~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

9.逢魔ヶ刻(おうまがどき)(4)

その後、眠り込んだウリエルの額に、そっとサマエルは手を当てた。
思考波は正常、ただし、極度の疲労のために呼吸は苦しげで、彼は大きく息をついた。
(……淫魔の危険は、よく知っているだろうに、無謀なことを。
しかも、無防備な姿を敵にさらすとは……)
それから、彼は、瞳に暗い輝きを宿し、天使の首に手をかけた。
(私とて魔族の王子、こうして、寝首をかくことも出来るのだぞ……)

ガブリエルは、すでに魔族の手に落ちている。
天界軍の指揮官にして、最強の戦士ミカエルは、遠からず欲望に溺れ、淫魔以下の存在へと堕ちるだろう。
そして今、次期天使長と目されるこのウリエルを殺せば、天界の戦力、士気共に低下することは間違いない。

しかし、そうと分かっていても。
彼は手を外し、拳を握り締めた。
(出来るものなら、とっくに殺しているさ、精気を吸い尽くして……。
ここが戦場ならともかく……ましてや、お前は、こんな私のことを、本気で……。
馬鹿だよ、ウリエル。本当に。救いようのない、大馬鹿だ)
 
心の中でののしると、サマエルは口移しで、ほんの少し、天使に精気を送り込んだ。

すぐに、ウリエルの呼吸は安定し、彼はほっとした。
だが、このままでいいわけがない。
(やはり、記憶を消すしかないか。
将来を考えても……済まない、ウリエル)
夢魔の王子は決意を固め、震える手で大天使の額に触れると、心の中に分け入っていった。

自分に関する記憶を消去しようとしたまさにそのとき、ウリエルがいきなり眼を開けた。
「何をしている?」
びくりと、サマエルは手を離す。
「あ、いや、す、済まない、く、苦しそうだったから、つい……」
心臓が口から飛び出しそうで、言葉もしどろもどろだった。
大天使は起き上がり、サマエルの顔を見ようとしたが、彼は眼を合わせることが出来なかった。

「なぜ、わたしを見ない?」
ウリエルは彼の手首をつかみ、向き直させようとする。
サマエルは、天使から逃れようともがいた。
「放せ、私は何も……」
「さては、わたしの記憶を消そうとしたな!? お前の不利になるからか!」
「ち、違……」

「嘘をつけ!」
「あ……!」
怒鳴りつけられた瞬間、サマエルの中で何かが壊れ、意識が遠のいた。
「サマエル!?」
天使は、いきなりぐったりした彼を、慌てて抱きとめた。

「おい、大丈夫か!?」
揺さぶられ、サマエルは眼を開けた。
「手荒にして済まぬ、気分はどうだ?」
ウリエルの言葉にも、反応はない。

ややあって、その口から、驚くべき言葉が発せられた。
「……おじさん、誰?」
「何?」
「ここ、どこ? 何で、こんなに眩しいの……あ!? あなたは天使!?」
サマエルは飛び起き、初めて見るかのように彼を見た。
「な、何だ……?」
大天使は眼を白黒させた。

サマエルは、きょろきょろ辺りを見回した。
「ここは……檻? それに天使……僕、捕まっちゃったの?」
「まさか、覚えておらぬのか?」
こくりと、サマエルはうなずいた。
「うん……僕、すごく怖かったんだと思う……怖いと、何も分かんなくなって……」

口調も仕草も、眼差しさえもがまるっきり別人のようで、困惑し、眉を寄せたウリエルは、ふと、さっきの会話を思い出した。
「そういえば、時々正気を失い、その間、記憶がないとか言っていたな……」
「え? 僕、おじさんにそんなこと言ったの?」
「ああ。だが、おじさんではないぞ、わたしは二万八千五百歳、お前と大して変わりないはず」
幾分むっとして、ウリエルは言う。

「じゃあ、お兄さんだね、ご免なさい」
サマエルは、ぺこりと頭を下げた。
「でもね、僕はまだ、一万四千歳だよ」
人族では十四、五歳に相当する年齢……サマエルが自分より少し年長だと知っていた大天使は、さらに戸惑った。
「どういうことだ……まさか、精神が退行した……?」

「あれ、僕……!?」
裸だと気づいたサマエルは慌てて足を閉じ、恥じらうように腕で前を隠した。
「あの……全部終わったの、かな?」
「ん? ああ……その後、一寝入りしたところだ」
天使はあくびをした。
「おじさ……お兄さんが最後?」
「最後とは?」

「まだ、他の人もいるの?」
恐怖の色が、さっと瞳を走りぬけ、サマエルは檻の外を(うかが)った。
「安心しろ、他の者は来ない。命じておいたから」
「そう……優しいんだね、お兄さんは」
ほっとしたように、サマエルは体の力を抜いた。

「何ゆえ分かる、覚えておらぬのに」
「だって、どこも痛くないよ。ケガもアザだってないし、優しくしてくれたんだよね……?」
迷子の子犬のような眼差しで、すがるように見つめられ、ウリエルは当惑しつつも、うなずいた。
「ああ、無論だとも」

「よかった。天使さんが優しい人で」
サマエルは、さらに緊張を解いた。
「まあな。わたしのことは、ウリエルと呼んでくれ」
天使は、改めて名乗った。

「……ウリエル? あ、僕、あなたの姿絵を、ご本で見たよ。
怖ーい顔したミカエルより、あなたの方が綺麗……天使の中で一番美人だと思ったよ」
はにかんだような笑みを、サマエルは天使に向けた。
「世辞を言っても何も出ぬぞ」
そう言いながら悪い気はせず、ウリエルもまた笑顔になる。

「お世辞じゃないもん」
サマエルは、可愛らしく頬を膨らませた。
「僕ね、思わず、綺麗だなーって言ったら、グラシャラボラス先生に大目玉食らったんだよ、敵を()めるとは何事です、って」
「まあ、そうだろうな」

「だから、僕、どうして綺麗って言っちゃいけないの、それに、なぜ天使は敵なの、って訊いたんだ。
先生は、天使や神族はご先祖を虐殺し、今も同胞を捕らえては酷いことをする悪者です、そんな連中、褒めてはいけません、って言ったよ」
「むむむ……」
それが真実だと知っていたウリエルは、返事に困った。
しかし、サマエルは、自分の話にのめり込んでいて続けた。

「でも、僕は何もされてないよ、天界に行ってみたいな、って言ったら、先生、ますます怒ったよ、おふざけも大概になさい、って。
それで、僕、言ったんだ。だって、敵と味方って反対の意味だよね、って。
だから、天界の人達は、僕に笑いかけてくれて、酷いこと言ったりしたりしなくて、痛くて苦しくて辛いことしなくても、食べ物もらえるんだよね、って言ったら、先生、ぽかんと口を開けてね。
あなたは意味を取り違えています、二度と天界に行きたいなどと言ってはいけませんって、黒板を指す棒で僕の掌をたたいた……。
悲しかった……やっぱり、先生も、僕のこと嫌いなんだって……」
サマエルはうなだれた。

「いや、そやつは、お前が、どんな目に遭っているか知らなかったのだろう」
「うん。でも、変だとは思ったみたいで、色々調べて、陛下に何か言ってくれたみたいなんだ、そしたら……」
サマエルは言葉を途切らせた。
「どうした?」

「牢屋に入れられちゃった……献立係の人もそう、僕をかばって……。
イシュタル叔母様だって、とっくに王妃になってたはずなのに……僕が邪魔したんだ……。
僕は悪い子だから、何されても仕方ない……けど、僕のせいで、誰かが悲しい思いをするのは……」
サマエルは顔を覆い、肩を震わせた。

込み上げて来るものがあり、大天使は思わず彼を抱きしめた。
「お前は何も悪くない! 屋敷で共に暮らそう、わたしがお前を幸せにしてやる!」
「ホント!? あなたのお屋敷の子にしてくれるの!?」
サマエルは眼を輝かせたが、それも一瞬で、すぐに顔を曇らせ、首を横に振った。

「やっぱり駄目だよ。僕をかばう人は皆、不幸になるんだ……。
だから、あなたも、助けようなんて思わないで」
「何を言う、わたしが必ず……」

「無理だよ、天界にも王様がいるんでしょ、怒られちゃうよ、絶対。
ああ、何で僕、生まれてきちゃったのかな……。
眠っている間に、死ねたらいいのに……眼を開けたら天国で、母様がいて……。
ねえ、どれくらい食べないと死ねるの……僕、三日は我慢出来るんだけど……」
話しながら、サマエルの瞳は、徐々に閉じられていった。

「サマエル? ……眠ってしまったか。しかし、今のは一体……?」
天使は、自分に体を預けて安らかな寝息を立てている、眠り姫のような顔を見つめた。
再び眠気が差して来て、ウリエルは、彼をそっと囚人服の上に寝かせ、自分も横になった。

光の檻の中では分かりにくいが、朝になった。
正確な体内時計のお陰で、先に目覚めたサマエルは、大天使を揺り起こした。
「ウリエル、朝だよ。しびれを切らして、看守が来るかも知れない」
「うあ、それはまずい」
飛び起き、あたふたと衣装をまとったウリエルは、ふと手を止めて彼を見た。
「お前、元に戻ったのだな」

「元に、とは?」
サマエルは首をかしげた。その様子は、普段の彼と変わらないようだった。
「覚えておらぬか? 昨夜お前は、急に子供のようになってだな……」
「ああ……聞いてはいるよ、時々そうなるようだ」

「そのことは知っているのか。
しかし、驚いたぞ。少し話をしただけだが、真実、お前には味方がいなかったのだな。
お前をかばった者達は、次々投獄されて……」

「そういうこともあったね……。
だが、彼らはすぐに許されたし、私自身、二度結婚して子宝にも恵まれたし、不幸ばかりというわけでもないさ。
でも、子供の私はそれを知らない……時が止まったままではね……」
サマエルは眼を伏せた。

「では、今度わたしが教えてやろう、大人になれば、必ず幸せをつかめると」
天使は真剣に請合(うけあ)った。
「ありがとう……でも、その機会があるかどうか。
それより、お前の方が心配だ、天帝に直訴などしないと約束してくれ」

「いや、それは……」
言い返そうとする天使の手を取り、淫魔の王子は自分の頬に当てた。
「他人に言えた義理ではないが、命を無駄にしないでおくれ……」
訴えかけるうるんだ瞳、少しかすれた甘い声、仕草のすべてが、匂い立つような妖しい色気にあふれている。

ウリエルはたまらず、またも彼を押し倒した。
金の輝きを帯びた髪が、さあっと床に広がる。
「あん、駄目……看守に、ミカエルと同類と思われるよ……?」
わずかにサマエルが(あらが)うと、ますます天使の息は荒くなる。
「か、構わぬ……!」

「今は許して、お願いだ……後でなら、いくらでも好きにしていいから……。
看守に見られるのは、もう……」
辛うじての抵抗はそこまでで、サマエルは手で顔を覆った。
そのうち、朝食にかこつけて、心配したアスベエルが様子を見に来るだろう、そして……。

「済まぬ、辛い思いはさせぬと言ったのにな」
我に返り、大天使は彼を解放した。
サマエルは、心底ほっとしたが、念を押すのを忘れなかった。
「お前は優しいね……けれど、くれぐれも、短慮(たんりょ)は禁物だよ」
「分かっている、案ずるな」
名残惜しげに口づけ、大天使は帰っていった。

一人残された魔族の王子は、笑い始めた。
初めはくすくすと、最後には息が出来なくなるほど笑いこけ、狂ったように笑い続けてどれほど経ったか、不意に彼は真顔になり、天井を見上げた。
「お別れだな、ウリエル……お前のことは忘れないよ、決して」