~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

8.天使と悪魔(3)

「うっ!」
体を痙攣(けいれん)させていたサリエルは、急に声を上げると眼を閉じ、動かなくなってしまった。
「サリエル!? しっかりしろ──フィックス!」
アスベエルが慌てて呪文を唱えるが、少年はぐったりしたままだった。
「……く、駄目か、──リメディウム!」
最上級の治癒呪文を詠唱(えいしょう)しても反応はなく、サリエルの顔色は、みるみる悪くなっていく。

「……手遅れか。少々やり過ぎたな」
ウリエルは、どうでもよさそうに肩をすくめる。
「何が少々です、無責任な!」
アスベエルが、大天使をなじったそのとき、サマエルの声が響いた。
「まだ眠りに()くのは早いぞ、サリエル!
目覚めよ、そして、お前を苦しめる者に罰を与えるのだ!」

刹那、少年は眼をカッと開き、跳ね起きた。
「わあっ!?」
「死体が!?」
思わずアスベエルはひるみ、ベリアスは飛びのいた。
虚ろな眼を開き、サリエルは空中に浮かんでいる。

「さあ、お前の真の力を見せよ、サリエル!」
サマエルの叫びに呼応して、少年の体が光り出す。
「い、一体、どうなって……うあ!?」
ウリエルが見上げた瞬間、光の檻さえ色()せて感じられるほどの輝きが、周囲を覆い尽くし、天使達は顔を覆った。
サマエルは視力を調節し、息子の様子を注意深く見守った。

光がようやく消えて現れたサリエルは、原形を留めてはいなかった。
輝く眼は燃え盛る石炭のよう、背中の翼は黒から白へと色を変え、しかも、肉体は黒光りする鱗に覆われて、高い天井まで届くほど巨大化していた。
……サリエルは、のたうつ大蛇と化していたのだ。

「く、何だ、この怪物は!?」
とっさに、ウリエルは身構える。
「あわわ……!」
ベリアスは腰を抜かし、アスベエルは、自分の眼を信じられずにいた。
「これ……お前なのか、サリエル……!?」

彼らの動揺にはお構いなく、漆黒の大蛇は、体色に不釣合いな純白の翼を羽ばたかせ、すさまじい雄たけびを上げた。
部屋全体が共鳴し、振動する。
それに耐えられたのは魔界の王子だけで、天使達は全員、耳を押さえた。

「おお、変化出来たか……! 素晴らしい、さすがは私の息子……!」
感慨深げに、サマエルはつぶやき、続けた。
「さあ、お前の敵は、あの白い天使だ!
黒い天使どもには構うな、ゆけ、サリエル!」
「うっ……!」
指を突きつけられたウリエルは、ぎくりと身を引いた。

二人の看守は、黒いローブを着ている。看守長アスベエルに至っては、眼も髪も黒い。 
この場で“白い天使”と呼べるのは、純白のローブを身につけたウリエル、ただ一人だった。
サマエルの言葉を理解したのかどうか、鎌首をもたげた黒い大蛇は、他には眼もくれず、絶叫と共に、大天使目がけて襲いかかってゆく。

「や、やめよ、サリエル……くっ!」
ウリエルは、その攻撃をどうにか交わし、蛇は壁に激突した。
地響きが辺りを大きく揺るがし、ひび割れた天井がぱらぱらと落ちる。
「く、光である神、至上なる存在の光、我に力を!
──ルーメン・スミ・エッセ!」
ウリエルは聖なる呪文を唱えた。

光が直撃し四散するも、大蛇には何の効果も及ぼさなかった。
「効かぬ!? く……ならば!」
腰に帯びた黄金の長剣をすらりと抜き放ち、大天使は蛇に打ちかかる。
しかし、刃は鱗に当たり、硬い音を立てて跳ね返されてしまった。
「くそ……!」

「無駄だ、ウリエル!
サリエルは、三界すべての種族の血を引く。
ゆえに、どの属性魔法も効果なく、物理攻撃でも損傷は受けない……よほどの剛力(ごうりき)でもなければ、な。
つまり、お前では、我が息子に傷一つ、つけられはしないのだ!」
サマエルは、胸を張った。

「おのれ、親が化け物なら、子も怪物か!
この悪魔どもめ──ぐわっ!」
(ののし)っていて注意が()れた(すき)に、(うな)りを上げる蛇の尾が命中し、吹っ飛んだウリエルは壁に叩きつけられ、床に落ちてぐったりとなる。
「よし、いいぞ、後はとどめだ!」
魔族の王子は、拳を握り締める。

とどめ、という言葉を耳にして、それまで呆然としていたアスベエルは、我に返った。
「い、いけない、やめるんだ、サリエル!」
黒い蛇は、一瞬視線を彼に向けたものの、またもやウリエルに襲いかかろうと身構えた。

アスベエルは、倒れた大天使に駆け寄り、かばうように両手を広げた。
「やめろ、サリエル! もう、お前を傷つけさせないから!
俺が約束する、戻ってくれ!」
しかし、その声は届かないようだった。
大蛇は紅く眼を光らせ、くわっと口を開けて、看守長目がけ突進していく。

「サリエル! 俺が分からないのか!? やめろ──」
思わず眼をつぶるアスベエルを器用によけて、大蛇はウリエルに飛びかかる。
「ぐっ……!」
意識が朦朧(もうろう)としていた大天使は、さけることも出来ずに巨体の下敷きとなり、完全に意識を失った。

「お、俺のこと分かってるんだな、サリエル!
なら、殺すんじゃない! お前が苦しむだけだ! 元に戻れ!」
再びアスベエルが声をかけると、蛇は動きを止め、彼を見つめた。

『戻リタイ、デモ、戻リ方、分カラナイ……。
アア、マタ、頭ガ、オカシクナル……助ケテ、あすべえる……助ケテ……モウ、ヤメタイ、ノニ……!
憎イ……コイツガ、憎クテ、タマラナインダ……!』
大蛇は再び身をくねらせ、暴れ始めた。

「うわーっ!」
蛇の尾で跳ね飛ばされた力天使が、アスベエルのそばに落ちて来る。
「だ、大丈夫か、ベリアス!?」
「……はい、何とか」
幸いベリアスは、すぐに立ち上がることができた。

ほっとしたアスベエルは、大天使の容態を診た。
出血が酷く、純白のローブは真紅に染まっているが、まだ息はある。
「サリエルが手加減したんだな、よかった……!
──リメディウム!」
心から安堵した彼が治癒呪文を唱えると、傷は見る間にふさがってゆく。

「ウリエル様、ケガは治しましたよ、大丈夫ですか?」
声をかけても、一向に目覚める気配はない。
そして、蛇は、またも大天使に目標を定め、襲って来ようとしていた。
巨体から立ち昇る凶悪な気、紅い眼もまた、ものすごい殺気を放っている。

「俺達が外へ逃げたら、大ごとになってしまう……くそ、どうすれば……」
途方に暮れていると、ベリアスが光の檻を示した。
「あの中なら安全では? それに、サマエル様なら、どうすればいいかご存知ではないかと」
「そうだな、行くぞ!
──ムーヴ!」

看守達は、ウリエルを抱えて檻の前まで魔法移動し、素早く鍵を開けて中に飛び込んだ。
大天使を下ろす間ももどかしく、速攻で閉める。
蛇は、彼らの後を追って来たが、檻の光に跳ね返されて叫びを上げた。

ウリエルの意識がまだ戻っていないのを確認し、アスベエルは魔界の王子に駆け寄った。
「サマエル様、どうして、彼はあんな姿に……いえ、そんなことより、元に戻す方法を教えて下さい、もう、あいつだって気が済んだでしょう!」

サマエルは悲しげな顔をした。
「……ああなってしまったら、元に戻すのは難しいよ」
「えっ、無理なんですか!? じゃあ、サリエルはずっとあんな……」
蛇を見上げるアスベエルの顔面が、蒼白になっていく。

「いや、そうではなくて……ああ、まずは言っておこうか、サリエルは怪物になったわけではない、あれは、彼の第二形態なのだよ」
「第二……ああ、知っています、魔族は二つの姿を持つ、とか」
「そう、本来なら、成人前後に現れるのだが、命の危機に陥ったときには、それより早く発現することもあるのだ」
「じゃあ、元に戻れるんでしょう? なぜ、難しいなんて……」

「いや、最後まで聞いてくれ。
生き延びるためとはいえ、急激な成長は危険を伴うのだ、授かった力を制御出来ず、暴走してしまうことも多い、今のように。
そうなると、力を使い果たし、結果は同じことになる……。
私だって、出来れば変化させたくはなかったよ、これは最後の手段と言ってもいいものだから。
だが、あのままでも、どうせ死んでいただろうし、それなら彼も、一矢(いっし)(むく)いたいのでは、と思ってね……」
サマエルは眼を伏せた。

「そんな、何とかならないんですか!?
蛇の姿が嫌とかっていう話じゃないんです、俺は、あいつ……サリエルを死なせたくないし、何より、殺しなんてさせたくないんだ! 
お願いです、サマエル様!」
アスベエルは必死に食い下がる。

魔界の王子は、にっこりした。
「……息子は、いい義兄弟を持ったな。分かった、ともかく、正気に戻せるかやってみよう。
──サリエル! こちらにおいで! 
私の眼を見て、心を静めるのだ、怒りを抑えて!
そうすれば戻れるはずだ、元の姿を、強く思い浮かべなさい!」
サマエルは、蛇に手を差し伸べる。

大蛇は彼を見、一瞬動きが止まったが、すぐにまた暴れ出した。
魔界の王子は、首を横に振る。
「やはり無理か……死ぬほど鞭打たれた恨みは深いだろうし……」
「いいえ、それだけじゃないと思います……マトゥタ様を処刑したのは、彼、なんですから」
アスベエルは、まだ気を失ったままの大天使を手で示した。

「何だって!? ……ああ、それでか……」
サマエルは、暴れ続ける、息子の複製を見上げた。
「だが、どうして、ウリエルが処刑役を?」
「はい、ミカエルはそのとき、所用で天界を留守にしてたんです。
帰って来てから話を聞いて、頭から湯気出す勢いで怒ってましたよ、天使長たる自分を、なぜ待てなかったのだ、って」

「それは、ウリエルにお株を奪われるのを恐れたか、もしくは、保護観察を名目に、あわよくば女神を愛人に出来たかも知れない機会を逃して悔しかったか、そのどちらかだろうな」
サマエルは、さらりと言ってのけた。

「うへぇ、女神は拒否したに決まってますよ、死んだほうがマシだって」
アスベエルは、思い切り顔をしかめた。
「実はあのとき、ミカエルが不在だからと、俺が処刑を命じられて……でも、ウリエルが、俺を気の毒がって肩代わりしてくれて……だから俺、彼のこと、悪くは思えません。
でも、サリエルは、憎んでも不思議じゃない、実の母親ですから……。
頭では仕方ないって分かってても、心では納得出来てないのかも……」

「なるほど、そんな経緯があったのか……あ、」
立ち上がろうとしてふらついたサマエルを、とっさにベリアスが支えた。
「大丈夫ですか?」
「どうしたのだろう、ミカエルの精気を奪ったばかりなのに、もう力が抜けて来た……」
「たしかに、この中にいると、力を吸われるような感じがありますね」

「ふむ、囚われた者の力を吸い取り、防御に回す、それがこの檻……囚人が強ければ強いほど、檻も強固になるというわけか」
そうつぶやき、ベリアスの手を借りて立ち上がったサマエルは、不意に、にやりとした。
「そうだ、いいことを思いついたぞ。
サリエル、ご覧! 私が、お前と女神の仇を()ってやろう!
この天使の精気を、すべて吸い取ってな!」

「えっ、お、お待ち下さい!」
止めようとする看守長の腕をかいくぐり、魔族の王子は、ウリエルに覆いかぶさって唇を奪った。
「むぐっ、むうう……」
意識のない大天使は、それでも苦しげな声を上げてもがく。