8.天使と悪魔(1)
二日前のこと、サマエルの元から、ほうほうの
「……天使長様、ハニエルです! 天使長様、いらっしゃいますか!?」
だが、あまり時が経っていないと思われる頃、扉を
(何事だ、騒々しい……! たった今、寝たばかりだというに……!)
寝返りを打とうととして、彼は愕然とした。
体がまったく動かず、声も出ない。
どうにか、眼だけは開けられたが、それも、やっとのことで、だった。
「昨日も今朝も、天使長様が御前に
天使長様、もしや、ご気分でも優れないのでしょうか?」
その間にも、扉の外では声が続いた。
(丸一日眠っていただと!? 天帝様がお怒り……くそ、早く起きなくては)
焦ったミカエルがいくら動こうとしても、力の
(な、何だ、これは……単なる疲労とは違う……!?)
“ハニ、エル、聞こえる、か……?”
彼は、仕方なく念話を使ったが、自分でも、その弱々しさにあきれたほどだった。
「はい、聞こえます、天使長様。入室の許可を頂けますか?」
“そ、そんなこと、より、体が、動かぬ、のだ……医者を、頼む……”
「それは大変! やはりお加減が悪かったのですね!」
(く……この不調は、サマエルのせいだな……!
くそ、忌々しい淫魔めが……!)
自分の行いは棚に上げ、ミカエルは歯噛みしたものの、またも眠りに落ちてしまった。
彼が意識を取り戻すと、枕元の椅子に座っていた天使の顔が輝いた。
「お目覚めですか、よかった……!」
「ハニエル……我は……ああ、動くぞ……」
声も出て、動けるようになっており、ミカエルは心底ほっとした。
「魔法医の診立てでは、取り立ててお悪いところはなく、ただ酷くお疲れのご様子なので、ゆっくりお体を休めれば数日で
「ふむ……あれから、どのくらい経った? 天帝様は……」
「丸一晩お眠りでしたよ。
天帝様のお怒りは解け、体調不良ならば致し方ない、十分に休養を取るようにと仰っておられました」
「左様か……いや、こうしてはおられぬ……」
起き上がろうとする彼を、ハニエルは押し留めた。
「お待ち下さい、無理をなさっては」
「大丈夫だ」
「ですが……あ」
もみ合う弾みに華奢な手をつかんだ途端、体に電撃めいたものが走り、ミカエルは、反射的に部下を引き寄せていた。
「……ハニエル」
「て、天使長様……?」
戸惑い、頬を赤らめるハニエルの体から、えも言われぬ甘い匂いが立ち昇り、鼻孔目がけて飛び込んで来るような気がした。
その、そそられる匂いを吸い込むたび、体がどんどん熱くなっていく。
今までなぜ気づかなかったのか、すぐそばにこんな上玉がいたのに。
美の天使の異名を取るハニエルは、女神にも匹敵するほどの美女だったのだ。
彼は生唾を飲み込んだ。
「ハニエル、お前は美しい。我のものになれ」
「な、何をなさいます、ご無体な……! おやめ下さい……い、嫌です、天使長様、あ……!」
必死に抵抗する天使を、ミカエルは組み敷き、ローブを引き裂いた。
「いやーっ!」
その悲鳴を聞く者は誰もいなかった。
ミカエルが正気に戻ったときには、すべてが終わっていた。
ハニエルは、彼の横に裸体を横たえ、顔を覆ってしゃくり上げている。
「案ずるな、お前が口を閉じてさえいれば、誰に知られることもなかろう」
「酷い……!」
部下の天使は彼の手から逃れ、部屋を飛び出していった。
ミカエルは、天使の長にはそぐわない、歪んだ顔つきで舌打ちした。
(ち……面倒なことになったな。
まあ、あの女が、口軽く言いふらすとは思えぬし、
万が一、出来たとしても、堕ろせばよいことだ……が、あの生真面目な女のこと、
そのときは……致し方あるまい、何か罪をでっちあげ、腹の子ごと地下室送りにすればよいのだ)
心を決めると、ミカエルは起き上がった。
あれほど弱っていた心身が、かなり戻っているように思える。
(……女を抱いたことで、か……? これではまるで淫魔……まさか……)
彼は、自分の手を見つめた。
そして、昔、同じようなことがあったのを思い出した。
二万年以上も前、人界に里帰りしていた魔界の王妃アイシスを、若気の至りから軟禁してしまい、数日後に冷静さを取り戻して解放した後のことだった。
おのれの行いを
いつしか、彼は、とある町の、いかがわしい
連れて行かれたのは、廃墟のような建物だった。
方々崩れている階段を上り、たどり着いた階には、豪華
香を
赤毛の女の、藍色をした
それでも構わないと思うほど、ミカエルは捨て鉢な気分になっていたのだ。
女と過ごしたのはたった一週間、だが、それまで実直そのものだった彼を狂わすのには、充分過ぎる時間だった。
かつて彼は、天界の女性達から熱い視線や言葉をかけられても、儀礼的に返答するだけで興味は持てなかった……アイシスが初めての恋、そして失恋相手でもあった。
彼を
「もはや、後戻りは出来ぬぞ、愚天使。
光より見放され、暗き奈落の底へと堕ちてゆくがよい!」
女は、神託を告げるように彼に指を突きつけ、隠していた漆黒の翼を現して、飛び去っていった。
その言葉の意味は、すぐに知れた。
彼はもう、並みの女では満足できない体になってしまっていたのだ。
だが、天使長という立場上、これ以上サッキュバスと関わりを持つのは問題であり、かといって、天界には娼館もなく、
彼は仕方なく、部下の天使達で欲求を紛らわせようとしたが、人形のような男達を幾人相手にしても、満たされるわけがなかった。
唯一の例外は、シェミハザだった。
無味乾燥な天使達の間にあって、この男の反応だけは、本物のように思えたのだ。
(こんなときこそ、あやつがおれば……!
我の……この飢えを少しでも癒すことができるのは、あやつの苦悶の表情と、声、そして……くそ、)
そのシェミハザも、もはや手の届かぬところにいる。
仮にもっと別な接し方をしていたなら、あの天使も謀反など起こさず、まだそばにいたのかも知れない……忠実な
彼は、首を横に振り、その考えを払いのけた。
(どうでもよいわ、裏切り者のことなど。
例の計画がなされた暁には、女など選り取り見取りだ。さすがは天帝様、お考えになることが違う)
天使長はにやりとしたが、体の
以前のとき同様、これは、女性相手でしか軽減することが出来ない衝動なのだった。
(致し方あるまい。計画遂行まで、女はハニエルで間に合わせるとするか。
ガブリエルもおらぬし、若い女に乗り換えるいい機会だ)
“おい、誰か、ハニエルを呼んで来い! 重大な話がある、
ミカエルは、念話で部下に命じた。
しばらくして、ようやく姿を現したハニエルは眼を泣き腫らし、ローブをしっかりと体に引き寄せて戸口近くに立ったまま、こちらへ寄って来ようとはしなかった。
「……ハニエル。先ほどは、まことに申し訳なかった」
彼は深々と頭を下げた。
「淫魔の毒気に
弁解させてもらえるなら、我はずっと、お前を思い続けていた。
目覚めたとき、お前がいるのを見て、夢の続きかと思い……抑制が効かなくなってしまったのだ。
それゆえ……我が妻になってはもらえぬか、ハニエル」
「え……!?」
ハニエルは眼を丸くした。
「で、ですが、天使同士の婚姻は、
「それは重々承知の上、されど、責任を取る意味でも、お前を妻にしたいのだ。
天帝様には、折を見て我から
「て、天使長様……そこまで、わたくしのことを……?」
「我が求婚を受けてくれるか? 愛しておるのだ、ハニエル」
ミカエルは手を差し伸べた。
ハニエルは、かすかに首を横に振った。
「……少しお時間を頂けますか、天使長様……。
急な申し出で、その……頭が混乱しておりますので……」
「相分かった。されど、二人きりのときは我が名を呼べ、ミカエルと」
「はい、ミカエル様……」
頭を下げるハニエルの頬が紅くなっているのを、ミカエルは見逃さなかった。
(くく、女とは愚かなものよ。甘い言葉をささやき、婚姻の話を持ちかけさえすれば、すぐに堕ちる。
この女も、もはや、我が手の内……)
天使長の唇が、いやらしい形に歪んだことに、部屋を出て行くハニエルが気づくことはなかった。
その日の夕刻、ミカエルは、大天使ウリエルの訪問を受けた。
「具合はいかがですか?
実は、天帝様から、天使長様がお元気になられるまで、お勤めを肩代わりせよと命じられまして……。
つきましては、あの淫魔めについて、ご教授願いたく」
うやうやしく、ウリエルは言った。
「サマエルの尋問を、ウリエル殿が。
……むう。情けないが、かような
「は」
頭を下げる部下を見るミカエルは、内心穏やかでなかった。
ウリエルは、年齢こそ彼の半分ほどだが、体はたくましく、それでいて性格は温厚であり、次期天使長候補の筆頭と言われていたのだ。
(ち、まだ、三万歳にも至らぬ青二才の癖に、いい気になりおって。
淫魔に誘惑されてしまえばよいのだ)
心の中で舌打ちしながら、それを表情には表さず、ミカエルは答えた。
「あの淫魔め、いくら拷問しようとも、口を割らぬ。
女のごとき姿に惑わされぬように。あれで、なかなかしぶとい魔物ゆえ、気をつけるのだな」
「心得ました。では、さっそく、尋問に取りかかると致しましょう」
ウリエルは丁寧に礼をし、去っていった。
しこう【伺候/祗候】
1 貴人のそばに奉仕すること。
ほんぷく【本復】
1 病気が全快すること。
つつもたせ【美人局】
夫婦または内縁の男女が共謀して、女が他の男と密通し、それを言いがかりとして、その男から金銭などをゆすり取ること。なれあい間男。
◆もと博徒(ばくと)の語「筒持たせ」からきたものという。
「美人局」の字は、中国の「武林旧事」游手にあるのを当てたもの。
そうじょう【奏上】
天子に申し上げること。上奏。