~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

8.天使と悪魔(4)

大天使の抵抗が徐々に弱り、力が抜けるのを待って、サマエルは体を起こすと、声を張り上げた。
「ご覧、ウリエルは死んだ! もう復讐する相手はいない、お前がその姿でいる必要もない!
元に戻りなさい、アルファ!」
あえて彼は、“サリエルではなく“アルファ”と呼んだ。
別個の人格として扱った方が、ホムンクルスの心に届きやすいだろうと考えたのだ。

彼の狙いは的中した。
漆黒の巨体は、すぐに動きを止め、輝きながら縮み始めて、誰もが胸をなで下ろした。
やがて、ホムンクルスは本来の姿を取り戻し、がくりとひざをついた。
「アルファ!」
アスベエルは檻を飛び出し、倒れかかる少年を抱き止めた。
「あ、……」
「しゃべるな、今、回復してやる──フィックス!」

だが、魔法は効力を現さず、複製の少年はぐったりと眼を閉じたまま、首を振った。
「いらない、よ……僕は、もう……」
「そんなこと言うな!」
ホムンクルスと知りつつも、看守長は、義弟そっくりの体を揺さぶる。

「その子には分かっているのだよ、ここに連れて来てくれないか」
サマエルは、沈んだ口調で言った。
「はい……」
涙をこらえて少年を抱き上げ、アスベエルは檻に戻った。

少年を受け取り、サマエルは優しく声をかける。
「よくやったね、アルファ」
「ち、父上……僕、どうなっ、たんですか……檻に映ってた姿……あれは……。
どうして……やっぱり、僕……、本物じゃない、から……?」
アルファの眼には、涙がにじんでいた。

「それは違う、あれは魔族の第二形態、つまり、お前が私の子だという証だよ。
魔族は皆、二つの姿を持っているのだ、恐れたり、恥じたりしないでおくれ。
実はね、私の第二形態も蛇なのだよ、色違いの白蛇だ。ここでは見せてあげられないけれど、ね」
魔界の王子は、無念そうに手枷を見せる。

父親似の紅い眼が、安堵の光を帯びた。
「ち、父上、も……? じゃあ、本物の、サリエル、も……?」
「もちろんだ。もう一人いると言ったね、その子も当然、同じ姿になるはずだよ」
「そう……。
でも、僕らも、父上と同じ……白蛇が、よかった、な……」

「翼だけ白かったのは、元々のサリエルが、欲しいと強く望んでいたせいかも知れないね。
皆の翼は白いのに、自分は……と思って、やはり肩身が狭かったのかな」
「そっか……体全部白くなりたいって思えばよかった……ちょっと、残念……」
アルファは顔をこすり、無理に笑顔になる。

「本来なら、大人になる頃に、第二形態を持つのだが。
命の瀬戸際に追い詰められると、変化の時期が早まったりするのだよ」
魔界の王子は、横たわるウリエルに視線を送り、少年も釣られて大天使を見る。

「僕……自分でも、ウリエルを、あんなに憎んでたなんて……気づかなかった……
彼、アスベエルの、代わりになって、くれたのに……。
あれ? 違うね……体も記憶も、僕のは複製……本物じゃあない……。
本当は、僕が彼を憎む理由もない、のに、死んじゃった……僕のせいで……うっく、……」
顔を(おお)って涙にくれるホムンクルスに、サマエルは言った。
(なげ)く必要はないよ。そもそも、あいつは死んではいないのだから」

「え?」
驚いたのは、アルファだけではなかった。
「ほ、本当ですか!」
「死んでないって!?」
競うように看守達が覗き込むと、大天使は、苦しげだったがちゃんと息をしていた。
「ホントだ……殺してなかったんですね?」

アスベエルの問いかけに、サマエルは肩をすくめて見せた。
「ああ。憎悪の対象がいなくなれば、正気に返るかも知れないと、殺した振りをしただけさ。
アルファ、お前は拷問の仕返しをしただけだ、それ以上でも、それ以下でもないよ、分かるね」

「はい……よかった……。
あ、う、くっ……」
急にホムンクルスは胸を押さえ、顔が苦痛に歪んだ。
「苦しいのか?」
サマエルは優しく、彼の頭をなでた。
「す、少し……でも、それより、うれしさが、上回って……」
アルファは、どうにか、再び笑みを浮かべた。

「僕、天国で、母上に会えたら、言います……父上は、想像してた、通りの人、だったって……とても素敵で、優しくて……。
ああ、でも、その母上は……本物のサリエルの、ですよね……僕は、偽者……きっと歓迎されない……もう一人、複製の母上がいる……けど、そっちも……先に死んだ子の、かな……」
閉じられたホムンクルスの目蓋から、(せき)を切ったように、幾筋もの涙がこぼれ落ちる。

「そんなことはない、マトゥタは……」
言いかけたサマエルの先を越し、アスベエルが叫んだ。
「馬鹿、女神様は、そんな薄情なお方じゃない!
他人の赤ん坊を引き取って、我が子同然に育てるお方だぞ、お前が複製でも、他に何人いたって、全部まとめて面倒見て下さるさ、絶対!
俺が保障する!」
アスベエルは、自分の胸を叩いた。

「そ、そう、かな……?」
すがるような眼で、少年は看守長を見つめる。
「当たり前だ。ですよね、サマエル様」
「もちろんさ。昔からそうだった。
アルファ、お前だって、女神が分け隔てなどする方ではないと、知っているだろう?」
「そう、ですね……ああ、僕、少し、死ぬのが、怖くなくなった、かも……」
ホムンクルスの表情が、わずかに(ゆる)む。

「……アルファ、最後に一つ、訊いていいかな」
「何でしょう……父上」
「こんなときに、聞くべきことではないかも知れないが……次に生まれて来るとしたら、お前は、魔族と神族、どちらに生まれたい……?」
「え、次に、生まれて、来るとしたら……?」

それは、サマエルが、自分自身にも何度か問いかけたことのある質問だった。
様々な想像を巡らしてみたが、どれも満足のいくものではなかった。
最初の妻、ジルとの子供達は、人界で幸福に暮らした。
そんな彼らに、来世は魔族と人族、どちらに生まれたいかと問いかけても、返って来る答えはおそらく、人族として生まれたいと言うものだったろう。
だが、自分よりもさらに複雑な立場の、この息子は、どう考えるのだろうかと思うと、どうしても尋ねてみたくなったのだった。

「……そ、それなら……ぼ、僕は……もちろん、母上と……」
「そうだろうね、悪魔とののしられるより、神と(あが)められる方がいいに決まっているものな」
自分から尋ねておきながら、最後まで聞くのが辛くて、サマエルは、その言葉をさえぎってしまった。

途端に、ホムンクルスは叫んだ。
「違い、ますよっ! ぼ、僕は、母上と父上の、本当の子供に、生まれたいんだっ……!」
「えっ……!?」
想像もしていなかった答えに、サマエルは息を呑んだ。
「ち、父上……だ、駄目、ですか……?」
最後の力を振り絞り、複製の少年は、彼に触れようと手を伸ばして来る。

気を取り直し、魔界の王子は少年の手を握った。
「いいに決まっているとも。
変なことを聞いて済まなかったね、そんな風に言ってもらえるとは、正直、思っていなくて……ありがとう、とてもうれしいよ、アルファ」

「父上……」
またも涙ぐんだアルファは、次の瞬間、はっとして天井を見上げた。
「ああ……! 母上が……迎えに来て下さった……本当だ、二人共いる……!
父上、アスベエル、お別れです……僕……母上達と、()きます……」
「アルファ!」
思わずアスベエルも、反対側の手を握り締める。

「さらばだ、アルファ。愛しているよ、我が息子。このキスを、女神達に届けておくれ」
サマエルは、ホムンクルスに口づけた。
「僕も、です、ちちう……」
手から力が抜け、サリエルの複製は、永久の眠りに就いた。

サマエルは、少年の涙をぬぐって床に横たえ、胸の上で手を組み合わせてやり、深くうなだれて祈りを捧げる。
「う、く、アルファ、うう……!」
アスベエルは、必死に嗚咽(おえつ)を噛み殺していた。

そばにひざまずいていたベリアスは、涙ながらに言った。
「複製と知りつつ、そんなに、悲しんでもらえるなんて、彼が、うらやましい、です……。
わたし達天使も、似たようなもの……親もなく、死んでも悲しむ者もなく……仲間達は、自分の番でなくてよかったと、思うばかりで……そして、長く生きるうちに、今度は、自分の死が早く来るよう、願うようになるんですから……」

それを聞いたアスベエルは、涙に濡れた顔を上げ、力天使を見た。
「何を言ってんだ、ベリアス。俺は、お前が死んだら悲しむぞ、心からな。
他の力天使とも組んだが、やっぱり、お前が一番いい部下だよ」

「私も悲しむよ。
私の眼は機能上、涙を流すことが出来ないけれども、悲しみはちゃんと感じられる……」
「……もったいないお言葉です。
人の上に立つ者、とは、こういう方々を言うのでしょうね……」

しみじみと言われて、魔界の王子と看守長は顔を見合わせる。
「……私は、名のみの王子だし、それに淫魔だよ?」
「俺だって、名前だけの大天使だぞ。知ってるだろう、俺が禁忌の子供だってことは」
ベリアスは、真顔で否定の身振りをした。
「身分は関係ありませんよ。人の上に立つには、“品格”が大事なんです」

「そういうものかな……それはともかく、今はこの、ウリエルの始末だ。
いくら複製だとて、命をもてあそんだ罪は重い、どうしてくれようか」
突如冷ややかになったサマエルの声に、天使達はぎくりとする。
アスベエルは、とっさに、大天使をかばった。
「サマエル様、やめて下さい!
アルファが死んだのは、たしかにこいつのせいですけど、あいつはそんなこと、望んでないはずです……!」

「どうしたんですか、一体?」
「ものすごい叫びが……」
「何ごとですか?」
「怪物のような声がしてましたが……」
「地響きもしましたよね?」
そのとき、他の看守達が、口々に言い立てながらやって来た。

看守達は、詰め所で休憩している間、牢獄で多少の物音や声などがしても、大して気に止めない。
そんなことは珍しくもなく、気にしていたら身が持たないからだ。
しかし、先ほどの騒ぎは明らかに尋常(じんじょう)ではなく、心配になった彼らは、様子を見に来たのだ。
それでも、光の檻がある“光の塔”は強固に出来ており、脱獄は不可能とされて看守以外に警護の者もいないため、今回の騒動が外に知られる恐れはなかった。

「あ、……」
部下にどう説明していいか迷ったアスベエルは、魔界の王子に視線を送る。
「ちょうどいい、お前達、入っておいで。そして、私に触れなさい」
サマエルは、天使達を手招いた。
「何が起きたのか、そして、私がこれから何をする気か、心で伝えれば話すより早い。
そろそろウリエルも目覚める頃合いだ、段取りは手早く済まそう。
心配ないよ、アスベエル。私も殺しは好まない。
ただ……ウリエルは、死ぬよりもっと辛い目に遭うことになるかも知れないけれどね」
サマエルは、にっと笑った。

「し、死ぬよりも辛い目、ですか……?」
幾分ぎくりとして、アスベエルは彼を見る。
「知りたいなら、早く皆を中に入れることだな、アスベエル」
「は、はい」
急いで看守長は檻の鍵を開け、揃った九人の天使達は、魔界の王子の腕に触れた。