9.逢魔ヶ刻 (1)
逃げるように光の塔を出てから、ウリエルは、ローブが紅く染まっているのに気づいた。
「うわ、何だこれは。
……そうか、大蛇に襲われたときの血か。
忌々しいホムンクルスめ、──ディファケティオ!」
小声で毒づき、呪文を唱えて汚れを落としたとき、今にも沈もうとする太陽の最後の輝きが眼を射て、大天使は思わず手をかざした。
高台にそびえ、夕日に照り映える壮麗な宮殿、その向かって右に建つのが、彼が出て来た光の塔、宮殿を挟んで左に建つのが、神族の罪人を収監する、闇の塔だった。
眼下には、天界唯一の都市が整然と広がる。
神族の居住地域は、強力な結界、“
そのため、神殿だけでなく広大な都市をも含めて、神族はパンテオンと呼んでいるのだった。
七大天使の一人であるウリエルは、宮殿の中の自室だけでなく、市街にも
今の一幕で心を乱された彼は、一旦屋敷に戻って気持ちを落ち着けようと、パンテオンの大路に向けて歩き出した。
しかし、市街に入った途端、妙に女神達の視線が気になり始めた。
「ウリエルだわ……」
「今日はまた、一段とたくましいわね……」
「素敵……」
女神達はひそひそと、彼の噂をしているようだった。
彼は首をかしげたが、あんなことがあった後で、神経が尖っているのだろうと思った。
見慣れた街路が不気味に感じられ、彼の歩みは、無意識に速くなっていった。
「誰だ!?」
そのとき、突如、薄暗い路地から何者かが飛び出して来て、大天使は身構えた。
「ウリエル、これを受け取って!」
頬を染めた一人の女神が、匂い立つ花束を差し出していた。
「こ、これは女神様、失礼致しました、ありがたく頂戴致します」
彼は気を静め、うやうやしくそれを受け取る。
すると、女神は彼の顔を両手で挟み、唇を奪った。
「これはお代よ。またね」
花のように笑い、女神は去っていく。
「女神様……!?」
眼を白黒させ、ウリエルが唇に手を当てた、そのとき。
「ずるい、抜け駆けなんて!」
「わたくしの花も、受け取らないと承知しないわよ!」
「ウリエル、わたくしのも!」
わらわらと女神達が群がって来て、彼の戸惑いはさらに深まった。
「も、申し訳ございませぬ、女神様方、急ぎの所用が……これにて御免!」
ウリエルは、言い訳もそこそこに翼で飛び上がり、全速力で帰路に着いた。
「お帰りなさいませ、ウリエル様」
屋敷にたどりつき、いつものように出迎えた部下に、彼は
「ユーリ、わたしのどこかが違ってないか、いつもと?」
最下級天使は、眼を丸くした。
「え? 何か違っておいでなのですか?」
「そうだ、何でもいい、気づいたことを言ってくれ!」
「そう仰られましても……あ、」
「何だ?」
幾分どきりとして、ウリエルは訊く。
「お顔が紅く、汗をかいてらっしゃいますね。お熱でも?」
「いや、これは、今、力一杯飛んで来たためだ」
「左様でございましたか。あとは……いい匂いが致しますね」
「これだな。女神様に頂いた、生けておいてくれ」
花束を受け取ったユーリは、小首をかしげた。
「はい、ですが、これの香りではないようですよ」
「何?」
天使は、彼のそばで鼻を動かした。
「ああ、やはり。何でしょう、とてもいい匂いですが。
果物か何か、召し上がったのですか?」
「いや……」
急いでウリエルは、自分の体を嗅いでみた。
たしかに、
不快なものではない。
むしろ好ましく、うっとりしてくるような……女神達は、この匂いに
(むう……しかし、何の香りだ……あ!)
不意に魔物の王子の顔が頭に浮かび、大天使は、全身の血が逆流する思いを味わった。
さっき淫魔を突き飛ばしたとき、ほとばしるように匂った
「どうなさいました?」
心配そうに尋ねられ、彼は我に返った。
「いや、今日は色々あってな……疲れた。食欲もない、入浴して休む」
「では、寝室にお飲み物でも?」
「ああ、頼む」
「承知致しました」
天使は、軽く頭を下げて去っていった。
その足で、ウリエルは、脱衣所に行って裸になり、等身大の鏡に全身を映してみた。
特に変わった様子はない。
彼は安堵して、浴槽に身を沈めた。
洗えば、こんな匂いなどすぐに取れる、彼は最初、そう高をくくっていた。
だが、入浴後、鼻が敏感になったのか、余計に香りが強く感じられるようになってしまっていることに気づいて
(……まるで、体の内側から匂って来るような……まさか)
温かい湯から出たばかりなのに、体の震えが止まらない。
淫魔流のやり方で仇を取ったと、サマエルは言っていた。
ウリエルも大天使、淫魔がどうやって女性を誘惑するかくらい、知っている。
まして、サマエルは王子、その力は計り知れず、女性のみならず男でさえ手玉に取る……そのいい例が、ミカエルだった。
天使長ともあろうものが、淫魔と情を交え、あげくに丸一日眠り込んで、大事な勤めをすっぽかすという、前代未聞の不祥事が起きたのだから。
(そのせいで、わたしにお鉢が回って来て……結果がこれか、くっ……!
いや、落ち着け、何もなかったのだ、あるはずがない。
忘れろ、あんな淫魔のことなど……!)
乱れる感情を抑えようと、大天使は拳を握り締め、深呼吸をする。
ベッドに入っても、寝返りばかり打ち、うとうとしては淫魔の顔が浮かんで来て飛び起きる、それの繰り返しで、ようやく彼が眠りに落ちたのは、朝方になってからだった。
そうして、大して眠らないうちに、寝室のドアがノックされた。
「ウリエル様、お早うございます。朝食をお持ち致しました」
「う……もう、そんな時間か……」
大天使は眼をこすって起き上がり、頭を振って眠気を追い払おうとした。
入って来たユーリは、サイドテーブルに食事を置き、口を開いた。
「あの、ぜひともウリエル様にお会いしたいと
「女神様方が……?」
オウム返しに答えてから、ウリエルは、昨日の夕刻のことを思い出した。
「たくさんとは、何人くらいだ?」
「十五人です、今のところ……。
最初にいらした方は、あまりに早朝でしたので、お引取り願ったのですが、すぐ戻っていらして。
仕方がないので、応接室にお通ししました。でも、その後も、次々と……。
それに、皆様、何か様子が変で……いかが致しましょうか」
「……む……」
ウリエルは返事に困り、黙り込む。
その様子を見たユーリは、助け舟を出すように言った。
「ウリエル様、まずは、お食事になさってはいかがでしょう。
昨夜も、何も召し上がっておられませんし」
「……そうだな」
味も分からぬまま、大天使は、慌しく朝食をかき込んだ。
「相済まぬ、少し、一人にしてくれぬか。
女神様方にお会いするには、やはり気構えが必要だ。支度が出来たら呼ぶゆえ」
「では、もう少々お待ち頂きますよう、お伝えしておきます」
「頼んだぞ」
盆を手にして天使が去ると、ウリエルは鏡を睨みつけた。
「……サマエル、淫魔め! わたしも、ミカエル様のようにするつもりか!」
かつては天界人の尊敬を集めていた天使長も、あるときを境に、がらりとその性格を変え、初めは当惑、やがては嫌悪の目つきで見られるようになってしまった。
その原因は、サッキュバスとの情事だと言われている。
かつて、幼いウリエルもまた、崇拝にも近い眼差しで、ミカエルを見上げていたものだったのだが。
「あの方は、みずから進んで淫魔と……そして……だが、わたしは違う。
くう……淫魔め、あのときといい、何ゆえ……何ゆえ、わたしなのだ!?」
彼は険しい顔で
ともかく、今は、女神達を何とかしなければならない。
彼は、浴室で水をかぶって眠気を払い、
一晩寝ても、例の匂いはやはり消えてはおらず、彼は、重い足取りで応接室へと向かった。
「お待たせ致しました……わっ」
ドアを開けた途端、いきなり取り囲まれて、ウリエルは思わずひるむ。
「ウリエルったら!」
「もう、遅いわ!」
「随分待ったのよ!」
そこには、十五人どころか、二十人以上の女神達がいた。
「も、申し訳……」
彼はたじたじとなり、慌てて
「言い訳はいいわ、これを受け取って!」
「わたくしのも!」
「わたくしが先よ!」
「ケンカはおやめ下さ……順番……あ、ありがとうございます」
次々に差し出される花束や贈り物を受け取り、お礼に
全員が済むと、期待顔の女神達に向けて、大天使はおずおずと口を開いた。
「その……女神様方、申し訳ございません、今日のところは、これにてご勘弁願えませんでしょうか……。
わたしはこれから、御前に、
「あら、そうなの」
「お勤めなら仕方ないけれど……」
「じゃあ、明日、また来るわ」
「えっ、それは……あ、実は、わたしは本日から、泊りがけの任務がございまして……」
ウリエルは青ざめつつも、どうにか言い
「えー……」
女神達は一斉に、不満そうな顔になる。
「相済みませぬが、天帝様のご命ですので……」
「まあ、ご命なら仕方ないわね」
「そうね、帰るわ」
「申し訳ございません」
深々と頭を下げると、彼は女神様方を玄関まで案内し、送り出した。
「大丈夫ですか、ウリエル様?」
ほっと一息ついたとき、物陰で心配そうに成り行きを見ていたユーリが、声をかけて来た。
「あれも、暇を持て余した神々の何とやら、でしょうか」
「これ、滅多なことを」
ユーリは、不服そうに口を尖らせる。
「だって、女神様は気紛れです。
無実の罪に落とされ、地下研究所送りになる者や、もっと酷い……愛の女神様の
「いや、それとは違うだろう」
「でも、女神様方の、度を越したおふざけには、付き合い切れませんよ」
「そうですよ、
気がつくと、この屋敷で彼に仕える他の部下達も、集まって来ていた。
「お前達……大昔の出来事だぞ、よく知っているな」
「代々、口伝えされて来ているんですよ、あの話は」
「ウリエル様なら、いきなり地下送りはないでしょうが、闇の塔行きになったりしたら……」
心配そうな天使達に、彼は微笑みかけた。
「安心してくれ、そういう心配だけはないから。しばらく宮殿に泊まり込むことにしよう、後は頼む」
言い置いて、彼は屋敷を後にする。
だが、その日以降も受難は続き、ウリエルは心身ともに疲れ切っていった。