~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

9.逢魔ヶ刻(おうまがどき)(5)

三日ほどは、何事もなく過ぎた。
ウリエルが戻って来ることはなく、また、アスベエルも見かけなかった。
前者はともかく、後者は看守長という立場上、毎日必ず一度は顔を出していたのだが。

その日は、三人の天使が当番だった。
見つめられることには慣れているサマエルも、やたらにベリアスと視線が合うことに気づき、尋ねた。
「ベリアス。何か、私に言いたいことでもあるのか?」
「あ、いえ、……」
はっとして、天使は口を濁した。
「何だ、お前らしくもない。はっきり言ったらどうだ?」

「はい、では……。
あの……あなたは、ウリエル様を、ええと、誘惑なさったのでしょうか……?
彼は、あなたの助命を……あろうことか、天帝様に願い出て、闇の塔へ収監されてしまったのですが」
それを聞いた刹那、サマエルはがっくりと肩を落とした。
「……やはりか。あれほど、直訴などするものではないよと、念押ししておいたのに」

「え、ということは……?」
重ねて尋ねるベリアスに、サマエルは(かぶり)を振って見せた。
「私は、誓って誘惑などしていない……が、ウリエルは、昔、初めて会ったとき、私に一目惚れしてしまったそうでね……」
「一目惚れ……なるほど、そういうことでしたか」
「それで、最近はアスベエルも、闇の塔の方へ行っているのだね?」

「はい。ミカエルが尋問役に任命され……あちらには、他に誰も収監されていませんので、看守長を助手として連れて行きました。
ウリエル様……今頃は、酷い拷問を受けているんでしょうね……。
七大天使の中でも、特に(した)われていて、次の天使長は確実と言われていた方なのに……」
ベリアスは、痛ましげな表情になる。

「……ミカエルが戻ったか。しかし、私に関わったばかりに、ウリエルには気の毒なことをしたよ。
まさしく、魔に()ってしまった、というところだろうか……」
サマエルは、ため息をついた。

「いえ、彼は後悔していないと思いますよ。あなたと二人きりになったあの晩……彼はその……」
「私への想いを遂げたから?」
ずばりとサマエルが言ってのけると、ベリアスは紅くなった。
「あ、はい……」

「……お前も、私を抱きたいのかい? 構わないよ、そら、アンゲロスやエクスシアと一緒に……」
サマエルは、物憂(ものう)げに残りの天使を手で示す。
「そ、そんなこと!」
「滅相もない!」
「わたし達は、ミカエルとは違います!」
三人は同時に言った。

「そう……本人が了承しているのだから、好きにしていいと思うのだが。
そもそも、私は敵の捕虜、拷問でも何でも、看守が自由に……」
「自暴自棄にならないで下さいよ、サマエル様。
そんなんじゃ、殺されたウリエルが、浮かばれないじゃないですか……」
悲しげな声がして、アスベエルが檻に歩み寄って来た。

「まさか!?」
ベリアスは、ばっと振り向いた。
「ウリエル様は七大天使なのですよ、それを処刑!?」
「そんなに厳しい罰が!?」
「信じられません!」
天使達は口々に叫ぶ。

「いや、ウリエルは……」
「処刑ではなく、殺された。ミカエルに」
アスベエルの言葉を先取りしてサマエルが言い、皆が一斉に彼を見た。
「ど、どうしてそれを……?」
眼を丸くしている看守長に、魔界の王子は微笑みで応じた。

「だって、お前は“殺された”と言った。処刑されたのなら、普通、そういう表現はしないだろう。
では、誰がウリエルを殺した?
当然、お前は除外して、闇の塔には今、囚人も看守もいないという……そうなると、残るはミカエル一人……ヤツの性格からすれば、自分の地位を(おびや)かす者を排除するいい機会だと考えても不思議ではない」

「なるほど、仰る通りです」
アスベエルは、深くうなずいた。
「でも、そんなことで同族殺しを……!?
今は戦の真っ最中で、一人でも戦力が惜しいはずなのに……」
ベリアスは半信半疑で言った。

看守長は、力なく首を横に振った。
「あいつはもう、狂ってるとしか言いようがないよ。
自分で殺した癖に、『ウリエルは自害した、蘇生させて地下室送りにしろ』とわめいてた……返り血で染まった、赤鬼みたいな顔で……」

天使達は、あんぐりと口を開けた。
「何と!?」
「そこまで腐っていたとは!」
「いくらなんでもそれは……!」
「……本当に、救いようがないね、あいつは」
笑みを浮かべてサマエルが言うと、アスベエルは大きく息を吐いた。

「まったくです。ウリエルを牢に入れるとき、体を透視し、魔封具で拘束したんですよ?
魔法も使えないのに、どうやって短剣出すんです?
俺が渡したんだろうなんて、ミカエルはほざきましたけど、地下室送りになるのが分かってて、誰がそんなこと。
ミカエルに用事を言いつけられて塔を出るとき、俺、悪い予感がしたんで、看守の一人をそっと呼んで見張らせといたんです、そしたら案の定……。
すぐ戻ったんですけど、遅かった……」
看守長は、口惜しげに拳を握り締めた。

サマエルの笑顔が、わずかに(かげ)る。
「そう……残念だったね。それで、ウリエルは? 蘇生はさせたのかい?」
アスベエルは、首を横に振った。
「いえ、とりあえず、遺体は魔法で保存しておき、天帝様のご判断を仰ぐってことに……。
でも、無理でしょうね、入牢(じゅろう)の理由が理由だし。
その代わり、地下室送りにもならずに済みますけど……」
「……そう。では、ミカエルの処分もまだだね?」

「ええ、でも、今は牢ん中ですよ。
俺に罪を着せようと企んでたらしいんですが、たとえ目撃者がいなくても、女神様亡き後、俺とサリエルの後見人をしてくれてたウリエルを、俺が殺すなんてあり得ないって、皆、分かってくれてます。
そして、もしあいつが手を下してなくとも、短剣を奪われたか、故意に渡した自殺幇助(ほうじょ)の疑いもあるってことで、処分が決まるまで、牢に放り込んどくことになったんです」

「……相変わらず、思慮が浅いな、ミカエルは。
嫉妬に眼がくらんだのかも知れないが……」
「え、嫉妬?」
アスベエルが眉を寄せると、ベリアスが口を挟んだ。
「看守長、ウリエル様は、昔、サマエル様に一目惚れしていたんですよ。
そして……ほら、二人きりにしろと言われた、あの日、彼はその……」

「あ、ああ……」
アスベエルは、改めてサマエルを見た。
「……軽蔑されても仕方がないが、押し倒されても抵抗はしなかったよ、彼が真剣だと知ったから……」
微笑しつつも、彼は眼を伏せた。

「軽蔑なんて、そんな。ウリエルの気持ちに応えて下さったんでしょう、サマエル様は。
でも、そうか……彼、引く手あまただったのに、誰にもなびかなかったんで、意中の人がよそにいるんでは、って噂されてたんですよ、それがあなただったんですね」

「そうらしいね……最初は強引だったけれど、分かり合えた後は優しかった。
口説かれたけれど、しつこくはなくて、嫌な感じはしなかったな。
洗練されてはいないが実直で、情熱的……女性だったら、側室に欲しいと思ったほどだよ」
サマエルはにっこりした。

「側室? 女性だったら、ですか……」
ベリアスは、複雑な顔をした。
「そりゃそうですよね、やっぱり、お相手は女性でしょう」
アスベエルが言うと、サマエルは肩をすくめた。
「彼は一体、こんな私のどこがよかったのだろう。やはり、女のようだから、かな……」
王子は、自分の頬を両手で挟んだ。

「いえ、ウリエルは……その、昔、人界から無理矢理連れて来られた女神候補と、何かあったらしくて……まあ、その前から、女性は苦手だったみたいだし、女神様方にも、以前からちょっと距離を置いてました。
なので、サマエル様が女性的だから、ってわけじゃないと思いますよ」

「そう……」
サマエルは、またも笑みを浮かべた。
「あの、サマエル様。何だか今日は、楽しそうですね……ずっと、にこにこして」
「……そうかな」

「ひょっとして、あなたにとって、ウリエルは、サリエルのホムンクルスを殺し、あなたをもてあそんだ、憎い敵なんでしょうか……だから、敵が一人減ったと思って……。
それでも、俺にとっては、兄みたいな存在でした。
俺が、あのいやらしい虫を埋め込まれずに済んだのも、ウリエルがかばってくれたからなんです……」
知らず知らず、アスベエルは涙声になっていた。

「いや、憎いとか敵だとか、思ってはいないよ、アスベエル。
ウリエルは私に、笑顔が似合うと言ってくれた……幼い頃、親兄弟にさえ愛されなかった私を、種族の垣根を越えて愛してくれた、命を賭けて……。
だから、彼の魂が無事天国へ召されるようにと、笑っていることにしたのだよ」
サマエルは、さらに優しく微笑んだ。

「えっ……」
看守長は、黒く濡れた眼を見開いた。
驚きに息を呑んだのは、他の天使達も同様だった。

「どうせ、私は、涙を流すことが出来ない……最初の妻や、子供達を亡くしたときでさえ、泣いて送ってやることは出来なかった……。
だから、ウリエルの好きだった笑顔でいることが、彼の死を(いた)む最良の方法だと思って……でも、気に障ったのなら許して欲しい……。
私には、死者を(とむら)う方法が、よく分からないのだよ……やはり狂っているからかな……。
ああ、死とは何なのだろうね……至福なのだろうか、それとも……」
微笑んだまま、うっとりとした眼差しで、サマエルは宙を見上げた。

「サ、サマエル様!」
アスベエルは檻の鍵を開けると、いきなり彼に抱きついた。
共に倒れそうになり、さすがのサマエルも驚愕した。
「ど、どうしたのだ、アスベエル、一体……!?」
「す、済みません……! けど、俺……俺、知らなくて、サマエル様のお気持ち……!」
「ああ、気にしなくていいよ、私のやり方がおかしいのだから。
それより、今日だけは、にこやかに過ごしてもいいだろうか?」

「も、もちろんです……!
俺だって、出来れば笑って送りたい……でも、女神様は処刑され、サリエルのホムンクルスも死に、おまけにウリエルまで……俺の身近な人達がどんどん死んでく……。
今は戦時下、たくさん死者が出てる、そう思っても……それでも……うう、くくっ……」
懸命に嗚咽(おえつ)を抑えようとする看守長の眼からは、どうしようもなく涙があふれ出していた。

魔界の王子は、大天使を優しく抱きしめ、子供をあやすように揺らした。
「悲しいのだね、アスベエル。そう、思いのままに泣くがいいよ。
感情は、感じたままに吐き出した方がいいそうだ、無理に我慢すると、私のように狂ってしまうからね……」

「サマエル様……あなたは死なないで下さい、お願いです……」
食い縛った歯の間から、アスベエルは絞り出すように声を出した。
「そうは言っても、難しいだろうねぇ……」
笑みを唇に貼りつけたまま、サマエルはつぶやく。

「せめて、もう一度だけでも、サリエルに会いたい、とは思うけれど……。
魔界にいる家族に会うことは、もう無理だろうから……。
でも、アスベエル、こうして、お前と一緒にいられるのはうれしいよ、息子の義兄弟とね……」

「あああ、サマエル様ー!」
ついに、アスベエルは感極まって、彼にしがみつき、号泣(ごうきゅう)した。
ベリアスを始め、他の天使達も、もらい泣きを抑えることが出来なかった。
その中にあって、ただ一人、サマエルだけが、透き通るような笑みを浮かべ、どこか遠くを見ていた。

じゅろう【入牢】

牢に入れられること。また、牢に入ること。にゅうろう。