~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

10.大天使の落し物(2)

「あ、あのぉ……僕、父上が死んじゃったら、悲しいし、嫌です。
魔界の秘密っていうの、教えて下さいませんか……えと、……天帝様に、それ、お話したら、もしかして……」
たどたどしく、リナーシタが口火を切った。

サマエルは、打ち合わせ通りに(かぶり)を振った。
「いや、悪いが、話せないよ」
「そ、そう言うなよ、命が、助かるかも、知れないんだぞ……」
こちらもおぼつかない口調で、アスベエルが話に加わる。

「いいや、私とて魔界の王子、裏切りなど、……」
言いかけたサマエルは、息を呑んだ。
ホムンクルスの紅い瞳から、涙が流れていたのだ。
ここは哀願の振りをするはず……だが、リナーシタは、本当に泣いてしまっていた。

「父上、父上が……! 母上も、ウリエルさんも死んじゃって、今度は……!」
ホムンクルスは、看守長に抱きつき、泣きじゃくり始めた。
真実の困り顔で、アスベエルは言った。
「おい、話せよ、サリエルが可哀想じゃないのか」

サマエルもまた、いかにも困り果てた表情で答えた。
「……弱ったね。私だって死にたくはないし、サリエルの気持ちも分かる……。
そうだな……ペンダントを返してくれるのなら、考えてもいいが……」
「ペンダント? ああ、ウリエル様にも頼んでたな、返してくれって。
そんなに大事なものなのか?」

「もちろんだとも、私も切羽詰って……い、いや、駄目だ、引き換えに同胞を売るなど……」
サマエルは首を振り、檻の中をうろうろし始めた。
落ち着かない振りを装い、敵が落とした物を確認するために。
寝床に近づいたとき、粗末なマットの陰に、特徴ある角がちらりと見えた。

それは、金色のカブト虫だった。
歩きながら、目の端で観察してみる。
体色が檻と同じなのはカモフラージュのためで、不自然なほどに角を振り動かしているのは、あるじと交信でもしているのだろう。
サマエルは、盗聴用の使い魔だと確信し、何食わぬ顔で歩き続けた。

「父上、駄目ですか、どうしても……?」
作戦の通りリナーシタは訊いたが、鼻声で、涙も止まらなかった。
「魔界の機密、か……」
サマエルは足を止め、またも首を振った。
「だがね、サリエル、生半可(なまはんか)な内容では、天帝も納得しまいよ。
まして、私は紅龍だ、その命と引き換えとなると、ね……」

「ほら、サリエル。涙ふけよ、顔、ぐしゃぐしゃだぞ」
看守長は、ハンカチを取り出し、義弟に渡す。
「あ、ありがと……」
受け取ったホムンクルスは、それを顔に当てながら尋ねた。
「……ねえ、アスベエル。
父上のお命を、助けることができるような秘密って、どんなのかな……?」

看守長は腕組みし、頭をひねる振りをする。
「つまり、よっぽどすごい秘密、ってことだよな……。
うーん……あ、そうだ、魔界を守ってる結界のこと、なんてどうだろ」
「えっ!?」
リナーシタは、大げさに声を上げ、ハンカチから顔を出す。
「魔界の結界だって!?」
サマエルは、はっとしたように大天使を見たが、無論これも、申し合わせていた話だった。

「そうさ。お前らが魔界に逃げ込んで以来、ずっと張られてたヤツだよ。
あれの秘密を知ることが出来たら、天界の勝利は確実だ、そうだろ?」
初めぎこちなかったアスベエルの台詞も、この頃には、かなり滑らかになっていた。
「馬鹿な! 魔界には、私の家族もいるのだぞ!」
わざと怒ったように、サマエルは叫んだ。

「大丈夫、天界が勝っても、あんたの家族の命は助ける、ってことにしてもらえばいい。
奥方と子供二人、だっけ? その三人だけ……」
看守長の言葉を、サマエルは激しくさえぎってみせる。
「やめろ! 私は魔界を裏切る気はない!」
「じゃあ、ペンダントの件も、なしだな」
「く……」
わざとらしく、サマエルは拳を握り締めた。

「父上、魔界には僕の兄弟がいるの? 会ってみたいな……。
このままじゃ、僕にはもう、誰も……」
それは、思わずサリエルの口を突いて出た本音だった。
「おいおい、俺がいるだろ」
アスベエルは自分を指差す。
「ごめん……でも、僕、心細くて……」
うつむくホムンクルスの紅い瞳から、再び涙がこぼれて床を濡らした。

演技ではないだけに、サマエルも胸を打たれた。
「……困ったね。魔界の同族と、天界の息子、どちらを選べばよいやら……。
少し、考えさせてくれないか」
疲れた風を装い、彼はマットの端に座り込んだ。
考える振りをして、そっと使い魔を(うかが)う。
身を潜めながらも、盛んに角を振っていたカブト虫は、徐々に動きが(ゆる)やかになっていくようだった。

それを確認し、サマエルは口を開いた。
「……ウリエルには、魔族に寝返らないかと提案したのだがね。
だが、彼は言ったよ、裏切ることは出来ないと。天界を、神族を守るのが天使の務めだとね……私も、彼と同じ答えを返そう。
やはり無理だよ、サリエル。済まないが。
生き残った私の家族は、肩身の狭い思いをするだろうし……」

「そんな……」
本当に拒絶されたかのように、サリエルは絶句し、うなだれる。
「魔族が皆死ねば、お前の家族を悪く言うヤツもいないさ」
アスベエルは言い、サマエルは睨む真似をした。
「看守……あくまでも、私を裏切り者に仕立て上げたいらしいな」

「だって、そうじゃないと、サリエルが可哀想じゃないか、母親の次は……。
俺にだって、両親はいない……けど、初めからいないと思って諦めてるのと、ついさっきまでそばにいた人がいきなり死んでしまうのと、どっちが辛いと思うんだ?」
こちらもまた、アスベエルの本心だった。

「それもそうだが……サリエル、聞いてくれ。
私の生死に関わらず、お前の苦難は続くだろう。
だが、諦めてはいけない、私も、幼い頃は辛いことばかりだったよ、幾度死のうと試みたことか……。
それでも、生きていてよかったと思うときが、必ず来るから……」
「都合のいいことを! お前のせいで、サリエルは微妙な立場にいるんだぞ!」
ホムンクルスを指差し、アスベエルは叫ぶ。

ふっと一息ついてから、サマエルは口を開いた。
「では、私からの提案だ、看守長……いや、アスベエル、サリエルの義兄弟よ。
我らと一緒に、天界を脱出しないか?」
「な、何を言い出すんだ、お前は!」
アスベエルは義弟から身をもぎ離し、サマエルと対峙する。

「ち、父上、駄目です、そんな……」
抗議しかける息子を、サマエルは制した。
「お前は黙っていなさい、私は、彼に訊いているのだよ」
「で、でも、……あ、く、苦し……」
リナーシタは、自分の胸元をつかみ、苦悶の表情を浮かべた。
マインドコントロールと虫、二つの枷をかけられたホムンクルスが、背信行為を目の当たりにしたら、こういう言動を取るはずだと、前もってサマエルは教えていたのだ。

「深呼吸してご覧、そして、耳をふさいでおいで。お前は何も聞いていない、いいね?」
サマエルは、リナーシタの頭に優しく触れた。
「はい……」
複製の少年は、言われた通りにした。

「ふざけるな、誰が裏切りなんて!」
くるりと背を向け、看守長は出口に向かう。
「待て、アスベエル、まだ話は終わっていないぞ。
天界を出るのは、お前のためでもあるのだ」
「ふん、仲間を裏切って逃亡するのが、何で俺のためなんだよ!」
アスベエルは歩みを止めない。

サマエルは、その背中に向かい、穏やかに話し続けた。
「だがね、保護者もいないサリエルとお前に、今後の命の保障があるのか?
いずれ理由をこじつけられ、ミカエルに殺されるのではないか……ウリエルのように?
私は、二人共、助けたいのだよ」

アスベエルは、ぎくりと足を止めた。
打ち合わせにはない台詞だが、ミカエルならやりかねないとは、実は彼も思っていたのだ。
今回、罪を着せることには失敗したが、また必ず何か、仕かけて来るだろう。

「それに、魔族が勝てば戻って来られる。一時的避難だと思えばいい」
「え、戻って来れる?」
ばっと振り向いたアスベエルに、サマエルは畳みかけた。
「もちろんだ。ここは元々、魔族の故郷、ウィリディス。
先に堕天したシェミハザやアザゼル達も加えて、我々と、新しい自由な国を作ろう」

「自由な……新しい国?」
看守長は大きく眼を見開いた。
「そうだ。我らは、堕天使達を差別する気はない。どうかな、アスベエル?」
「……」
当初、完全に芝居だったアスベエルの言動は、今は演技を超えて、本気で考え込んでいるように見えた。

その間に、サマエルは、使い魔の様子を探った。
カブト虫の動作はさらに鈍くなり、完全に止まるのも時間の問題と思われた。
(思った通りだ、この檻は、敵味方の区別なく精気を吸うからな。使い魔など、すぐに動けなくなる。
さて、そろそろ会話も聞き辛くなって、焦ったラファエルがやって来る頃だが……)

「なら、一つだけ約束してくれ、それが叶うなら、俺は……」
再び予定外の台詞が、看守長の口を突いて出た、そのときだった。
「何だ、お前達、何の話をしている?」
想像通りに、ラファエルが現れた。

「あ、ラ、ラファエル様……!?」
来ると分かっていても、アスベエルはぎくりと後ずさりする。
「あ……」
耳をふさいでいたサリエルも、大天使に気づくと指を外した。

サマエルは腕組をした。
「おやおや、盗み聞きとは、いいご趣味をお持ちだな、七大天使ともあろう者が」
「人聞きの悪いことを! わたしは、使い魔を連れ戻しに来ただけだ!」
「えっ、使い魔……?」
何も知らない風を装い、サリエルは小首をかしげた。

「そうだ。呼んでも戻らぬゆえ、さては、先ほどもみ合った弾みに、檻の中へ落ちたのだろうと思ってな。
さて、スカサリ、どこにいる?」
檻に入ったラファエルは周囲を見回し、カブト虫を拾い上げた。
「こんなところにいたか。それ、目覚めよ」
息を吹きかけると、虫は再び、がさがさと動き始めた。

復活した使い魔を肩に乗せ、大天使は看守長に向き直った。
「ところで、アスベエル。お前に話があるのだがな」
「は、話? 何の、ですか……?」
へどもどと、アスベエルは答える。
「お前、天界を裏切る気か?」
そんな彼に、ラファエルは鋭く問いかけた。

「な、何ですか、いきなり」
アスベエルはとぼけた。
「ウリエルは、淫魔に魅せられて堕落し、命まで落とした。お前まで失うわけにはいかぬのだ!」
「何のことか、さっぱり……」
看守長はあくまで白を切る。

「ならば言うぞ! お前達の会話は筒抜けだったのだ、使い魔を通じてな!
これでもまだ、空とぼけるつもりか!」
ラファエルは、アスベエルに指を突きつけた。
サマエルは肩をすくめる。
「やはり盗聴していたではないか、ラファエル」

「黙れ! お陰で、淫魔の毒牙にかけられる寸前の同胞を救えたわ!」
大天使が叫んだ次の瞬間、放たれた看守長の言葉に、一同は度肝を抜かれた。
「聞いてたんなら話は早い。 ラファエル様、俺を、地下室送りにして下さい!」
「な、何!?」
ラファエルは唖然(あぜん)とし、アスベエルは、じれったげに声を大きくした。
「俺は裏切り者なんです、地下室に送って下さい!」