~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

9.逢魔ヶ刻(おうまがどき)(3)

手枷が外され、サマエルは身を硬くした。
ウリエルは、彼の向きを変えさせて口づけ、しばらくそうしていた。
焦らすのはやめて欲かった。もう、覚悟は出来ているのだから。
だが、唇を離した大天使の声は、優しかった。
「怯えずともよい、サマエル。わたしはこれ以上、お前に辛い思いをさせる気はない。
先ほど、お前の過去を見た……気の毒にな。
お前を産んで母親が亡くなったからといって、何も、あそこまで酷く……」

大天使の胸に抱かれ、サマエルは緊張を解けずにいた。
「母は人間、父は魔族……異種族の妊娠では、母体が赤ん坊を異物と見なして攻撃し、母子共に危険な状態に陥ることがある。
兄を妊娠した時に抗体ができ、さらに私を身ごもったために亡くなった……つまりは、私が母を殺したようなものだからな……」

「いや、それはお前の責任ではないだろう。
それに、理由はどうあれ、一族を挙げて幼子を責め(さいな)むなど、許されることではあるまい」
ウリエルはきっぱりと言ってのけたが、サマエルはわずかに肩をすくめた。
「魔界の君主が、血を継がぬ者を息子、王子と呼ばなければならないのだよ、まして、愛する妃の死の元凶を……憎いに決まっているさ」

「……ふうむ。この際だ、眷属(けんぞく)への義理立てなどやめてはどうだ?
すべてを話してくれれば、悪いようにはせぬ。わたしの屋敷で、サリエルと暮らせるように……」
天使の言葉途中で、魔界の王子は拒絶の意を表した。
「それは無理だ」

「ああ、無論、仲間を売れぬ気持ちは分かるぞ。
ならば、先ほどのように心を読み取らせてくれ、さほど良心も痛まぬはず……」
「それこそ不可能だ」
またしてもサマエルは、話の腰を折った。
「ウリエル。私が、世界で一番信用していない者は誰か、分かるか?」
「……神族、か。わたしの言葉が信じられぬと言うのだな」

その台詞に彼は顔を上げ、大天使の顔をまともに見た。
血の色をした瞳と、海の色をした瞳が合う。
「違う。私が信じていないのは、私自身だよ」
王子は、自分の胸に手を当てた。
「何だと?」

サマエルは、視線を宙に彷徨(さまよ)わせた。
「私は時折、正気を失い、その間のことは覚えていない。
だから、大事な記憶には厳重に鍵をかけ、読み取られることも、みずから話すことも出来ないようにしたのさ……愛してくれる人達を、決して裏切らないように、ね」
「むう……そうまでしていたとは」
ウリエルは顔をしかめた。

「聞いていなかったか? ミカエルには言ったはずだが」
大天使は、一層渋い顔になった。
「あの方のことだ、わざと教えなかったのだろうよ、まったく。
ときに、鍵とやらを外す方法はあるのだろうな。
ずっと心を閉ざしたまま、というわけにもいくまい?」

「鍵を安全に外せるのは、魔界王家の者だけだ。
いや、七大天使が全員でかかれば、わずかだが、壊せる可能性も……」
「ほう?」
ウリエルは思わず身を乗り出す。
「鍵を力ずくで破壊したら、記憶どころか私の心まで壊れ……あ、お前にはその方がいいのか」
魔界の王子は、悲しげに微笑んだ。

「私は、牙を抜かれた毒蛇も同然……いや、もっと無害な、そう……日向で昼寝する猫のごとき廃人と成り果てるだろうからな。
そして、命を絶たれる瞬間にも、お前に喉を鳴らし続ける……お前が私を、愛してくれる限りね」
「あ、いや、わたしはそんなつもりで……」

「お前がどんなつもりでも、私が与えられるのは、この汚れた体だけ。いくらでも好きにするがいいさ。
でも、心の方はあげられない。悪いが」
サマエルは眼を伏せた。
「く、そうしてわたしも、お前に溺れてミカエル様のようになる、という寸法か?」

「それはないよ」
彼は否定の仕草をした。
銀の髪が、さらさらと揺れる。
看守達が運んでくれる水を毎日浴びることで、美しい(つや)は保たれていた。
「本当か?」
大天使は疑わしげだった。

「あいつの相手、三大サッキュバスの一人、吟詠公爵ゴモリー……兄を二人共殺され、天使を激しく憎んでいた彼女にとって、ミカエルは格好の獲物だった……。
淫魔の呪いから逃れる方法はただ一つ、お前のように、一途な想いを真剣にぶつけること……すなわち、真実の愛を与えることなのさ……」

「真実の愛だと? 術をかけて(まど)わし、そう思い込ませているくせに」
苦々しく言うウリエルを、サマエルは髪の間から上目遣いに見た。
「……では、お前の、私への想いも、術による錯覚だと?」
「当たり前だ。お前に誘惑されなければ、わたしとて、こんなことには……」

「……はて、覚えがないが」
魔物の王子は首をかしげた。
その仕草で、こぼれ落ちる銀の絹糸のような髪を、繊細な指先でかき上げる。
いつもは冷たく青白い肌が、抱かれたことで、今は、血の色が透けてほのかに桜色を帯び、汗でしっとりと濡れもして、例えようもなく(なまめ)かしい。
さらには、髪の匂いとはまた微妙に違う、えもいわれぬよい香りが全身から漂い出て、一層、天使の欲望をかき立てていた。

「あ、あの日のことを、忘れたとは言わせぬぞ!」
思わず、ウリエルは頬を紅潮させて声を上ずらせ、彼に指を突きつけた。
サマエルは、きょとんとした。
「あの日……?
私は分厚いローブで肌や顔も隠し、かなり距離もあって言葉も交わさず……それで、どうやって誘惑したと?」

「だ、だが、風でフードが飛ばされただろう!
現れたお前の顔を見た刹那(せつな)、わたしは顔が熱くなり、胸が苦しくなったのだぞ!
あれが誘惑でなくて、何だというのだ!」
向きになって大天使が怒鳴ると、サマエルはぷっと吹き出した。
「な、何がおかしい!」

「……ウリエル。それはやはり、私のせいではないなぁ。一目惚れと呼ぶのだろうよ、そういうのは」
「そ、そんな……」
ウリエルは上半身まで真っ赤になり、うなだれた。
魔族の王子はくすくす笑いながら、髪を絡めた指をそんな天使に突きつけた。
「すでに誘惑し終えている相手に、重ねてこんなことをする必要があると思うか?
もしそうなら、女神達だってもっと前から、お前を追い回していたはずだろう?」

「だ、だが、ミカエル様は!?
好かれるどころか、女神様方には近寄られるのも嫌がられているぞ、あれはどういうことなのだ!」
大天使はすねたように唇を尖らせ、言い立てる。

「ゴモリーも私と同じことをしたのさ、こうやって……唾液まみれにして……」
サマエルは、熟れた果物のように紅い唇を開き、長く伸ばした濡れた舌で、髪の絡んだ指をゆっくりとなめ回した。
それもまた、かなり扇情的(せんじょうてき)な眺めだった。
「サッキュバスの髪を埋め込まれた男には、基本、女性は近づかない……ただし、その男が力ずくでものにした女性は、逆に離れられなくなるのだがね」
「な、なるほど……」
生唾を飲み込み、ウリエルはうなずいた。

不意に、サマエルは真顔になった。
「ところで、ウリエル。お前の方こそ、魔族に寝返らないか?」
「な、何!?」
想像もしていなかった提案に、大天使は眼を剥いた。
「このままいけば、私の処刑は確実、生かされたとしても、ミカエルが独占するだろう。
それに反して、お前が私を連れて脱出すれば、王子を助けた英雄として歓迎されるよ、どう思う?」
サマエルは、にっこりした。

「そ、そのようなこと……」
大天使の心がぐらつくのを魔界の王子は感じたが、ウリエルは散々迷った挙句、否定の仕草をした。
「やはり出来ぬよ、サマエル。わたしには。
天帝様の命に従い、天界を、神族を守るのが、天使の務め。
それに、魔界に行っても、お前には妻がいて、わたしのものにはならぬ、違うか?
それとも、妻と別れて一緒になってくれるのか、わたしと?」
大天使は、真剣な表情で彼の手を握り、眼を覗き込んだ。

「う……」
サマエルは返答に(きゅう)した。
「済まない。妻と離縁は出来ないよ。
側室では……あ、それは、妻が承知しそうもないな……」
「わたしも嫌だぞ、お前を誰かと共有するなど」

「そう。せめて、お前が女性だったらね。
結構美人だし、天界の女を味見させると言えば、妻も説得出来たかも……」
「あ、味見!? 何を言うのだ、お前!?」
大天使は再び、眼を見開いた。
「何って、素晴らしい経験が出来るよ?
“焔の眸”は四つの化身を持っているし、得られる快楽は、私だけ相手にするのとは比べ物にならないからね」

無邪気に答える魔物の王子の顔を、大天使はしげしげと見、それから大きく息を吐いた。
「おや、どうした?」
「……いや、何と言うか、少々驚いただけだ。
魔界との、文化的違いを思い知らされてな……」

「あ、勘違いしないでくれ、私が特殊なのだから。
その証拠に、以前、王妃と三人でどうかと兄に訊いたら、きっぱり断られたよ。
愛してくれる者を、周りに一人でも多く集めたがる、欲深い男なのさ、私は……」
「欲深というより、幼い頃、周囲に味方がいなかったゆえではないのか?」

「そう……たしかに、体目当てで寄って来る者は、敵も同然だったな。
ウリエル……ならば、私に関する記憶を消してやろうか?
淫魔を愛する心など、天使には不要だろう?」
水を向けてみたが、ウリエルはまたも、首を横に振った。

「たとえ消しても、また同じことになるだろうよ。
そして、自分の心は自分の物だ、天界に忠誠を捧げていてもな。
お前を擁護(ようご)することで立場が悪くなっても、自業自得というもの……そうだ、この際、思い切って、直接、天帝様にお願いしてみるかな。
お前は檻から逃げられぬし、わたしにも逆らえぬ……ゆえに、生かしておいても害にはなりませぬと奏上(そうじょう)すれば、もしかしたら……」

「何だって、天帝に直訴!?」
サマエルは珍しく、驚きを(あらわ)にした。
「よしなさい、そんな馬鹿なこと。
出世にも差し支えるし、地下室送りか、最悪、処刑されてしまうかも知れないぞ!?」

「大丈夫だ、わたしとて七大天使の一員、いきなり処刑などあるまいよ。
それに、出世などより、お前を得る方が、わたしにとっては大事だからな」
「よせと言うのに、私などのために、そん……」
反論途中で口をふさがれて、サマエルは何も言えなくなる。

「う……あ」
口づけから解放された彼は、天使にしがみついた。
呼吸が荒くなり、体が震える。
「どうした? 辛そうだな、そんなにわたしのキスが嫌か?」

「そ、そうではなく……一度では足りなくて……肌が触れていると、余計に欲しくなってしまって……。
私は淫魔だから……嫌なのに、勝手に、体が求めてしまう……お、抑えられない……もう行って……ひ、一人で何とか……くっ」
歯を食い縛り、サマエルは大天使を押しのけようとする。

だが、ウリエルは彼を放さなかった。
「つまり、また抱けばいいのか?」
「駄目だよ、お前は疲れて……」
サマエルは弱々しく首を振る。
「心配ない、こう見えても、わたしは頑丈(がんじょう)だ」

「でも、愛もなく、体だけ求められるのは嫌だろう」
「構わぬよ。一人ではわびしかろう。
妻が恋しくとも、ここではな……せめて、わたしが相手になってやろう」
大天使は、再び彼に口づける。

せんじょうてき【扇情的】

感情や情欲をあおりたてるさま。