7.紅龍の息子(1)
その晩遅く、アスベエルに連れられて、背の高い少年がやって来た。
「お連れしました、サマエル様。サリエル、こちらがお前のお父上だよ」
看守長は、二人を引き合わせようとした。
だが、少年は檻に近寄ろうとはせず、黙って立っているだけだった。
その様子に、サマエルも、声をかけるのをためらった。
亜空間で女神と一緒にいたホムンクルスは、さほどこちらを嫌っているようには見えなかったが、こちらは、天界に生まれ、女神の子として育てられた、本物のサリエルである。
もしかしたら、母親から愛情を与えられず、または仲間から
自分から会うことを望み、当の息子が目の前にいるというのに、サマエルは、呼び寄せたことを後悔し始めていた。
考えてみれば、一度も会ったことがない親子の間に、情愛などあるわけもない。
だが、息子のどんな恨みの言葉も、ちゃんと受け止めるべきだろう、父親として。
そう、彼は思った。
「どうしたんだよ、サリエル、遠慮しないで、ほら、早く」
檻の鍵を開けたアスベエルが、気まずい沈黙を破るように、急き立てる。
サリエルは、おずおずと歩を進め、そして、檻に入るなり、幼い子供のようにしがみついて来て、サマエルを驚かせた。
「父上! お会いしたかった!」
「……父と呼んでくれるのか」
かすれた声で、魔界の王子は言った。
サマエルが、女神マトゥタと出会ったのは、トリニティとの戦いの直後だった。
そこから換算して、息子は今、一万三千歳(人族の十二、三歳)前後のはずだが、かなり大人びて見えるのは、複雑な遺伝子のなせる技だろうか。
魔族と人族、さらには神族と、三つの種族の血すべてが混じり合っているのだから。
それでも、こうして抱きついて来るところをみると、精神は年相応なのかも知れない。
「もちろんです、ずっとお会いしたいと思ってました、それが、こんな形とはいえ、叶うなんて……!」
サリエルは声を詰らせた。
「がっかりしたろうね。私は、お世辞にも清いとは言えない身だ……」
「そんな、まさか……あ、もしかして、天使長のことで……?」
「なぜ、それを……」
サマエルは思わず看守長を見たが、相手は否定の仕草をした。
「あ、いえ、アスベエルじゃなくて。
僕だって、神の端くれ、天使長の
父上が捕らえられてから、酷い目に遭わされてるんじゃないかって、心配で心配で……ご無事なのを見て、心からほっとしたんです……うっく、ううっ」
サリエルは、しゃくり上げた。
「そうか。心配をかけたね。たしかに、少々痛めつけられはしたが、ご覧の通りさ。
そんなことより、せっかく会えたのだ、もっとよく顔を見せておくれ」
「は、はい……」
涙をふき、顔を上げた息子に、サマエルは微笑みかけた。
「ああ、マトゥタによく似ている……サリエル、と呼んでもいいのかな?」
「はい、もちろんです。でも、僕の眼は、父上似だって、母上は言ってましたよ」
息子の頭には角はなく、髪の色は母譲り、だが、涙に濡れた瞳は魔族の紅、背中の翼も、やはり黒い。
「この眼……魔眼がかい? ああ、可哀想に、苦労したのだろうね……」
魔族の王子はためらいがちに、息子の
サリエルは、首を横に振った。
「いいえ、母上がいてくれましたし、僕は、ある程度大きくなるまで、父上のこと、全然知らなかったんです。
僕の翼が黒いのも、眼が紅いのも、久しぶりに天界に授かった子供だから、他の人と違ってて当然なんだと教えられてました……。
でも、ある日、大天使達が話してるのを偶然聞いてしまって……僕……僕の父親は……」
再び、サリエルは声を詰らせた。
「……そう。さぞかし、気が動転したろうね……」
「い、いえ、そんなこと……」
否定する息子に、優しくサマエルは言った。
「正直に言っていいよ。
自分の父親が魔物、しかもインキュバスだなんて、ショックを受けないはずがないだろう?」
「はい……本当は、すごくびっくりしてしまって、嘘だと思いました。
それから、迷った末に母上に訊いてみたんです。
母上も、初めは、違うって否定してたんですけど……何度もしつこく訊いたら、やっと、真実を教えてくれました……。
僕は、目の前が真っ暗になって……それから毎晩、悪夢にうなされるように……ああ、ごめんなさい……」
サリエルは、うなだれた。
「いいや、当然の反応だよ。
私の方こそ済まない、お前のことはまったく知らなかったから……。
知っていれば……いや、知っていたとしても……」
サマエルも眼を伏せた。
「分かってます、母上のことも、死んだと聞かされてたんでしょう?」
「ああ。ミカエルが言ったのだ、お前に汚されたせいで彼女はみずから死を選んだ、と。
だから私は、その後千年間は喪に服して女性には触れず、最初の妻を
途端にサリエルは、涙に濡れた顔をほころばせた。
その笑みは、サマエルに少し似ているようだった。
「それを聞いたら、母上は喜んだと思います。
口では強がりを言ってても、父上のことは忘れてませんでしたから。
僕が泣いてばかりいたら、母上は、誰にも内緒だと言って、父上との記憶をこっそり見せてくれたんです」
「え、あの女神が? 一体どんな……」
「その中で、お二人は手を取って見つめ合い、微笑んでました。
綺麗な湖のそばで花を摘んだり、小鳥やリスに餌をやったり、湖畔に並んで座り、水に足を浸したりして、とても幸せそうに……」
サマエルは、遠くを見るような目つきになった。
「ああ、そんなこともあったね……。
若かりし頃、曙の女神の黄金の輝きが、私を
闇に染まった私には、いくら望もうとも、決して手に入れることの出来ない輝きを、彼女は持っていたから……」
カオスの試練を乗り越え、魔力が備わっても、ベルゼブルは、サマエルを、王子……息子として受け入れようとはしなかった。
それどころか、カオスの貴公子……紅龍とは火閃銀龍の餌、すなわち生け贄なのだと知らされ、ショックのあまり魔界を飛び出した彼は、逃亡したとされ、追っ手をかけられてしまった。
その後、プロケルの取り成しもあって、条件付きで魔界の外にいてもよいことにはなったが、生け贄の儀式の時までという、制限された自由であり、彼の心は、深い絶望の底に沈んでいた。
そんなサマエルの前に、マトゥタは現れた。
すぐに、彼は女神に魅了されたが、手を触れるつもりはなかった。
積極的だったのは女神の方で、それも天界の差し金だったのだろう。
それでも、マトゥタは、魔族の血を引く息子を
「お二人が心から愛し合い、僕が生まれたと分かって、安心してまた眠れるようになったんです。
でも、それまで教えられて来た魔物の話と、記憶の中の父上とではあまりに印象が違うので、戸惑いもして。
そこで、魔界のことを色々調べ、ついに知ったんです、真実を。
神族こそが、魔族の住処を奪った侵略者だと言うことを……!
母上は最初、信じてくれませんでした。
でも、一緒に調べてはくれて……僕の話が本当だと分かった途端に捕らえられ、処刑されてしまったんです……!」
唇を震わせる息子の髪を、サマエルは優しくなでた。
「そうだったのか、気の毒にね……」
「母上は、僕に、天界を出て、魔界の父上のところへ行くようにと言い残しました。
僕もそうしたかったんですが、見張りが厳しくて……そのうちに、戦まで始まってしまって……」
「なるほど。……しかし、ちょっと妙だな。
“悪なのは、実は神族の方だった”というのは、公然の秘密でね、ミカエルを始め、主な大天使達は皆、知っていることなのだよ。
そんな程度のことで、大事な女神を処刑……
「えっ、じゃあ、どうして……」
サリエルは、彼そっくりの眼を見開いた。
「そうだな……お前と共に調べていくうち、彼女は、別のもっと重大な秘密を知ってしまったのかも知れない。
それで、口を封じられたと考えるのが、妥当のような気がするな」
「重大な秘密? 何ですか、それは」
「そこまでは分からないが……彼女のことだ、きっと手がかりを残していると思う。
何か、思い当たることはないかな?」
「手がかり、ですか……」
サリエルは、しばし、首をかしげて考えていた。
「あ、そういえば。
わたしの死後、ホムンクルスに会っても惑わされてはいけない、どんなに似ていても、それはわたしではないのだから、って言ってました。
……もし会えたら、父上にもそう伝えるようにって」
「ふうむ、そうか。天帝め、やはり……!」
サマエルは顔を上げた。その紅い眼には、微妙な影が差している。
「すごい、たったこれだけで、分かるのですか!?
何なんです、重大な秘密って!」
魔界の王子は息子を見、口を開きかけたが、また閉じた。
「いや、お前には教えない方がいいだろう」
「ど、どうして……? 僕が間者だとでもお思いなのですか?
それとも、頼りなさそうに見えるから……?」
魔族の証の紅い眼がうるむ。
サマエルは、息子の背中を、あやすように優しくたたいた。
「そうではないよ、お前を守るためだ。
万一、ここに来たことが知れたら尋問を受けるだろう。
だが、何も知らなければ殺されることはまずない、お前は女神の血を引くのだから。
母を亡くしたばかりで、父親恋しさに、矢も立てもたまらず来てしまったとでも言い抜けるのだね。
実際のところ、そうだったのだろう?」
「は、はい、そうですが」
「間もなく朝になる。怪しまれないよう、もうお帰り。差し支えがなければ、今晩また会おう」
「分かりました。ではまた……」
サリエルは渋々立ち去ろうとした。
「あ、ちょっと待ちなさい」
「はい、何でしょう」
振り返った息子の体を、サマエルは固く抱き締めた。
「サリエル、生きていてくれて、本当によかった……!
亜空間で、お前とマトゥタを見たとき、心臓が止まりそうだった……!
複製だとは思ったが、自分で手を下すことは出来ず、最期は見なかったのだよ」
「ああ、父上!」
彼はもう一度、息子を抱き、それから顔を覗き込んだ。
「可哀想に、こんなにやつれて。お前も大変だろうが、頑張るのだよ」
「はい……」
「さ、もう行って、いい夢をご覧」
「お休みなさい、父上」
サマエルは名残惜しげに腕を離し、サリエルも後ろを振り返りつつ、帰っていった。
「サマエル様、少しお休みになった方が……」
ベリアスの声にも、サマエルは上の空だった。
「私は元々、あまり眠りを必要としない。考えことをしたいから、構わないでくれ」
それから、彼は、出された食事にもほとんど手をつけずに考え込み、看守達は淋しい思いをした。
やがて、日が沈むのを待ち兼ねて、アスベエルは、再びサリエルを迎えに行った。
しかし、なかなか戻って来ない。
ぎょうじょう【行状】
日ごろのおこない。身持ち。品行。