~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

10.大天使の落し物(1)

ミカエルは、裏切り者への義憤(ぎふん)が高じて刺したのだと言い張り、牢からは出された。
しかし、事実が表沙汰になれば人心が動揺するとして、療養を名目とした自宅謹慎(きんしん)を命じられた。
他方、ウリエルの死は、戦傷(せんしょう)及び龍の毒によるものと発表され、葬儀が行われた。

その翌日、アスベエルは檻の前で頭を下げた。
「力足らずで済みません、サマエル様。
あなたとサリエルの対面を願い出たんですけど、駄目でした……」
うたた寝から目覚めたサマエルは、ほっと息をついた。
「……そう。また何かあったのかと思ったよ。いや、お前が無事でよかった。
無理に主張を通そうとして、ウリエルの二の舞になったら大変だからね」

「いえ、俺、これでも食い下がったんです。
あ、天帝様にじゃなくて、七大天使の、残りの四人にですよ。
そしたら、本物は駄目だけど、ホムンクルスなら会わせてもいいって……。
淋しがってるのは、サリエル本人なのに……」
看守長は、がっくりと肩を落とした。

「親子での逃亡を恐れての措置だろうな。
私が偽者を見破ったことは知らないから、再び複製と会わせ、様子を見ようと考えたのさ」
アルファが死んだ直後、ウリエルは、ホムンクルスは拷問により死亡、さらにその際、口を滑らせてしまい、サマエルに偽者と知られてしまったと、馬鹿正直に報告していたのだった。

「……そんなもんですかね」
アスベエルの口調は暗かった。
その様子を見て少し考え、サマエルは口を開いた。
「サリエルには気の毒だが、私は会ってみたいな、そのホムンクルスにも。
そうだ、今度の彼の名は、リナーシタにしよう」

「はい……けど、本当にいいんですか、複製で」
「構わないよ。逃亡の恐れなしとなったら、本人との面会も叶うかも知れないからね」
サマエルは、にっこりした。
「あ、なるほど」
ぽんと手を打ったアスベエルの顔に、少し生気が戻った。

「サリエルにもそう言って、なだめてくれ。
そして、私と息子の対面が叶わなくとも、彼らは会わせてやって欲しい。
二人で私のことを話すだけでも、慰めになると思うから」
「分かりました。じゃあ、俺、すぐに話をつけて来ます!」
アスベエルは、全速力で走って行った。
再び横になったサマエルの瞳には、名状しがたい光が宿り、唇には薄く笑みさえも刻まれていた。

翌々日、サリエルのホムンクルスは、新顔の天使に連れられて来た。
「ラファエルだ、立ち会わせてもらうぞ。
アスベエルは信頼に足る天使だが、お前は危険だからな、魔界の蛇よ」
青い眼を光らせ、重々しく金髪の天使は言った。

眉をしかめ、サマエルは苛立たしげに頭を振った。
「やれやれ、感動の再会に水を差すとは、無粋な。息子とは、格子越しにしか話せないのか」
「そこまで野暮はせぬ。さあ、サリエル、入ってよいぞ」
ラファエルは手を振って促し、アスベエルが鍵を開けた。
最初に会ったとき同様に、おずおずと、少年は近づいて来る。

「サリエル、会いたかった!」
「ち、父上……!」
二人は固く抱き合った。
触れていると念話が使えるのは経験済みだったので、さっそくサマエルは尋ねた。
“聞こえるかい、リナーシタ?”

“はい、聞こえます、いい名前をありがとうございました、えっと……”
“父と呼んでおくれ、お前も私の息子だ”
“はい、父上!”
リナーシタと名づけられた少年の、喜びの波動が伝わって来る。

“では、リナーシタ。私の眼をご覧”
魔界の王子の瞳が紅く妖しく輝き、少年の眼は光を失う。
眩しさのためもあり、檻の内外にいる大天使達には、親子が再会の喜びに浸って見詰め合っているようにしか、感じられなかったことだろう。

その間に、サマエルは素早く、ホムンクルスの心を探った。
アルファ同様、この複製も、マインドコントロールされてはいた。
それでも、所詮(しょせん)は付け焼刃で、簡単に解くことが出来た。

残る心配は、心臓に埋め込まれた虫だった。
監視されている状態では、アスベエルも手を出せない。
だが、アルファの死からさほど経ってはおらず、虫の改良はまだだろうと推測した彼は、思い切って尋ねてみた。

“お前の自由意志で答えなさい、天界や天帝を裏切って、私の手助けが出来るか?”
“はい、出来ます”
何のためらいもない答えが返って来た。
息を呑んで見守ったが、しばらく経っても、何の変化も見られない。
改良済みなら、裏切りに反応して卵が(かえ)り、心臓を食い破るはずなのだが。

(魔族の血が、虫の弱点だと気づかれていない可能性もあるな……それに、元々、虫は神族専用で、対魔族の研究がされていないとか。
いずれにせよ、大丈夫のようだ)
安堵した彼は、亡くなったホムンクルス達の冥福を祈りつつ、三体目の心に、後催眠暗示を施し始めた。
これこそ、彼が、息子の複製に会おうとした真の理由だったのだ。

“……よし、これでいい。
時が来たら私の指示を思い出し、終わったら、すべて忘れてしまうこと、いいね?”
“はい……”
ゆっくりと、ホムンクルスはうなずく。

サマエルは微笑み、声に出して言った。
「ああ、元気そうな顔をしているね、サリエル」
それは、わずかに皮肉を含んだ言い回しだった。
アルファを偽者と見破ったのも、顔のお陰だったのだから。

しかし、彼の当てこすりに気づいたのはアスベエルだけで、アルファの記憶は持っていない複製(リナーシタ)は、植えつけられた記憶の父親と比べて、答えた。
「はい、でも、父上は、ちょっと、おやつれになったような……」
「……少しね。ウリエルが、気の毒なことになってしまって……」
「ええ……」
少年はうなだれる。

「何が気の毒だ、お前が死に追いやったのだぞ!
謹厳実直(きんげんじっちょく)な彼を、お前が狂わせたのだ!」
ラファエルは、ずかずかと檻の中に入って行き、ホムンクルスの腕を乱暴につかんだ。
「行くぞ、対面は終わりだ!」
「えっ!?」

慌ててアスベエルも檻に入り、大天使を止めた。
「待って下さい、ラファエル様!
今、来たばかりじゃないですか、せめてもう少し……!」
「……ち」
舌打ちし、ラファエルは少年を解放する。

「……やれやれ。抵抗も出来ない囚人をもてあそんだだけでは飽き足らず、檻の外で起きたことまで囚人のせいにするのか」
サマエルは苦々しげに言った。
「黙れ! ミカエル様はともかく、ウリエルがそんなことを!」
大天使は、彼の胸倉をわしづかみにした。

「では、私の心を読んでみるがいい、彼が私に何をしたか、……」
「け、汚らわしい、わたしにそんなものを見せる気か!?」
顔色を変えたラファエルは、彼を手荒く突き飛ばすと檻の外へ走り出て、吐き捨てるように言った。
「まったくおぞましい! 同じ空気を吸っていると考えるだけで、身の毛がよだつわ!
サリエル、よくこんな変態を、父などと呼べるな!」

「済まない、サリエル。私は淫魔だからね……」
サマエルは、悲しげに少年を見た。
リナーシタは、首を横に振った。
「いえ、父上のせいじゃ……だって、ウリエルさんは、父上に一目惚れしてたって……」
「誰が、そんなでたらめを!」
ラファエルは()え、ホムンクルスはびくりとした。

「俺です。闇の塔で彼自身が言ってました、ミカエル様も聞いてたはず……」
「もうよい!」
憤然と、大天使はアスベエルの言葉をさえぎった。
「聞くに堪えぬ。わたしは入り口で見張る、終わったら連れて来るように!」
そう言い置いて、ラファエルは鼻息も荒く、大股で去って行った。

「ふう……」
アスベエルが息をつき、額の汗をぬぐったそのとき、サマエルがふらりと倒れかかった。
「危ない!」
「父上!?」
とっさに二人が、両側から支える。

サマエルは、心配そうな彼らに念話を送った。
“二人共、黙って聞いてくれ、ラファエルが何か落として行った。盗聴用の使い魔かも知れない”
“と、盗聴!?”
アスベエルは思わず、振り返ろうとした。

“見るな! 気づかない振りをするのだ!”
ぴしゃりと言われて、看守長は慌てて動きを止めた。
“す、済みません……”
“お前、疑われているのかも知れないぞ。
サリエルの義兄弟だし、私に接する時間も長い……ミカエル、ウリエルの次はと……”

“ええっ!?”
アスベエルは青くなった。
“無言が続くと怪しまれる。話をしよう、リナーシタも”
“はい”
ホムンクルスはうなずき、通常の会話に切り替えた。

「えと……大丈夫ですか、父上?」
「ああ、ちょっとよろけただけだよ」
サマエルも、普通に答えた。
「それより、お前は大丈夫かい……サリエル?」
看守長も話に加わった。

リナーシタは腕をさすった。
「うん、ぎゅっとつかまれたときは痛かったけど、もう平気」
「でも、どうしたんだろう、ラファエル様。あんな乱暴、今までしたことないのに……」
アスベエルは首をかしげた。
「仲良かったウリエルさんが殺されて、ショックだったんだよ……僕もだけど……」
「うん、俺もだ……。ウリエル様は、優しくて心の広い、いい天使だったのにな……」

「彼は、私にも優しかったよ。
上の連中は愚かだな。彼の言うことを聞き入れ、私を共に住まわせておけば、いつか情にほだされて、秘密を漏らしたかも知れないのに。
問答無用で牢に放り込み、さらにミカエルを……」
サマエルは、悲しげに首を振った。
実際には、彼の記憶は封じられており、秘密を口にすることは不可能だったのだが。

アスベエルは、口をへの字に曲げた。
「魔物と一緒に住むなんて、とんでもない。狂っちまうんだろ」
サマエルは否定の身振りをした。
「それは、ミカエルのような者だけさ。
ウリエルは、ああはならなかっただろう?」
「そ、そりゃ……でも、彼の場合は、たった一晩だけだったし。
ミカエル様は、お前以外にも、色々と、その……」

「では、マトゥタ女神は? 私と恋仲だったのだぞ。
彼女は、サキュバスのごとき振る舞いをしていたのか?」
はっとアスベエルは息を呑み、思わずホムンクルスを見た。
サリエルの複製は、ぶんぶんと、首を横に振っていた。
「ま、まさか、そんなこと! 女神様はいつも清らかで、慎ましやかで……!」
「そうだろう? 人族出身の私の母も、最初の妻だって、亡くなるまで淑女(しゅくじょ)だったよ」

「つまり、淫魔相手でも、大丈夫な人もいるってことか?」
興味を()かれたような看守長に、サマエルは言った。
「ああ。だがそれには、ある条件が必須なのだ。
私の場合だったら、最初の妻ジル、マトゥタ女神、ウリエル……彼らに共通することだがね」
「……ある条件? 共通すること?」
大天使は首をかしげた。

「彼らは、私を愛してくれたのだよ、心からね」
サマエルは、自分の胸に手を当てた。
「淫魔を本気で愛すること、それが、淫魔の呪いを受けずに済む唯一の方法なのだよ」
檻の中に沈黙が降りた。

聞かれているかも知れないのでは、アスベエルは、うかつに賛同もできなかったし、リナーシタは感激のあまり眼をうるませ、声も出せずにいた。
サマエルは、こっそりと二人の腕に触れた。
“これでは、ろくに話も出来ない、協力してくれ”
彼は念話で、手早く作戦を伝えた。

ぎふん【義憤】

道義に外れたこと、不公正なことに対するいきどおり。

しゃめん【赦免】

罪や過ちを許すこと。

きんげんじっちょく【謹厳実直】

つつしみ深くまじめで正直であること。また、そのさま。

しゅくじょ【淑女】

しとやかで上品な女性。品格の高い女性。レディー。