄生して、ついには獅子を死に至らせる虫の意》
1 仏徒でありながら、仏法に害をなす者。
2 組織などの内部にいながら害をなす者や、恩をあだで返す者。
◆ 「獅子心中の虫」と書くのは誤り。