9.逢魔ヶ刻 (4)
その後、眠り込んだウリエルの額に、そっとサマエルは手を当てた。
思考波は正常、ただし、極度の疲労のために呼吸は苦しげで、彼は大きく息をついた。
(……淫魔の危険は、よく知っているだろうに、無謀なことを。
しかも、無防備な姿を敵にさらすとは……)
それから、彼は、瞳に暗い輝きを宿し、天使の首に手をかけた。
(私とて魔族の王子、こうして、寝首をかくことも出来るのだぞ……)
ガブリエルは、すでに魔族の手に落ちている。
天界軍の指揮官にして、最強の戦士ミカエルは、遠からず欲望に溺れ、淫魔以下の存在へと堕ちるだろう。
そして今、次期天使長と目されるこのウリエルを殺せば、天界の戦力、士気共に低下することは間違いない。
しかし、そうと分かっていても。
彼は手を外し、拳を握り締めた。
(出来るものなら、とっくに殺しているさ、精気を吸い尽くして……。
ここが戦場ならともかく……ましてや、お前は、こんな私のことを、本気で……。
馬鹿だよ、ウリエル。本当に。救いようのない、大馬鹿だ)
心の中でののしると、サマエルは口移しで、ほんの少し、天使に精気を送り込んだ。
すぐに、ウリエルの呼吸は安定し、彼はほっとした。
だが、このままでいいわけがない。
(やはり、記憶を消すしかないか。
将来を考えても……済まない、ウリエル)
夢魔の王子は決意を固め、震える手で大天使の額に触れると、心の中に分け入っていった。
自分に関する記憶を消去しようとしたまさにそのとき、ウリエルがいきなり眼を開けた。
「何をしている?」
びくりと、サマエルは手を離す。
「あ、いや、す、済まない、く、苦しそうだったから、つい……」
心臓が口から飛び出しそうで、言葉もしどろもどろだった。
大天使は起き上がり、サマエルの顔を見ようとしたが、彼は眼を合わせることが出来なかった。
「なぜ、わたしを見ない?」
ウリエルは彼の手首をつかみ、向き直させようとする。
サマエルは、天使から逃れようともがいた。
「放せ、私は何も……」
「さては、わたしの記憶を消そうとしたな!? お前の不利になるからか!」
「ち、違……」
「嘘をつけ!」
「あ……!」
怒鳴りつけられた瞬間、サマエルの中で何かが壊れ、意識が遠のいた。
「サマエル!?」
天使は、いきなりぐったりした彼を、慌てて抱きとめた。
「おい、大丈夫か!?」
揺さぶられ、サマエルは眼を開けた。
「手荒にして済まぬ、気分はどうだ?」
ウリエルの言葉にも、反応はない。
ややあって、その口から、驚くべき言葉が発せられた。
「……おじさん、誰?」
「何?」
「ここ、どこ? 何で、こんなに眩しいの……あ!? あなたは天使!?」
サマエルは飛び起き、初めて見るかのように彼を見た。
「な、何だ……?」
大天使は眼を白黒させた。
サマエルは、きょろきょろ辺りを見回した。
「ここは……檻? それに天使……僕、捕まっちゃったの?」
「まさか、覚えておらぬのか?」
こくりと、サマエルはうなずいた。
「うん……僕、すごく怖かったんだと思う……怖いと、何も分かんなくなって……」
口調も仕草も、眼差しさえもがまるっきり別人のようで、困惑し、眉を寄せたウリエルは、ふと、さっきの会話を思い出した。
「そういえば、時々正気を失い、その間、記憶がないとか言っていたな……」
「え? 僕、おじさんにそんなこと言ったの?」
「ああ。だが、おじさんではないぞ、わたしは二万八千五百歳、お前と大して変わりないはず」
幾分むっとして、ウリエルは言う。
「じゃあ、お兄さんだね、ご免なさい」
サマエルは、ぺこりと頭を下げた。
「でもね、僕はまだ、一万四千歳だよ」
人族では十四、五歳に相当する年齢……サマエルが自分より少し年長だと知っていた大天使は、さらに戸惑った。
「どういうことだ……まさか、精神が退行した……?」
「あれ、僕……!?」
裸だと気づいたサマエルは慌てて足を閉じ、恥じらうように腕で前を隠した。
「あの……全部終わったの、かな?」
「ん? ああ……その後、一寝入りしたところだ」
天使はあくびをした。
「おじさ……お兄さんが最後?」
「最後とは?」
「まだ、他の人もいるの?」
恐怖の色が、さっと瞳を走りぬけ、サマエルは檻の外を
「安心しろ、他の者は来ない。命じておいたから」
「そう……優しいんだね、お兄さんは」
ほっとしたように、サマエルは体の力を抜いた。
「何ゆえ分かる、覚えておらぬのに」
「だって、どこも痛くないよ。ケガもアザだってないし、優しくしてくれたんだよね……?」
迷子の子犬のような眼差しで、すがるように見つめられ、ウリエルは当惑しつつも、うなずいた。
「ああ、無論だとも」
「よかった。天使さんが優しい人で」
サマエルは、さらに緊張を解いた。
「まあな。わたしのことは、ウリエルと呼んでくれ」
天使は、改めて名乗った。
「……ウリエル? あ、僕、あなたの姿絵を、ご本で見たよ。
怖ーい顔したミカエルより、あなたの方が綺麗……天使の中で一番美人だと思ったよ」
はにかんだような笑みを、サマエルは天使に向けた。
「世辞を言っても何も出ぬぞ」
そう言いながら悪い気はせず、ウリエルもまた笑顔になる。
「お世辞じゃないもん」
サマエルは、可愛らしく頬を膨らませた。
「僕ね、思わず、綺麗だなーって言ったら、グラシャラボラス先生に大目玉食らったんだよ、敵を
「まあ、そうだろうな」
「だから、僕、どうして綺麗って言っちゃいけないの、それに、なぜ天使は敵なの、って訊いたんだ。
先生は、天使や神族はご先祖を虐殺し、今も同胞を捕らえては酷いことをする悪者です、そんな連中、褒めてはいけません、って言ったよ」
「むむむ……」
それが真実だと知っていたウリエルは、返事に困った。
しかし、サマエルは、自分の話にのめり込んでいて続けた。
「でも、僕は何もされてないよ、天界に行ってみたいな、って言ったら、先生、ますます怒ったよ、おふざけも大概になさい、って。
それで、僕、言ったんだ。だって、敵と味方って反対の意味だよね、って。
だから、天界の人達は、僕に笑いかけてくれて、酷いこと言ったりしたりしなくて、痛くて苦しくて辛いことしなくても、食べ物もらえるんだよね、って言ったら、先生、ぽかんと口を開けてね。
あなたは意味を取り違えています、二度と天界に行きたいなどと言ってはいけませんって、黒板を指す棒で僕の掌をたたいた……。
悲しかった……やっぱり、先生も、僕のこと嫌いなんだって……」
サマエルはうなだれた。
「いや、そやつは、お前が、どんな目に遭っているか知らなかったのだろう」
「うん。でも、変だとは思ったみたいで、色々調べて、陛下に何か言ってくれたみたいなんだ、そしたら……」
サマエルは言葉を途切らせた。
「どうした?」
「牢屋に入れられちゃった……献立係の人もそう、僕をかばって……。
イシュタル叔母様だって、とっくに王妃になってたはずなのに……僕が邪魔したんだ……。
僕は悪い子だから、何されても仕方ない……けど、僕のせいで、誰かが悲しい思いをするのは……」
サマエルは顔を覆い、肩を震わせた。
込み上げて来るものがあり、大天使は思わず彼を抱きしめた。
「お前は何も悪くない! 屋敷で共に暮らそう、わたしがお前を幸せにしてやる!」
「ホント!? あなたのお屋敷の子にしてくれるの!?」
サマエルは眼を輝かせたが、それも一瞬で、すぐに顔を曇らせ、首を横に振った。
「やっぱり駄目だよ。僕をかばう人は皆、不幸になるんだ……。
だから、あなたも、助けようなんて思わないで」
「何を言う、わたしが必ず……」
「無理だよ、天界にも王様がいるんでしょ、怒られちゃうよ、絶対。
ああ、何で僕、生まれてきちゃったのかな……。
眠っている間に、死ねたらいいのに……眼を開けたら天国で、母様がいて……。
ねえ、どれくらい食べないと死ねるの……僕、三日は我慢出来るんだけど……」
話しながら、サマエルの瞳は、徐々に閉じられていった。
「サマエル? ……眠ってしまったか。しかし、今のは一体……?」
天使は、自分に体を預けて安らかな寝息を立てている、眠り姫のような顔を見つめた。
再び眠気が差して来て、ウリエルは、彼をそっと囚人服の上に寝かせ、自分も横になった。
光の檻の中では分かりにくいが、朝になった。
正確な体内時計のお陰で、先に目覚めたサマエルは、大天使を揺り起こした。
「ウリエル、朝だよ。しびれを切らして、看守が来るかも知れない」
「うあ、それはまずい」
飛び起き、あたふたと衣装をまとったウリエルは、ふと手を止めて彼を見た。
「お前、元に戻ったのだな」
「元に、とは?」
サマエルは首をかしげた。その様子は、普段の彼と変わらないようだった。
「覚えておらぬか? 昨夜お前は、急に子供のようになってだな……」
「ああ……聞いてはいるよ、時々そうなるようだ」
「そのことは知っているのか。
しかし、驚いたぞ。少し話をしただけだが、真実、お前には味方がいなかったのだな。
お前をかばった者達は、次々投獄されて……」
「そういうこともあったね……。
だが、彼らはすぐに許されたし、私自身、二度結婚して子宝にも恵まれたし、不幸ばかりというわけでもないさ。
でも、子供の私はそれを知らない……時が止まったままではね……」
サマエルは眼を伏せた。
「では、今度わたしが教えてやろう、大人になれば、必ず幸せをつかめると」
天使は真剣に
「ありがとう……でも、その機会があるかどうか。
それより、お前の方が心配だ、天帝に直訴などしないと約束してくれ」
「いや、それは……」
言い返そうとする天使の手を取り、淫魔の王子は自分の頬に当てた。
「他人に言えた義理ではないが、命を無駄にしないでおくれ……」
訴えかけるうるんだ瞳、少しかすれた甘い声、仕草のすべてが、匂い立つような妖しい色気にあふれている。
ウリエルはたまらず、またも彼を押し倒した。
金の輝きを帯びた髪が、さあっと床に広がる。
「あん、駄目……看守に、ミカエルと同類と思われるよ……?」
わずかにサマエルが
「か、構わぬ……!」
「今は許して、お願いだ……後でなら、いくらでも好きにしていいから……。
看守に見られるのは、もう……」
辛うじての抵抗はそこまでで、サマエルは手で顔を覆った。
そのうち、朝食にかこつけて、心配したアスベエルが様子を見に来るだろう、そして……。
「済まぬ、辛い思いはさせぬと言ったのにな」
我に返り、大天使は彼を解放した。
サマエルは、心底ほっとしたが、念を押すのを忘れなかった。
「お前は優しいね……けれど、くれぐれも、
「分かっている、案ずるな」
名残惜しげに口づけ、大天使は帰っていった。
一人残された魔族の王子は、笑い始めた。
初めはくすくすと、最後には息が出来なくなるほど笑いこけ、狂ったように笑い続けてどれほど経ったか、不意に彼は真顔になり、天井を見上げた。
「お別れだな、ウリエル……お前のことは忘れないよ、決して」