~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

8.天使と悪魔(5)

「ウリエル様から離れろ、この淫魔!」
その声と同時に冷水を浴びせかけられて、大天使は飛び起きた。
「うぷっ、冷た、何事……あ、あ!?」
目の前に、この世の者とも思われぬ美女の顔があって、一層ウリエルは混乱した。
「こいつめ、いい加減、離れろ! ウリエル様、大丈夫ですか!?」
その間にも、看守長は二人を引き離そうと躍起になっている。

「あ……お前、サマエルか!?
一体……うお、何だ、この有様は!?」
その顔の主が、女どころか、忌まわしい魔物であることに気づいたウリエルの声が上ずる。
彼らは全裸で抱き合っていたのだから。

「は、裸……!? 離れろ、この!」
大天使は、よく事情が飲み込めぬまま、ともかく振り払おうとする。
しかし、サマエルは離されまいとしがみつき、頬を天使の胸にすりつけて、甘い声を出した。
「あん、いいところなのに……あと少しだから……!」
「な、何を言っ……放せっ!」

力一杯押しのけられ、水浸しの床に転がった魔物の王子は上半身を起こし、(なまめ)かしく髪をかき上げた。
全身に濡れた銀髪が絡みつくその様は、あたかも、夕日で金色に染まった池から男を誘惑しに上がって来た水妖のようだった。

「……もう、どうしたというのだい、ウリエル。
ああ、人に見られて、急に恥ずかしくなったのだな?
つい今し方まで、あんな声まで出して、とても気持ちよさそうだった癖に……ふふ、初心(うぶ)だねぇ」

「な、何を馬鹿なことを!」
真っ赤になったウリエルと眼が合った看守長は、打ち合わせ通り眼を逸らす。
檻の外の看守達も同様だった。
焦った大天使は、水とも汗ともつかないものを全身から滴らせ、詰問した。
「か、看守長、こやつの話はでたらめだな、そうに決まっている……そうだろう!?」

アスベエルは眼を伏せた。
「え、あ……そう、ですね、多分……」
「多分とは何だ、はっきり言え!
大体、なぜ、わたしは裸で、檻の中などにいるのだ!?」
大天使は立ち上がり、自分の胸をたたく。

「それは、ええと……サリエルが、突然、大蛇になったことは覚えておいでですか?」
看守長は尋ね、ウリエルは、はっと眼を見開いた。
「そ、そうだ、ヤツに襲われて意識を……あの後、どうなったのだ?」

「はい、怪物に変身した囚人に襲われて失神、なんて……ウリエル様の名に傷がつきそうで、うかつに救援も呼べず……でも、たった二人で、ウリエル様を守りながら戦うのはさすがに……。
それで、檻の中なら安全だろう、ってことで、とりあえず、お入れしといたんです、けど……」
幾分どもりつつ、アスベエルは説明する。

「むむ……」
「その後すぐ、看守達が騒ぎを聞きつけて来て、一緒に戦ってたんです。
なので、誰も檻の中までは……気づいたらこの有様で……済みません」
看守長は額の汗をぬぐい、頭を下げた。

「むう……ところで、蛇はどうした?」
「サリエルなら、そこに」
アスベエルは、檻の外に安置されている、白布に覆われた遺体を示した。
「……死んだのか。誰が倒した?」
大天使の問いに答えたのは、サマエルだった。

「誰も倒していない。無理な変化が、彼の命を奪ったのだ。
いずれにせよ、お前が息子を殺したことに変わりはない……だから、仇を取ったのさ、淫魔流のやり方でな。
仇討ちとお楽しみとがいっぺんに出来る、最高の時間だったよ。
だが、お前も気に入ったのだろう? いつまでも放さないから、見つかってしまった。
私は、一度だけで終わらせてやるつもりだったのに、ね」
魔物の王子は色っぽく腰をくねらせ、くすくす笑う。
「な、な、な……お前!」
ウリエルは、魔物に指をつきつけ、その顔は、紅くなったり青くなったりした。

「そうだ、こんな滅多(めった)にない体験、独り占めはもったいないな。
ミカエルにも聞かせてやるとしよう。
名にし()う七大天使の一人と、どんな風に楽しんだかを、()()(さい)をうがって。
ヤツは大喜びで、お前の武勇伝を、汎神殿中に吹聴(ふいちょう)して回るだろうな……くくく」
サマエルは、凄艶(せいえん)な笑みを浮かべた。

「や、やめろ、左様なたわごと、誰も信じぬわ!
第一、仇討ちなどされる覚えはない、そもそも、あれは本物のサリエルではないのだからな!
あ、し、しまった……!」
ウリエルは口を押さえたが、後の祭りだった。

「……ほう。
つまり、お前達は、またも私を騙したということか……おのれ、一度ならず二度までも……!」
とっくに真実を知っていたことなどおくびにも出さずに、サマエルは、怒り心頭(しんとう)に発したと言いたげな表情で、ウリエルを睨みつけた。
銀の髪が、無数の蛇となって鎌首をもたげ、大天使を威嚇(いかく)する。

「黙れ、我が子の真偽も分からぬ、愚か者の癖に!
だが、わたしを殺さなかったことは褒めてやる、さもなくば、今頃、本当の息子の命もなかったろうからな!」
ウリエルは負けじと青い眼を怒らせ、声を(あらら)げた。

「過ちを棚に上げ、居直るとは見上げた根性だな。
あたかも本物が生きているような言い草だが、とっくに本当のサリエルは死んでいて、これから来るすべてが偽者、という可能性もあるぞ。
……そもそも、本当に息子などいるのか、それも疑わしいが」

「何を言う、サリエルは実在しているぞ、間違いなく。マトゥタ様とお前との子だ」
「証拠は? 私に面差しが似た混血の少年を、息子に仕立て上げた、とも考えられるぞ」
「では、サリエルの遺伝子配列と、お前のとを比べて見せたら信じるか?」
大天使は聞き返した。
「そんなもの、女神と私の遺伝子を使えば、簡単に創れる。
さらには、次に会うサリエルが、本物だという証拠にもなるまい」
「む、……」

「待て、ウリエル様の話は真実だ、それに、俺が最初に会わせたのは本物だぞ」
押し問答に口を挟んだのは、アスベエルだった。
サマエルはうなずく。
「そうだったな。亜空間で死んだはずのサリエルが生きていて、会いたがっていると……敵のお前が、なぜ、息子と会わせたがるのか不思議だったが」

「実は……俺は、マトゥタ様の養子で、サリエルとは兄弟同然に育ったんだ。
だから、会わせて欲しいとせがまれて、断り切れなくてな。
その後で、ホムンクルスとすり替わったんだ」
「……ふうん、義兄弟、ね」
これもとっくに知っていたことだが、サマエルは、さもうさんくさそうにアスベエルを見た。

「お前の息子は、今もちゃんと生きている。
だから、ウリエル様のことを、べらべら言いふらすのはやめろ。
そんなことをすれば、本物のサリエルも無事では済まない、たとえ義理でも、俺は弟を……」
なおも看守長が続けようとしたとき、ウリエルが話をさえぎった。
「おい、アスベエル、こやつに、そこまで内情をさらす必要があるのか」

サマエルは肩をすくめた。
「うっかり口を滑らす粗忽者(そこつもの)が、何を言うのやら」
「そうは(おっしゃ)いますけど、こやつを納得させないと、ウリエル様の評判が地に落ちてしまいますよ、それでもいいんですか?」
「う……」
二人に畳みかけられて、大天使はぐうの音も出ない。

心の中でにやりとし、サマエルは芝居を続けた。
「……ふうむ。どうやら、お前の言葉は信用してよさそうだな、看守長。
では……そうだな、二つばかり望みを叶えてくれるのなら、ウリエルとのことは黙っていてやってもいいが」
「何を偉そうに……」
言いかけた大天使は、看守長にじろりと見られて口を閉ざした。

「で、その望みとは?」
「なあに、さほど難しいことではないさ。
まず、今度こそ本物の息子に会わせること、後は、ミカエルが奪った私のペンダントを返すこと、この二つだ。
それから、ホムンクルスが大蛇になったことは、他言無用が互いのためだろうな、面倒を避けるためにも」

「息子は分かるが、装身具? 牢獄では必要あるまいに」
ウリエルが、あきれたように言う。
「あれは命の次に大切な物だ、あの世への旅立ちに持って行きたいのさ。
心配なら調べるがいい、ただの美しい装飾品だ」

「どうします? ウリエル様。こんなもので口封じ出来るんなら、安いものだと思いますが」
アスベエルは、上司の顔を立てるように訊く。
大天使は顔をしかめたものの、特に拒絶する理由も見当たらなかった。
「分かった、それで手を打とう。
うう、寒い、わたしの服は……」
鼻水をすすりながらウリエルは周囲を見回し、放り出されていた衣装を手に取った。

「誰か、乾いたお召し物を」
アスベエルが外の看守に呼びかける。
「いや、いい」
ウリエルは、檻を出ると魔法を使い、乾いたローブをまとった。

「それと、ウリエル様、ホムンクルスの埋葬許可を頂けますか?
複製でも、弟のようなものです、遺体を切り刻まれるのは不憫(ふびん)ですから」
「好きにするがいい」
一言残し、大天使は大股で歩き出す。
こんなところ、もう一秒たりともいたくない、といった風情だった。

見送りについて行った看守が、小走りで戻って来た。
「光の塔を出ました、もう大丈夫です」
「ふー……」
途端に、アスベエルは深く息をつき、床にうずくまった。
「どうしたのだい?」
サマエルは、彼の顔を覗き込む。

「いえ、ほっとしたら、腰が抜けて……駄目ですね、俺、小心者で」
看守長は頭をかく。
魔界の王子は、にっこりした。
「いやいや、中々どうして、堂々としたものだったよ。
ヤツが口を滑らせてくれたお陰で、芝居がやりやすくなったね」

「本当、お見事でしたよ、看守長。
サマエル様、お風邪を召します、これを」
ベリアスが、乾いた布と囚人服を持って入って来た。
「ああ、ありがとう」
サマエルは、手早く体をふいて貫頭衣を身につけ、帯を巻いた。

「あ、そうだ。サマエル様、ありがとうございます、あの程度で、彼を許してくれて」
まだ座り込んだまま、アスベエルが頭を下げる。
サマエルは微笑んだ。
「必死な眼差しで懇願(こんがん)されてはね。
……それに、私がヤツを殺したりしたら、お前達も罪に問われるだろうし」
「そこまで考えて頂いてたんですか、お優しい……。
まったく、どちらが天使でどちらが悪魔か、分かりませんよ」
ベリアスが、感に()えないように言った。

「そうかな」
サマエルは、軽く肩をすくめた。
「さて、アスベエル、動けるかい。アルファを、いつまでもあのままにしてはおけない……」
「あ、はい、お任せ下さい……っと」
どうにか、アスベエルは立ち上がる。
「これから、女神様のお墓の隣に埋葬して来ますよ。
皆も、当番を残して詰め所に戻っていいぞ」
「分かりました、看守長」

檻の中で一人になった魔界の王子は、眼を暗く光らせ、つぶやく。
(あの程度で許した、か。……彼らは何も分かっていない。
私の真の復讐は、これから始まるのだ……。
ウリエルの心の中で、私に何をされたのかと膨らむ妄想、看守達が秘密を漏らしてしまうのではないか、という猜疑(さいぎ)、さらには、自分もミカエルのように抑えの利かない色狂いになるのでは……という恐怖が、ヤツを内側から(むしば)み、自滅へと導くのだから……。
どちらが天使で、どちらが悪魔か分からない……?
この私が、悪魔に決まっているだろうに……!)
サマエルは拳を握り締めた。

名(な)にし負(お)う

「名に負う」に同じ。[1]名高い。評判である。

微(び)に入(い)り細(さい)を穿(うが)つ

非常に細かいところまでゆきとどく。微に入り細に入り。

ふいちょう【吹聴】

言いふらすこと。言い広めること。

せいえん【凄艶/凄婉】

ぞっとするほどなまめかしいさま。

そこつもの【粗忽者】

粗忽な人。そそっかしい人。おっちょこちょい。

感(かん)に堪(た)えない

非常に感動して、それを表に出さずにはいられない。