~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

7.紅龍の息子(3)

魔界の貴公子は謎めいた微笑を浮かべ、妖しい輝きを発する紅い瞳で、身動きを出来なくした看守長の顔を覗き込んだ。
「さあ、アスベエル。これでもう、お前は私のものだよ……」
「あ……ああ……」
蜘蛛に捕らえられた蝶のように、大天使は体も心もしびれ、何もかも捨てて、その陶酔に身を任せてしまいそうになっていた。

「さあ、楽しもう……二人だけの世界で……」
しかし、サマエルが服を脱がせ始めると、アスベエルは我に返ってもがいた。
「あ、嫌だ、駄目です、サマエル様……放して、下さい……ど、どうか、お、お願いです……!」

「なぜ……? お前だって、今までシェミハザや囚人相手に、楽しんで来たのだろうに」
「そ、そんな……俺は、囚人に手を出したことなんて、ないです」
「本当に……?」
サマエルは、疑うように尋ねる。

「ですが俺は、部下を止めませんでした……シェミハザを(かば)えば、ミカエルに睨まれますから……黙認……それは、したことと同じです……」
黒い瞳が涙でうるむ。
サマエルはあることに気づいた。
「ひょっとして、お前、まだ誰とも経験がないのか?」
「はい……俺は特殊な立場なので、ミカエルも、俺には……ほ、本当です、信じて下さい、は、放して……」
力なく、それでも天使はまだ抵抗する。

紅龍の魔眼を()ってしても、この天使が堕ちないことに魔界の王子は驚き、作戦を変えることにした。
獲物の眼を(とら)えたまま、甘くささやく。
「では……お前は、ミカエルが私をもてあそんでいるとき、どう思った……?
あの後、私に触れ……あいつと同じ望みを抱いたのではないのか……?」

「い、いえ、まさか……」
否定するアスベエルの顔色が変わったのを、サマエルは見逃さなかった。
「ふふ、図星だね。よくお聞き、天使よ。心で思った、それがすでに罪なのだよ」
大天使は眼を見開いた。
「ええっ、思っただけで、罪……!?」

「そうだ、お前は淫魔の誘惑に屈し、堕落した……もはや天使の資格はない。
さあ、私を受け入れ、すべてをさらけ出すがいい……夢のように甘美な時をあげよう。
……心配ない、優しくしてやるから……。
堕落は淫靡(いんび)な快楽……何物にも代えがたい、無常の喜びだよ……」
インキュバスの声は、獲物の心を迷わせ誘い込む、蜜のように甘く、淫らな響きを持っていた。

アスベエルの抵抗はやんだが、それでも、最後のあがきのように、言った。
「サマエル様……一つだけお願いが……叶えて頂けるなら、俺は……」
「どんなことかな? 言ってご覧……」
淫魔は獲物を手に入れたと確信し、舌なめずりするような口調で答えた。

固く閉ざされた天使の目蓋から、涙が流れ落ちる。
「では……俺の体を、どうとでもお好きにして、お気が済んだら、俺を殺して下さい」
「何だって」
予想外の願いに、サマエルは絶句した。
こういう場合、命乞いするのが普通だろう。

「俺は……せめて、心だけでも、清くあろうと思っていました……。
でも、もうおしまいです、何もかも……。 
さあ、早く……俺の体をおもちゃにして、そして必ず殺して下さい……!
俺は、汚い裏切り者……もう、生きてても仕方ないんです」
「なぜ、そう死に急ぐ?」
尋ねても、天使は首を横に振り、涙を流すばかりだった。

「まさか、大天使だというのに、お前まであの虫を……?」
「違います……」
アスベエルは、(うる)んだ瞳で彼を見、ぽつりぽつりと語り始めた。
「大天使なんて名目だけ……俺は実質、最下級天使と同じです……アスベエルという名の意味は、“神に見捨てられし者”ですから……。
俺は“禁忌(きんき)の子供”、看守であると同時に囚人……一生、看守長として、監獄に暮らす運命……」

「……禁忌の子供とは何だね?」
「天界で、黒い眼と髪の子供が生まれるのは、禁じられた天使同士の結びつきによるものだけなんです……俺みたいに。
大天使の両親は処刑、同じ運命をたどるはずだった俺を助けて下さったのは、マトゥタ様でした。
天帝の曽孫(そうそん)、フレイア様の誕生という慶事(けいじ)を口実に俺を引き取り、後で生まれたサリエルと、兄弟同然に育ててくれたんです。
ですから、サマエル様にも親近感を持ってました……」
「……それで、初めから、親切にしてくれたのか」

「そうです……だから、サリエルもあなたも、裏切りたくなんてなかった……。
マトゥタ様に受けたご恩を、あだで返すことにもなってしまいますから……でも、虫を植えつけると脅されて……。
あれは、背いた天使の体内で(かえ)り、血肉すべてを食い尽くしてしまう、恐ろしい虫なんです……」
黒髪の天使は身震いした。
その眼は光を失い、黒いガラス玉のように虚ろだった。

「でも、任務に失敗したからには、虫を……いや、すぐ処刑されてしまうでしょう。
ですから、サマエル様、俺を殺したら、すぐに鍵を奪って逃げて下さい。
どうせ、俺は、赤ん坊のときに死んでたんです……虫に食われたり、拷問で殺されるより、あなたを喜ばせて死ねるんなら、その方がどれだけいいか。
禁忌の子供を、わざわざ蘇生するわけもないですから……」
再び、アスベエルの瞳から、涙がこぼれ落ちた。

「お前……そこまで思いつめて……」
すすり泣く天使を見つめているうち、サマエルは、女神が、大の子供好きだったことを思い出した。
(ああ、マトゥタ、あなたは、少しも変わっていなかった……。
口調は少しきついけれど、心優しい女神……)
おそらく、亜空間で会った複製は、虫を埋め込まれて戦場に駆り出され、心にもないことを言わされていたのだろう。
そう考えると、哀れに思う以上に、天界に対して怒りがふつふつと湧いて来るのを、サマエルは感じた。

そして、この天使が、かなり若いことにも気づいた。
眩い輝きの中、彼の背の高さやがっちりとした体つき、看守長の肩書きにも惑わされ、もっと大人だと思い込んでいたのだが、本当のところは、サリエルより少し年上な程度なのだろう。

「お前、年は?」
「え……もうすぐ、一万八千歳になりますけど……」
それは人間で言えば、十七、八歳に当たる。
サマエルは舌を伸ばし、天使の涙をなめてみた。
「何の風味もない……本当に未経験なのだな……」

魔界の貴公子の眼に浮かんでいた、淫らな輝きは完全に消えた。
「やめておこう……私とて鬼畜ではない。
お前なら、綺麗だし、口直しにいいかと思ったのだが、せっかくミカエルの毒牙を逃れたのに、最初の相手がインキュバス……なんて気の毒だものな。
何より、私の立てた計画に支障を来すのは避けたい。
精神支配を受けていないのは僥倖(ぎょうこう)、今まで通りに振舞えば、勘づかれることもないはず、私の方でも、お前が間者だと気づいていない振りをしよう」
彼は魔眼の呪縛を()き、マントの紐も(ほど)いてやった。

しかし、急に解放された天使の額は汗で濡れ、体は小刻みに震えて、起き上がることも出来ない。
縛られていた手首には、血がにじんでいた。
サマエルは、心底済まなそうな顔をした。
「悪かったね、手荒なことをして。魔法が使えたら、すぐに癒してあげられるのだが……」

「ど、どうしてそう、あなたは優しいんです!
あなたの同情を引くために、俺が嘘をついているかも知れないのに!」
思わずアスベエルが叫ぶと、サマエルは肩をすくめた。
「ほう。お前は二重スパイなのかい?」
「いいえ……ああ、でも、これだって嘘かもしれないでしょう!」

「大丈夫、お前は私を裏切らない。私はそう信じているから」
サマエルはにっこりしたが、アスベエルは混乱して頭を抱えた。
「ああ……もう、俺はどうしていいか……。
そうだ、さっき、思っただけで罪だって……やっぱり、俺は……」

「いや、それは、お前を堕とすための方便だよ。
考えてもご覧、想像しただけで罪になるのなら、世の中は犯罪者だらけだ、天国は閑古鳥(かんこどり)が鳴き、地獄が満杯になるだろうさ」
「あ、そう、ですよね……」
看守長は、ほっとしたように涙をぬぐった。

「それに私は、感謝しているのだよ。
あの晩、ミカエルにもてあそばれた後、檻には私の……淫魔のフェロモンが充満していた。
その誘惑に屈せずにいてくれたこと、幾重にも礼を言う。
もし、お前が私を襲っていたら、他の看守達もそうしただろう、そうなれば……いくらインキュバスといっても、朝な夕なに、九人もの男達の相手をさせられるのは辛いものがある……ありがとう、アスベエル」
サマエルは手を貸し、彼を起こしてやった。

「い、いえ、お礼なんて……。
俺はただ、何をどうしたらいいか、分からなかっただけで……」
「そうか。私の名……サマエルには、神の毒という意味がある。
文字通り、私は、神にとっての毒となり、この天界を内部から腐らせてやるつもりでいるのだよ」

「……あなたはお強いんですね。
でも、俺は……たしかに待遇はあまりよくありませんが、それでも、ここしか居場所はなくて……もし、シェミハザに誘われても、ついて行く勇気は出なかったと思います……。
俺は、意気地(いくじ)なしですから……今も、震えてるのは、ほっとしただけじゃなくて、これからのことを……うまく天帝を騙しおおせるか自信がなくて、怖くて……ああ」
アスベエルは顔を覆った。

この哀れなほどに純真な天使は、幼い頃から恐怖心を植えつけられ、寝返らないようにされてしまっている。
同じような立場にいた彼には、そのことがよく分かったが、天使達を恐怖で押さえつけている天帝への怒りが、またもや込み上げて来た。

サマエルは強い口調で言った。
「聞け、アスベエル!
お前が神に見捨てられたというなら、お前の方でも神を見限ってやるがいいのだ!
ずっと籠の鳥でいたお前は、外の世界へ羽ばたくことを恐れているだけなのだから!」

天使は、びっくりしたように彼を見た。
「神を見限る……どうやって?」
「私のことを強いというが、お前だって本当は強いのだ。
私の魔眼を跳ねのけ、天帝が、光の檻の看守長に据えているくらいなのだから。
それを、逆手にとればいい」
「……逆手にとる、って?」

サマエルは声の調子を戻し、優しく言った。
「今まで通りに勤めると言うことさ。
そして、報告もちゃんとすればいい。お前は真面目だ、怪しまれはしないだろう。
……出来るか? 無理強いはしない、嫌になったり、身の危険を感じたりしたら、すぐに天帝に告げても構わない……すべてを。
サリエルの正体が露見したことや、私に間者だと見破られたことも」

「いいえ。俺にはもう、あなたを裏切ることはできません……いえ、したくないです。
たとえ、あのいやらしい虫を、何匹体に突っ込まれたとしても、です!」
さっきまでの怯えはどこへやら、アスベエルはきっぱりと言い切った。
その単純さを、微笑ましくサマエルは感じた。
保護者である女神は死に、義理とはいえ弟も捕らえられて、心細い思いをしていたこの少年は、精神的な支柱を求めていたのだろう。

「ありがとう。お前を味方に付けることが出来て心強いよ。
だが、お前も、いつ捕まって自白させられるような状況になるとも限らない。
大事なことは話さない方が、サリエル同様、お前を守ることにもつながる。
これからの計画は、私の胸一つに納めておこう」

大天使も笑顔になった。
「こちらこそ、ありがとうございます。
……そういえば、ホムンクルスに何を頼んだんですか? あ、いえ、詳しく聞いちゃいけないんでしたね」
「そんなに難しいことではないよ。あの子ならやってくれるさ」
サマエルはそう答え、自分の言葉が現実になるよう、心の中で祈った。

単語ぎょうこう【僥倖】

1 思いがけない幸い。偶然に得る幸運。