~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

8.天使と悪魔(2)

その朝、食事の後、サマエルがうとうとしていると、辺りをはばかるようにベリアスが小声で話しかけて来た。
「サマエル様、お休みのところ申し訳ありません。
寝込んでいるミカエルの代わりに、四大天使の一人、ウリエルが尋問役として来ています。
看守長が時間を稼いでいますので、手枷をはめて頂けますか」

すぐにサマエルは目覚め、答えた。
「ウリエルか。一度だけ会ったことがある……手枷なら着けているよ、こんなこともあろうかと、ね」
サマエルは、腕を上げて見せた。
「あ、さすがですね」

「天帝め、よほど焦っているのだな。私が誰にも大事なことを話さないから。
そうだ、寝具やこれも片付けておくといい。
ミカエルの命令に従っているように見せた方がいいだろう?」
彼は、アスベエルがくれた黒いマントを、手早く脱いだ。
「はい、では……」
ベリアスがそれらをしまい込み、急いで持ち場に戻ったところへ、看守長を伴ったウリエルがやって来た。

「お疲れ様でございます、ウリエル様」
ベリアスは、うやうやしく礼をした。
「ああ、ご苦労」
その声に、寝そべっていたサマエルは、(ひじ)をついて顔だけを上げた。
長い銀髪が、黒い翼を半ば覆い隠し、背中から流れ落ちて、床を這う。
そうしていると、あたかも絶世の美女が、物憂げに横たわっているかのように見えた。

少しの間、黙って彼を眺めていたウリエルは、つい賞賛の表情を浮かべてしまい、それを隠そうとしたものの、すぐに諦めて肩をすくめた。
「久方ぶりだな、サマエル。一瞥(いちべつ)以来か。相変わらず美しい。
だが、何ゆえ裸なのだ? 暑いというわけでもなさそうだが」

サマエルは微笑んだ。
「お褒めに預かり恐縮だよ、ウリエル。そちらも息災で何よりだ。
誰が私を裸にしたかなど、考えればすぐ分かるだろうに」
「まさか……ミカエル様が?」
ウリエルは看守長を振り返る。

「はい。こやつが意識を失っている間に、天使長様は服を剥ぎ取り、ずたずたに……。
ですが、裸のままでは……何と言うか、目のやり場に困ります。
そこで、とりあえず、腰布のような物を巻かせていたのですが、一昨日、また……」
アスベエルは、困ったような顔をした。

ウリエルはうなずいた。
「……ふむ。やはり、ミカエル様の不調はお前のせいか」
「仕方がないさ、飢餓状態であんなことをされて、我慢しろと言う方が無理だ。
これでも、私は、淫魔なのだぞ」
サマエルは、うつ伏せのまま膝を曲げ、すんなりした白い足を、ゆっくりと交互に動かす。

ミカエルならすぐにも飛びかかっていきそうな、扇情的(せんじょうてき)な仕草を眼にして、ウリエルは、大きなため息をついた。
「はあ……何をやっているのだろうな、あの方は。
こやつの翼を引き抜いたと聞いたときから、危惧(きぐ)していた……飢餓状態というと、食事も?」
「はい、何も与えるなと……」
アスベエルの返答に、ウリエルは眉をしかめた。
「やれやれ、困った方だ……自白させる前に、囚人を殺す気か?」

「まあ、翼は自力で生やしたけれどね」
サマエルは、これ見よがしに翼を羽ばたかせると、白い指を誘うように動かし、大天使を手招いた。
「それより、早く来るがいい。やかましいミカエルもいない、二人きりで楽しもう」
「馬鹿を言え。わたしはあの方とは違う、お前の誘惑になど、乗らぬわ」
憮然(ぶぜん)として、大天使は答える。

「失礼だな、ヤツが勝手に発情したのだ。
いくら空腹だといって、脂ぎった中年男をみずから求めるほど、落ちぶれてはいないぞ、私は。
あのときは、散々拷問され、誘惑どころではなかったしな……嘘だと思うなら、聞いてみるがいい」
サマエルは、天使達達に向かって手を振った。
「……そうなのか?」
ウリエルは看守長を見た。

「はい、そいつを拷問しているうち、天使長様は段々興奮していって、しまいに腰布をむしり取り……我らは一晩中それを見せつけられて辟易(へきえき)……いえ、失礼に当たらないよう、顔を背けておりました。
この魔物の母親は人族で、その女に天使長様は横恋慕(よこれんぼ)していたそうで……こいつの話を信じるのなら、ですけど」
顔をしかめながら、看守長は、サマエルを指差す。

「はあ、救いようがないな……」
うんざり顔のウリエルだったが、すぐに気を取り直し、再び魔物の王子をじろじろと眺め回した。
「ともかく、この生々しい裸体を何とかせねば、落ち着いて尋問も出来ぬ。
何か着せるものを」
「はい。ベリアス、囚人服を」
「分かりました」

部下が壁にかけられた服を取っている間に、アスベエルが鍵を開け、三人の天使は檻に入った。
広げられた囚人服を見たウリエルは、絶句した。
「何だ、これは……敷布(しきふ)か?」
服とは名ばかり、それは、真ん中に頭を通す穴を開けただけの大きな麻布だったのだ。

「いえ、貫頭衣(かんとうい)、です。
以前は上下がつながった、ちゃんとした服だったのですが、天使長様が、囚人にはもったいないと……」
看守長の説明に、大天使は顔をしかめた。
「……また、あの方か。まあいい、裸よりは増しだ。早く着せなさい」
「は」

袖もない一枚布なので、手枷を外す必要もなく、囚人に着せるのは至極(しごく)簡単だった。
ところが、魔族の王子がそれをまとい、幅広の帯を結んだ途端に、布に命が吹き込まれ、流行の最先端をゆく服でもあるかのように見えて、その場にいた者達を驚かせた。
「……ただの布切れを身につけて、ここまで様になるヤツもおるまい……」
ウリエルは、この日、何度目かのため息をついた。

「まるで聖なる修験者か、神殿に使える巫女のようですね……痛っ」
うっとりとつぶやいたベリアスの足を、アスベエルは思い切り踏みつけ、念話で叱りつけた。
滅多(めった)なことを言うんじゃない、俺まで首が飛びかねないぞ!”
“あ、す、済みません”

「どうした?」
「……い、いえ、何でもありません、ウリエル様」
アスベエルは言い、二人の天使は無理に笑顔を作る。
ウリエルは苦笑した。
「こやつに(たら)し込まれないようにな、お前達。身を滅ぼす元だ」

「心得ておりますよ、何しろ、よいお手本がありますからね」
看守長は、皮肉っぽく答えた。
「ミカエルは、手本と言うより反面教師だろう? ああなってはいけない、という」
ずけずけと、サマエルは言ってのけた。

「いい加減にせよ、どこまでも図々しい!」
カッとなったウリエルは、魔物の頬を張り飛ばした。
頬を押さえた魔界の王子の眼に、闇の炎が燃え上がり始める。
「お前も、結局は力ずくか。こんな程度の平手打ちなど、効かないぞ。
何しろ、幼い頃から(しいた)げられて来たからな……同胞に。
今さら、敵に何をされようと、どうということもない」

「その話は聞いている。仲間を虐待するような連中に、義理立てしたところで詮方(せんかた)あるまい。
自白するなら、命は保障する、食事も服もくれてやろう。
……何なら、息子と一緒に暮らせるようにもしてやるぞ」
先ほどとは一転、大天使は優しげな声で言った。

だが、サマエルは否定の身振りをした。
「たとえ、その約束が守られたとしても、死ぬまで牢獄暮らしなどごめんだ。
まあ、昔、マトゥタと恋仲になったときに、私を受け入れる度量がお前達にあったなら、考えたかも知れないが。
そして、私が寝返っていたら、今頃は、神族の天下になっていたろうな」

ウリエルは険しい表情になった。
「魔物を我らと同列に扱い、女神の伴侶となすだと……!?
あり得ぬ。誰より、天帝様がお許しにはならぬわ」
「ならば、味方に引き入れる振りで魔界の秘密を聞き出し、その後で、暗殺でもすればよかったではないか」
「く、卑怯な! 左様な、騙まし討ちのごとき真似が出来るか!」

「そうやって、我が祖先を虐殺したくせに、何を今さら綺麗ごとを。
過去の栄光にすがり、頭を働かせることもしなくなったのでは、先は見えているぞ。
それ以前に、私を汎神殿に連れて来た時点で、お前達の命運は尽きているが。
この私、“カオスの貴公子”サマエルが、必ずや破滅を招来してくれよう……!」

「破滅だと? 囚われの身で何が出来るというのだ」
「私は、害毒を撒き散らす病原菌……たとえこの身は果てようとも、私の毒は残り、汎神殿に住むすべての者を犯し、(むしば)んでいくことだろう……!」
サマエルは、紅い眼を暗く光らせ、神託を告げるように(おごそ)かに言った。

「……うむむ。やはり、言葉での説得は無理か。ならば」
うなずいたウリエルは、一人、檻の外に出て行った。
「──アドフィビオ!」
その呪文で召喚されたのは、黒い翼を持つ金髪の天使だった。
「ここは……どうして?」
サリエルは面食らったように、きょろきょろと周囲を見回す。

「……サリエル!?」
慌ててアスベエルは檻を飛び出し、ベリアスも後ろに続いた。
「鞭を持て、看守長。こやつが吐かぬのなら、息子を痛めつけてやる。
どうだ、サマエル、自白するのなら今のうちだぞ」
ウリエルは、魔界の王子に指を突きつけた。

「ええっ!?」
自分の運命を知ったサリエルは、青ざめた。
「ウ、ウリエル様……」
おろおろするアスベエルに、大天使は命じた。
「こやつを裸にして縛れ、そして鞭だ、早くしろ、看守長!」

“済まない、アルファ”
看守長は、念話でそう声をかけると、渋々少年の服を脱がせ、手を後ろに回して手錠をかけた。
そして、檻の正面の壁に並んでかけられている拷問道具の中から、一番痛くないと思われる鞭をウリエルに渡した。

「サリエルよ。こやつが口を割らぬゆえ、こうなったのだ。恨むなら、父親を恨むのだな」
ウリエルは、鞭で、檻の中のサマエルを示す。
一瞬、サリエルは彼に眼を向け、すぐにうなだれた。

鞭打ちが始まった。
痛みに耐える少年の口から、押し殺した悲鳴が漏れる。
ホムンクルスと知っているサマエルも、怒りに体が震えるのを止められない。

「早く吐け、サマエル! 息子が可愛くないのか、さすがは魔物、親子の情愛などないのだな!」
ウリエルは、憎々しげに言い放つ。
「駄目です、僕なんかの……あうっ!」
言いかける途中で鞭が顔に飛び、少年は悲痛な声を上げた。

「やめろ、ウリエル!
親の前で子を傷つける非道な(やから)に、親子の情愛を語る資格はない!
まして、息子は、半分はお前の同胞、女神の血を引くというのに!」
思わず、サマエルは叫ぶ。

「く……!」
正論で返されて、ウリエルは歯噛みした。
反駁(はんばく)するには、このサリエルが偽者だと暴露しなければならない。
「黙れ、黙れ、黙れ!」
大天使は、さらに激しく鞭を振るった。

「も、もうおやめ下さい!」
「死んでしまいます!」
看守長と部下が止めに入ったときには、ホムンクルスは虫の息だった。
「今、治してやるから……」
アスベエルは、急いで治癒魔法を唱えようとした。

「その必要はないぞ、看守」
冷ややかな声に、天使達がはっと振り向くと、魔族の王子が、眼を怒りに燃え上がらせていた。

「必要ないだと? 悪魔め、息子が死んでもいいのか。どちらが非道だ」
言い返すウリエルを無視して、彼は息子の複製に呼びかけた。
「サリエル、お前も、魔界王家の血を引く者なら、拷問ごときに屈するな!
この魔眼を見よ、そして、怒りと共に目覚めるのだ、息子よ!」

その声に、眼を開けて彼を見た刹那、ホムンクルスの体が、びくりとした。
「うっ、く、苦し……!」
「ど、どうしたサリエル、大丈夫か!?」
看守長が少年の体を揺さぶるが、気づいている様子はなかった。

せんじょうてき【扇情的】

感情や情欲をあおりたてるさま。

かんとうい【貫頭衣】

布の中央に穴をあけ、そこに頭を通して着る、原始的な形の衣服。

たらしこむ【誑し込む】

だまして自分の思うようにする。