9.逢魔ヶ刻 (3)
手枷が外され、サマエルは身を硬くした。
ウリエルは、彼の向きを変えさせて口づけ、しばらくそうしていた。
焦らすのはやめて欲かった。もう、覚悟は出来ているのだから。
だが、唇を離した大天使の声は、優しかった。
「怯えずともよい、サマエル。わたしはこれ以上、お前に辛い思いをさせる気はない。
先ほど、お前の過去を見た……気の毒にな。
お前を産んで母親が亡くなったからといって、何も、あそこまで酷く……」
大天使の胸に抱かれ、サマエルは緊張を解けずにいた。
「母は人間、父は魔族……異種族の妊娠では、母体が赤ん坊を異物と見なして攻撃し、母子共に危険な状態に陥ることがある。
兄を妊娠した時に抗体ができ、さらに私を身ごもったために亡くなった……つまりは、私が母を殺したようなものだからな……」
「いや、それはお前の責任ではないだろう。
それに、理由はどうあれ、一族を挙げて幼子を責め
ウリエルはきっぱりと言ってのけたが、サマエルはわずかに肩をすくめた。
「魔界の君主が、血を継がぬ者を息子、王子と呼ばなければならないのだよ、まして、愛する妃の死の元凶を……憎いに決まっているさ」
「……ふうむ。この際だ、
すべてを話してくれれば、悪いようにはせぬ。わたしの屋敷で、サリエルと暮らせるように……」
天使の言葉途中で、魔界の王子は拒絶の意を表した。
「それは無理だ」
「ああ、無論、仲間を売れぬ気持ちは分かるぞ。
ならば、先ほどのように心を読み取らせてくれ、さほど良心も痛まぬはず……」
「それこそ不可能だ」
またしてもサマエルは、話の腰を折った。
「ウリエル。私が、世界で一番信用していない者は誰か、分かるか?」
「……神族、か。わたしの言葉が信じられぬと言うのだな」
その台詞に彼は顔を上げ、大天使の顔をまともに見た。
血の色をした瞳と、海の色をした瞳が合う。
「違う。私が信じていないのは、私自身だよ」
王子は、自分の胸に手を当てた。
「何だと?」
サマエルは、視線を宙に
「私は時折、正気を失い、その間のことは覚えていない。
だから、大事な記憶には厳重に鍵をかけ、読み取られることも、みずから話すことも出来ないようにしたのさ……愛してくれる人達を、決して裏切らないように、ね」
「むう……そうまでしていたとは」
ウリエルは顔をしかめた。
「聞いていなかったか? ミカエルには言ったはずだが」
大天使は、一層渋い顔になった。
「あの方のことだ、わざと教えなかったのだろうよ、まったく。
ときに、鍵とやらを外す方法はあるのだろうな。
ずっと心を閉ざしたまま、というわけにもいくまい?」
「鍵を安全に外せるのは、魔界王家の者だけだ。
いや、七大天使が全員でかかれば、わずかだが、壊せる可能性も……」
「ほう?」
ウリエルは思わず身を乗り出す。
「鍵を力ずくで破壊したら、記憶どころか私の心まで壊れ……あ、お前にはその方がいいのか」
魔界の王子は、悲しげに微笑んだ。
「私は、牙を抜かれた毒蛇も同然……いや、もっと無害な、そう……日向で昼寝する猫のごとき廃人と成り果てるだろうからな。
そして、命を絶たれる瞬間にも、お前に喉を鳴らし続ける……お前が私を、愛してくれる限りね」
「あ、いや、わたしはそんなつもりで……」
「お前がどんなつもりでも、私が与えられるのは、この汚れた体だけ。いくらでも好きにするがいいさ。
でも、心の方はあげられない。悪いが」
サマエルは眼を伏せた。
「く、そうしてわたしも、お前に溺れてミカエル様のようになる、という寸法か?」
「それはないよ」
彼は否定の仕草をした。
銀の髪が、さらさらと揺れる。
看守達が運んでくれる水を毎日浴びることで、美しい
「本当か?」
大天使は疑わしげだった。
「あいつの相手、三大サッキュバスの一人、吟詠公爵ゴモリー……兄を二人共殺され、天使を激しく憎んでいた彼女にとって、ミカエルは格好の獲物だった……。
淫魔の呪いから逃れる方法はただ一つ、お前のように、一途な想いを真剣にぶつけること……すなわち、真実の愛を与えることなのさ……」
「真実の愛だと? 術をかけて
苦々しく言うウリエルを、サマエルは髪の間から上目遣いに見た。
「……では、お前の、私への想いも、術による錯覚だと?」
「当たり前だ。お前に誘惑されなければ、わたしとて、こんなことには……」
「……はて、覚えがないが」
魔物の王子は首をかしげた。
その仕草で、こぼれ落ちる銀の絹糸のような髪を、繊細な指先でかき上げる。
いつもは冷たく青白い肌が、抱かれたことで、今は、血の色が透けてほのかに桜色を帯び、汗でしっとりと濡れもして、例えようもなく
さらには、髪の匂いとはまた微妙に違う、えもいわれぬよい香りが全身から漂い出て、一層、天使の欲望をかき立てていた。
「あ、あの日のことを、忘れたとは言わせぬぞ!」
思わず、ウリエルは頬を紅潮させて声を上ずらせ、彼に指を突きつけた。
サマエルは、きょとんとした。
「あの日……?
私は分厚いローブで肌や顔も隠し、かなり距離もあって言葉も交わさず……それで、どうやって誘惑したと?」
「だ、だが、風でフードが飛ばされただろう!
現れたお前の顔を見た
あれが誘惑でなくて、何だというのだ!」
向きになって大天使が怒鳴ると、サマエルはぷっと吹き出した。
「な、何がおかしい!」
「……ウリエル。それはやはり、私のせいではないなぁ。一目惚れと呼ぶのだろうよ、そういうのは」
「そ、そんな……」
ウリエルは上半身まで真っ赤になり、うなだれた。
魔族の王子はくすくす笑いながら、髪を絡めた指をそんな天使に突きつけた。
「すでに誘惑し終えている相手に、重ねてこんなことをする必要があると思うか?
もしそうなら、女神達だってもっと前から、お前を追い回していたはずだろう?」
「だ、だが、ミカエル様は!?
好かれるどころか、女神様方には近寄られるのも嫌がられているぞ、あれはどういうことなのだ!」
大天使はすねたように唇を尖らせ、言い立てる。
「ゴモリーも私と同じことをしたのさ、こうやって……唾液まみれにして……」
サマエルは、熟れた果物のように紅い唇を開き、長く伸ばした濡れた舌で、髪の絡んだ指をゆっくりとなめ回した。
それもまた、かなり
「サッキュバスの髪を埋め込まれた男には、基本、女性は近づかない……ただし、その男が力ずくでものにした女性は、逆に離れられなくなるのだがね」
「な、なるほど……」
生唾を飲み込み、ウリエルはうなずいた。
不意に、サマエルは真顔になった。
「ところで、ウリエル。お前の方こそ、魔族に寝返らないか?」
「な、何!?」
想像もしていなかった提案に、大天使は眼を剥いた。
「このままいけば、私の処刑は確実、生かされたとしても、ミカエルが独占するだろう。
それに反して、お前が私を連れて脱出すれば、王子を助けた英雄として歓迎されるよ、どう思う?」
サマエルは、にっこりした。
「そ、そのようなこと……」
大天使の心がぐらつくのを魔界の王子は感じたが、ウリエルは散々迷った挙句、否定の仕草をした。
「やはり出来ぬよ、サマエル。わたしには。
天帝様の命に従い、天界を、神族を守るのが、天使の務め。
それに、魔界に行っても、お前には妻がいて、わたしのものにはならぬ、違うか?
それとも、妻と別れて一緒になってくれるのか、わたしと?」
大天使は、真剣な表情で彼の手を握り、眼を覗き込んだ。
「う……」
サマエルは返答に
「済まない。妻と離縁は出来ないよ。
側室では……あ、それは、妻が承知しそうもないな……」
「わたしも嫌だぞ、お前を誰かと共有するなど」
「そう。せめて、お前が女性だったらね。
結構美人だし、天界の女を味見させると言えば、妻も説得出来たかも……」
「あ、味見!? 何を言うのだ、お前!?」
大天使は再び、眼を見開いた。
「何って、素晴らしい経験が出来るよ?
“焔の眸”は四つの化身を持っているし、得られる快楽は、私だけ相手にするのとは比べ物にならないからね」
無邪気に答える魔物の王子の顔を、大天使はしげしげと見、それから大きく息を吐いた。
「おや、どうした?」
「……いや、何と言うか、少々驚いただけだ。
魔界との、文化的違いを思い知らされてな……」
「あ、勘違いしないでくれ、私が特殊なのだから。
その証拠に、以前、王妃と三人でどうかと兄に訊いたら、きっぱり断られたよ。
愛してくれる者を、周りに一人でも多く集めたがる、欲深い男なのさ、私は……」
「欲深というより、幼い頃、周囲に味方がいなかったゆえではないのか?」
「そう……たしかに、体目当てで寄って来る者は、敵も同然だったな。
ウリエル……ならば、私に関する記憶を消してやろうか?
淫魔を愛する心など、天使には不要だろう?」
水を向けてみたが、ウリエルはまたも、首を横に振った。
「たとえ消しても、また同じことになるだろうよ。
そして、自分の心は自分の物だ、天界に忠誠を捧げていてもな。
お前を
お前は檻から逃げられぬし、わたしにも逆らえぬ……ゆえに、生かしておいても害にはなりませぬと
「何だって、天帝に直訴!?」
サマエルは珍しく、驚きを
「よしなさい、そんな馬鹿なこと。
出世にも差し支えるし、地下室送りか、最悪、処刑されてしまうかも知れないぞ!?」
「大丈夫だ、わたしとて七大天使の一員、いきなり処刑などあるまいよ。
それに、出世などより、お前を得る方が、わたしにとっては大事だからな」
「よせと言うのに、私などのために、そん……」
反論途中で口をふさがれて、サマエルは何も言えなくなる。
「う……あ」
口づけから解放された彼は、天使にしがみついた。
呼吸が荒くなり、体が震える。
「どうした? 辛そうだな、そんなにわたしのキスが嫌か?」
「そ、そうではなく……一度では足りなくて……肌が触れていると、余計に欲しくなってしまって……。
私は淫魔だから……嫌なのに、勝手に、体が求めてしまう……お、抑えられない……もう行って……ひ、一人で何とか……くっ」
歯を食い縛り、サマエルは大天使を押しのけようとする。
だが、ウリエルは彼を放さなかった。
「つまり、また抱けばいいのか?」
「駄目だよ、お前は疲れて……」
サマエルは弱々しく首を振る。
「心配ない、こう見えても、わたしは
「でも、愛もなく、体だけ求められるのは嫌だろう」
「構わぬよ。一人ではわびしかろう。
妻が恋しくとも、ここではな……せめて、わたしが相手になってやろう」
大天使は、再び彼に口づける。
せんじょうてき【扇情的】
感情や情欲をあおりたてるさま。