9.逢魔ヶ刻 (2)
それから一週間経ち、檻の中で待つしかないサマエルへ、アスベエルが声をかけて来た。
「済みません、サマエル様、ちょっと知恵をお貸し頂けませんか」
彼はすぐにピンと来たが、何食わぬ顔で訊いた。
「何かな、アスベエル」
「実は……ウリエルが、ベリアスの口を封じようとしたんです。
『お前達、本当は見ていて、わたしを
彼、最近、様子が変で……いくら違うと言っても、全然聞く耳持たなくて、目つきも何かおかしいし……。
俺は一応、大天使ですから大丈夫だと思うんですが、他の看守達のことも心配だし、どうしたらいいものかと……」
看守長は、いかにも困り果てている様子だった。
「そんなことだろうと思っていたよ。
あいつにはこう言ってやりなさい、もし、自分も含めて看守の誰かに手を出したら、お前の秘密は即座に、ミカエルの手元へ渡る手はずになっている、とね。
そうすれば、もう手を出しては来ないだろう」
(こんな風に言えば、ウリエルは、嫌でも、ここへ来なければならなくなる。
秘密とは何か、を知るために……)
サマエルはそう思い、看守長に知恵をつけたのだった。
「分かりました、ありがとうございます! 俺、今すぐ言って来ますよ!」
アスベエルは顔を輝かせ、檻を後にした。
予想通り、その日の午後、大天使がやって来た。
「看守長、こやつと二人だけにしてくれ。
何があろうと、俺が呼ぶまで誰も来させぬように。これは命令だ、いいな」
ウリエルは、瞳を暗く光らせて、命じた。
「……分かりました、ウリエル様」
礼をしてアスベエルが去ると、ウリエルは険しい表情で檻に入って来た。
その大天使を、じっくりとサマエルは眺めた。
澄んでいた青い眼は灰色に
「ようやく、二人きりになれたな、ウリエル」
魔界の王子は、天使に微笑みかけた。
「それにしても、ちょっと見ないうちに、随分やつれたような……ちゃんと食べて、寝ているのか?」
「白々しい、お前、わたしに何をしたのだ!
連日、女神様方に付きまとわれ……屋敷にまで押しかけて来られて、それは大変だったのだぞ!」
いきり立って、ウリエルは彼に指を突きつけた。
サマエルは肩をすくめた。
「おやおや、なぜ怒るのだ? 女神達に大もてなんて、喜ばしい限りだろう」
「うるさい、女神様方の様子は
宮殿の中でまで抱きつかれ、口づけをせがまれ……しまいに天帝様にお叱りを受けたのだぞ!
すべてお前のせいだ、この、忌々しい悪魔め!」
ウリエルは、乱暴に魔物の王子の首をつかんだ。
「ぐっ……」
サマエルは眼を閉じ、もがくことさえしなかった。
いずれ遠からず、処刑されることは確実で、今、殺されても別に構いはしない。
しかし、こうしてののしられ、乱暴に首を絞められていると、どうしても昔、兄タナトスに殺されかけたことを思い出してしまう。
その後で、もてあそばれたこと、叔父や他の者達にも、そして……。
彼が心を
「ああ、そう……か、お前……私の、ことを……好いて、いてくれた、のだな……」
「な、な、な、何を、何を言っている! そ、そんな、そんなわけが、あるかっ……!」
ウリエルはしどろもどろになり、
「そう……ウ、リエル……いい、よ……お前に、なら、殺され、ても……。
こ、んな、私を……好いて、くれる……お前、になら……こ、んな、命、喜んで……」
「ち、違う、違う!
わたしは、お前のことなど……わたし、わたしは……くそ、わたしの心を読むなっ!」
大天使は激しく頭を振った。
「……く、う、……」
だが、そのやり取りまでがサマエルの限界だった。
息がつまり、気が遠くなって、体から力が抜ける。
「サマエル、死ぬな、ああ、死なないでくれ!」
次の瞬間、首にかかる圧力が消え、彼は大天使に揺さぶられて、正気づいた。
「う、く、ごほ……どう、した……早く、殺せ……! 私は、敵だぞ……大、天使……」
喉を押さえてうずくまる彼のそばへ、ウリエルは腰が抜けたように座り込み、うなだれて首を横に振った。
「やはり出来ぬ、わたしには……。
お前の言う通りだ……わたしは、一目見たときから、お前を……」
「え、あんな昔から……?」
「そうだ……一時は、お前の顔ばかり浮かび、何も手につかぬほどで……。
されど、わたしは大天使……しかも、七大天使の一人だ……淫魔にそんな感情を持つこと自体、どうかしている……。
わたしは、おのれを恥じ、お前への感情を忘れようと努め、忘れたと思っていたのに……」
ウリエルは頭を抱えた。
「何と……まったく知らなかったよ……」
「だが、戦が始まり、お前は捕えられた……それを知り、お前の姿を垣間見た途端、わたしの心は一瞬で、あの頃に戻ってしまい……。
そして、あろうことか、わたしに、お前を拷問する役が回って来て……。
出来るわけがない……だが、しなければ……闇の塔送りか、それとも処刑か……?
わたしは悩み、息子のサリエルを苦しめれば、自白させられるのではと考えついた……。
しかし、彼は、わたしにとっても弟のようなもの……仕方なく、ホムンクルスを代わりに……。
そして、お前が悲しむ顔も見たくなく、早く終わらせたかった……それでつい、力が入り、やり過ぎてしまったのだ……」
「そうだったのか……お前が、そんな感情を抱いていたとは露知らず……。
私は思い違いをしていたよ……」
「何が思い違いだ、わたしはこんなに……こんなに、お前のことを想っているのに、お前ときたら……!
わたしをもてあそび、苦しめるばかりで……この、淫魔め!」
大天使は、床の鉄の輪に手枷を留め、サマエルの唇を奪う。
さらに囚人服を剥ぎ取ると、自分も着衣をかなぐり捨てて、覆いかぶさった。
サマエルは、やはり抵抗しなかった。
床に固定されては、暴れても無駄なのは経験済みだった。
何より、ウリエルの感情が流れ込んで来て以降、彼の体は、マヒしたように動けなくなっていたのだ。
彼に出来たのは、歯を食い縛り、すべてが終わるのを待つことだけだった。
積年の想いを遂げると、大天使は起き上がり、サマエルの顔を覗き込んだ。
「意外だったろうな、わたしがお前を好いていたなどと。
屈辱でもあるだろうな、相手が敵の男では……。
だが、わたしとて、今まで誰にも言えず、ひたすら心の奥に秘めていた想いなのだ……。
それでも、お前が、あんな風に仕掛けて来なければ、こんなことまでしようとは……夢にも思っていなかったが……」
「……ウリエル。本当のところ、私は、お前に何もしていないのだよ」
もはや騙している意味がないと考えたサマエルは、そう告げた。
「何を! 今さら見苦しいぞ!
ならば、何ゆえ、女神達が屋敷にまで押しかけて来たのだ!?
卑怯にも意識のないわたしに、淫魔のお前が、今と同じ……いやらしいことをしたからだろう!」
ウリエルは、腹立たしげに、彼に指を突きつけた。
「同じこと……? いいや。私は何もしていないよ、本当に。誓ってもいい。
ただ、少し細工をしただけ……そら、お前の首に……」
サマエルが指で示すところに、ウリエルが自分で触れると、ちくりとした。
「む? そういえば、最近、ここが妙にちくちくする気がしていたが……」
「……そうだろうな。手枷をつけたままでいいから、起き上がらせてくれ、それを抜くよ」
サマエルは手招きをする。
「……抜く? 何をだ」
床の鉄の輪から手枷を外してやりながら、ウリエルは尋ねた。
「これさ……」
起き上がったサマエルが、その場所を指でつまむと、細長い糸のようなものがするすると出て来た。
指に巻きつけ、髪に近づける。両方、同じ紫色をしていた。
「まさか、これが原因……?」
「その通り。
私の髪から漂い出る淫魔の香りに誘われて、女神達は、お前を追いかけ回していたのだよ」
ウリエルは、眼を大きく見開いた。
「何……では、お前は本当に……」
「そう。私は、無理強いはしない主義でね。
あ、今の妻にはしてしまったのだった……その代償はずいぶん高くついたが、同意なしだったのは、その一回きりだよ。
私の心を読めば、偽りでないのが分かるだろう……私はただ、お前を
そう言うと、サマエルはくるりと背を向けた。
(ああ……私は、何をしているのだろう……。
どの道、生きては帰れないけれど、もう“焔の眸”に顔向け出来ない……ミカエルだけならともかく、ウリエルにまで……。
お前に会いたい、無性に会いたいよ、“焔の眸”。せめて、ペンダントがあれば……)
涙で流すことが出来ず、彼の心には、悲しみが深く降り積もってゆくのだった。
「泣くな、サマエル」
そんな彼の心を察したように、ウリエルが言った。
「……泣いてなどいない。私の眼は構造上、涙を流せない」
後ろを向いたまま、そっけなく彼は答える。
「……そうか。されど、辛い思いをしていることには変わりあるまい……。
初めて会ったあのときから、お前には笑顔が似合うと思っていた……なのに、わたしは……何と酷いことをしたものだか……。
まるで、夫がいるのにと泣く人妻を手込めにしたような気分だ……いや、とにかく、済まなかった、お互い誤解していたのだな」
大天使は、サマエルの髪を優しくなでた。
「愛されていると知ってしまったが最後、私は、求められると拒絶出来ない……どう拒否していいかも分からなくて……兄に対するようにね……。
だから、私はもう、お前に逆らえない……望むなら、この手枷を外して抱くがいい、私は
公衆の面前で天界中の男達に玩具にされても、お前に耳元で『全部終わったら、また愛してやる』とでもささやかれたら……私は……それを受け入れてしまうことだろうよ……」
サマエルの声は、抑えようもなく震えていた。
「何とまあ……。悪魔の弱点は“真実の愛”だと言うが……そういうこと、なのか……?」
「私の場合は、変態だからだよ……生まれつきのね。
お前が愛したのは、こんな最低の男……まさしく、
いっそ、一思いに殺してくれ……さっきのように首でも絞めて……私は、抵抗出来ないし、しないから……」
魔族の王子は枷をはめられた手で顔を覆い、身を震わせた。
だき【唾棄】
つばを吐きすてること。転じて、非常に軽蔑して嫌うこと。