~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

8.天使と悪魔(1)

二日前のこと、サマエルの元から、ほうほうの(てい)で自室に引き上げて来たミカエルは、ベッドに倒れ込むようにして眠りに落ちた。

「……天使長様、ハニエルです! 天使長様、いらっしゃいますか!?」
だが、あまり時が経っていないと思われる頃、扉を執拗(しつよう)にノックする音と、呼びかける声とで、大天使は目覚めた。
(何事だ、騒々しい……! たった今、寝たばかりだというに……!)

寝返りを打とうととして、彼は愕然とした。
体がまったく動かず、声も出ない。
どうにか、眼だけは開けられたが、それも、やっとのことで、だった。

「昨日も今朝も、天使長様が御前に伺候(しこう)なさらなかったので、天帝様はお怒りになっておいでで……召喚(しょうかん)(おお)せつかったのですが。
天使長様、もしや、ご気分でも優れないのでしょうか?」
その間にも、扉の外では声が続いた。

(丸一日眠っていただと!? 天帝様がお怒り……くそ、早く起きなくては)
焦ったミカエルがいくら動こうとしても、力の(みなもと)が全部流れ出してしまったかのように、体は微動だにしなかった。
(な、何だ、これは……単なる疲労とは違う……!?)

“ハニ、エル、聞こえる、か……?”
彼は、仕方なく念話を使ったが、自分でも、その弱々しさにあきれたほどだった。
「はい、聞こえます、天使長様。入室の許可を頂けますか?」
“そ、そんなこと、より、体が、動かぬ、のだ……医者を、頼む……”
「それは大変! やはりお加減が悪かったのですね!」
(あわただ)しい足音が遠ざかっていく。

(く……この不調は、サマエルのせいだな……!
くそ、忌々しい淫魔めが……!)
自分の行いは棚に上げ、ミカエルは歯噛みしたものの、またも眠りに落ちてしまった。

彼が意識を取り戻すと、枕元の椅子に座っていた天使の顔が輝いた。
「お目覚めですか、よかった……!」
「ハニエル……我は……ああ、動くぞ……」
声も出て、動けるようになっており、ミカエルは心底ほっとした。
「魔法医の診立てでは、取り立ててお悪いところはなく、ただ酷くお疲れのご様子なので、ゆっくりお体を休めれば数日で本復(ほんぷく)されるだろうとのことでした」

「ふむ……あれから、どのくらい経った? 天帝様は……」
「丸一晩お眠りでしたよ。
天帝様のお怒りは解け、体調不良ならば致し方ない、十分に休養を取るようにと仰っておられました」
「左様か……いや、こうしてはおられぬ……」
起き上がろうとする彼を、ハニエルは押し留めた。
「お待ち下さい、無理をなさっては」

「大丈夫だ」
「ですが……あ」
もみ合う弾みに華奢な手をつかんだ途端、体に電撃めいたものが走り、ミカエルは、反射的に部下を引き寄せていた。
「……ハニエル」
「て、天使長様……?」

戸惑い、頬を赤らめるハニエルの体から、えも言われぬ甘い匂いが立ち昇り、鼻孔目がけて飛び込んで来るような気がした。
その、そそられる匂いを吸い込むたび、体がどんどん熱くなっていく。
今までなぜ気づかなかったのか、すぐそばにこんな上玉がいたのに。
美の天使の異名を取るハニエルは、女神にも匹敵するほどの美女だったのだ。

彼は生唾を飲み込んだ。
「ハニエル、お前は美しい。我のものになれ」
「な、何をなさいます、ご無体な……! おやめ下さい……い、嫌です、天使長様、あ……!」
必死に抵抗する天使を、ミカエルは組み敷き、ローブを引き裂いた。
「いやーっ!」
その悲鳴を聞く者は誰もいなかった。

ミカエルが正気に戻ったときには、すべてが終わっていた。
ハニエルは、彼の横に裸体を横たえ、顔を覆ってしゃくり上げている。
「案ずるな、お前が口を閉じてさえいれば、誰に知られることもなかろう」
「酷い……!」
部下の天使は彼の手から逃れ、部屋を飛び出していった。

ミカエルは、天使の長にはそぐわない、歪んだ顔つきで舌打ちした。
(ち……面倒なことになったな。
まあ、あの女が、口軽く言いふらすとは思えぬし、()らむこともあるまい、腰抜けのアスベエル以降、純血の赤子は生まれぬからな。
万が一、出来たとしても、堕ろせばよいことだ……が、あの生真面目な女のこと、堕胎(だたい)は罪だとか、言い張るやも知れぬが。
そのときは……致し方あるまい、何か罪をでっちあげ、腹の子ごと地下室送りにすればよいのだ)

心を決めると、ミカエルは起き上がった。
あれほど弱っていた心身が、かなり戻っているように思える。
(……女を抱いたことで、か……? これではまるで淫魔……まさか……)
彼は、自分の手を見つめた。
そして、昔、同じようなことがあったのを思い出した。

二万年以上も前、人界に里帰りしていた魔界の王妃アイシスを、若気の至りから軟禁してしまい、数日後に冷静さを取り戻して解放した後のことだった。

おのれの行いを()い、だが、すぐには天界に戻る気にもなれず、彼は当てもなく人界を彷徨(さまよ)っていた。
いつしか、彼は、とある町の、いかがわしい界隈(かいわい)に足を踏み入れており、一人のみすぼらしい男に袖を引かれた。
美人局(つつもたせ)か何かだろうとは思ったのだが、何もかも忘れたい気分だった彼は、つい、男の口車に乗ってしまった。

連れて行かれたのは、廃墟のような建物だった。
方々崩れている階段を上り、たどり着いた階には、豪華絢爛(けんらん)を極めた一室があった。
香を()()めた広い部屋には、豪奢(ごうしゃ)なベッドが(しつら)えてあり、男には不釣合いな美女が横たわっていた。
赤毛の女の、藍色をした摩訶(まか)不思議な瞳には、星屑を散らしたように金色の粒が煌いており、翼や角などは見えなかったが、魔物だと察しはついた。
それでも構わないと思うほど、ミカエルは捨て鉢な気分になっていたのだ。

女と過ごしたのはたった一週間、だが、それまで実直そのものだった彼を狂わすのには、充分過ぎる時間だった。
かつて彼は、天界の女性達から熱い視線や言葉をかけられても、儀礼的に返答するだけで興味は持てなかった……アイシスが初めての恋、そして失恋相手でもあった。

彼を強請(ゆす)ろうとした男を一刀の元に切り捨てたとき、女の顔に浮かんだ、邪悪で満足げな表情は、今も忘れることが出来ない。
「もはや、後戻りは出来ぬぞ、愚天使。
光より見放され、暗き奈落の底へと堕ちてゆくがよい!」
女は、神託を告げるように彼に指を突きつけ、隠していた漆黒の翼を現して、飛び去っていった。

その言葉の意味は、すぐに知れた。
彼はもう、並みの女では満足できない体になってしまっていたのだ。
だが、天使長という立場上、これ以上サッキュバスと関わりを持つのは問題であり、かといって、天界には娼館もなく、頻繁(ひんぱん)に人界へ行くことも出来ず、女神に手を出すのは論外の行為だった。

彼は仕方なく、部下の天使達で欲求を紛らわせようとしたが、人形のような男達を幾人相手にしても、満たされるわけがなかった。
唯一の例外は、シェミハザだった。
無味乾燥な天使達の間にあって、この男の反応だけは、本物のように思えたのだ。

(こんなときこそ、あやつがおれば……!
我の……この飢えを少しでも癒すことができるのは、あやつの苦悶の表情と、声、そして……くそ、)
そのシェミハザも、もはや手の届かぬところにいる。
仮にもっと別な接し方をしていたなら、あの天使も謀反など起こさず、まだそばにいたのかも知れない……忠実な(しもべ)として。

彼は、首を横に振り、その考えを払いのけた。
(どうでもよいわ、裏切り者のことなど。
例の計画がなされた暁には、女など選り取り見取りだ。さすがは天帝様、お考えになることが違う)
天使長はにやりとしたが、体の(うず)きが酷くなっているのに気づいた。
以前のとき同様、これは、女性相手でしか軽減することが出来ない衝動なのだった。

(致し方あるまい。計画遂行まで、女はハニエルで間に合わせるとするか。
ガブリエルもおらぬし、若い女に乗り換えるいい機会だ)
“おい、誰か、ハニエルを呼んで来い! 重大な話がある、()く参れ、とな!”
ミカエルは、念話で部下に命じた。

しばらくして、ようやく姿を現したハニエルは眼を泣き腫らし、ローブをしっかりと体に引き寄せて戸口近くに立ったまま、こちらへ寄って来ようとはしなかった。

「……ハニエル。先ほどは、まことに申し訳なかった」
彼は深々と頭を下げた。
「淫魔の毒気に()てられていたのだろう。
弁解させてもらえるなら、我はずっと、お前を思い続けていた。
目覚めたとき、お前がいるのを見て、夢の続きかと思い……抑制が効かなくなってしまったのだ。
それゆえ……我が妻になってはもらえぬか、ハニエル」

「え……!?」
ハニエルは眼を丸くした。
「で、ですが、天使同士の婚姻は、禁忌(きんき)……」
「それは重々承知の上、されど、責任を取る意味でも、お前を妻にしたいのだ。
天帝様には、折を見て我から奏上(そうじょう)する、叱責(しっせき)を受けるやも知れぬが、覚悟の上だ」
「て、天使長様……そこまで、わたくしのことを……?」

「我が求婚を受けてくれるか? 愛しておるのだ、ハニエル」
ミカエルは手を差し伸べた。
ハニエルは、かすかに首を横に振った。
「……少しお時間を頂けますか、天使長様……。
急な申し出で、その……頭が混乱しておりますので……」
「相分かった。されど、二人きりのときは我が名を呼べ、ミカエルと」
「はい、ミカエル様……」
頭を下げるハニエルの頬が紅くなっているのを、ミカエルは見逃さなかった。

(くく、女とは愚かなものよ。甘い言葉をささやき、婚姻の話を持ちかけさえすれば、すぐに堕ちる。
この女も、もはや、我が手の内……)
天使長の唇が、いやらしい形に歪んだことに、部屋を出て行くハニエルが気づくことはなかった。

その日の夕刻、ミカエルは、大天使ウリエルの訪問を受けた。
「具合はいかがですか?
実は、天帝様から、天使長様がお元気になられるまで、お勤めを肩代わりせよと命じられまして……。
つきましては、あの淫魔めについて、ご教授願いたく」
うやうやしく、ウリエルは言った。

「サマエルの尋問を、ウリエル殿が。
……むう。情けないが、かような(てい)たらくでは、致し方あるまいな。よしなに頼む」
「は」
頭を下げる部下を見るミカエルは、内心穏やかでなかった。
ウリエルは、年齢こそ彼の半分ほどだが、体はたくましく、それでいて性格は温厚であり、次期天使長候補の筆頭と言われていたのだ。

(ち、まだ、三万歳にも至らぬ青二才の癖に、いい気になりおって。
淫魔に誘惑されてしまえばよいのだ)
心の中で舌打ちしながら、それを表情には表さず、ミカエルは答えた。
「あの淫魔め、いくら拷問しようとも、口を割らぬ。
女のごとき姿に惑わされぬように。あれで、なかなかしぶとい魔物ゆえ、気をつけるのだな」
「心得ました。では、さっそく、尋問に取りかかると致しましょう」
ウリエルは丁寧に礼をし、去っていった。

しこう【伺候/祗候】

1 貴人のそばに奉仕すること。

ほんぷく【本復】

1 病気が全快すること。

つつもたせ【美人局】

夫婦または内縁の男女が共謀して、女が他の男と密通し、それを言いがかりとして、その男から金銭などをゆすり取ること。なれあい間男。
◆もと博徒(ばくと)の語「筒持たせ」からきたものという。
「美人局」の字は、中国の「武林旧事」游手にあるのを当てたもの。

そうじょう【奏上】

天子に申し上げること。上奏。