~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

6.光の檻(4)

交代の時間が来て、天使達は、看守の詰め所に戻った。
「不思議な人ですね。魔物どころか、まるで、さらわれて来たお姫様みたいじゃないですか……」
ベリアスは、うっとりしていた。
「お前……」
看守長は不審げに部下を見、力天使は、慌てて言い直した。
「あ、いえ、誤解しないで下さい、守ってあげたくなるような人だな、ってことですよ」

アスベエルは肩をすくめた。
「たしかに。最凶の力を持つ悪魔なのに、見た目は、楚々(そそ)とした美人だからな」
「邪悪の権化(ごんげ)とか、散々悪く言われてますけど。
ミカエル様が、彼の色香に迷って拉致し、紅龍に仕立て上げた、なんてことは……」

看守長は深く息をついた。
「……あながち、否定も出来ないから困るな。
あの方は、昔、サッキュバスと出来てるとか、噂になったらしいし。
いずれにしろ、あの王子も気の毒に。
魔界の王族が、皆、彼みたいなら、シェミハザ達が寝返るのも当然かもな」

交代でサマエルと接するうち、他の看守達も同様に感じ始めた。
二日と経たないうちに、天使達は、女王に仕える働き蜂よろしく甲斐甲斐(かいがい)しく世話を焼くようになり、サマエルの背中の傷も、順調に癒えて行った。

五日が経ち、ミカエルが来るというので、寝具も包帯も取り払われた頃には、彼の傷は、ほぼ完治していた。
天使長は、その回復ぶりに眼を剥くと同時に、サマエルの腰布に気づいて怒鳴り散らした。
「看守長、どういうつもりだ! 誰が、こんな物を着せていいと言った!」

しかし、アスベエルは落ち着き払っていた。
「ですが、天使長様。わたしにも、規律を正す義務と、自分の身を守る権利がありますので」
「何だと!?」
居丈高(いたけだか)に、天使長は部下を見下ろした。

「こやつは、部下達に変な流し目をくれたり、舌でいやらしく唇をなめ回してみたり、挙句、淫らな格好で腰を振ったりまでするのですよ。
もし、誘惑され、逃亡を手助けする者が出たりしたら、職務怠慢(たいまん)のかどで、わたしも処刑されますし、天界にも痛手だと思われますが」
アスベエルは、すらすらと言ってのけた。

これは、彼自身の考えではなく、サマエルの入れ知恵だった。
しかし、それが、天使長の憤激を買う結果となってしまった。
「こ、この忌まわしい悪魔めが!
あれほど痛めつけてやったと言うに、懲りておらぬとは、もはや勘弁ならぬわ!」

ミカエルは、滅茶苦茶に鞭を振るった。
傷口が開き、血があふれ出しても大天使は手を止めず、狂ったように打ちすえる。
そうまでされても、魔族の王子は、声一つ立てるでもなく耐え、弱音を吐くこともない。

「くそ、なめおって! こうなったら!」
天使長は、サマエルを仰向けに寝転がして手枷を鉄の輪に留めると、腰布を乱暴にむしり取った。
その眼は血走り、欲望でぎらついていた。
「分かるか、我がこれから貴様に、何をするつもりでいるか」
「……この、態勢で、裸にして……か? これで、やることと、言ったら、一つ、だろう……」
肩で息をしながらも、落ち着いた声で、サマエルは答えた。

ミカエルはカッとなった。
「く、我の清浄なこの体で、貴様の(けが)れを清めてやるのだ、ありがたく思え! 
泣いてもわめいても自白しようとも途中ではやめぬ、吐くなら今のうちだぞ!
くそ、今すぐ貴様を女に変えて、(はら)ませてやりたいくらいだ!」

だが、サマエルは、血に染まった唇で、くすりと笑う余裕があった。
「ふ、実の兄にも同じことを言われたぞ、お前ごときに、この私を、()とせるものか……!
誓っても、いいぞ、最上級、インキュバスの、この私を、一言でも、()かせることが、出来た、なら……洗いざらい、白状して、やる、と……」
「その誓い、忘れるなよ! 後悔して吠え面かくな!」
天使長は、魔物の王子の体に覆いかぶさっていった。

やがて、刻々と時は移り、もうじき、夜が明けるという頃合になった。
「くそ、くそ……! 啼け、声を出さぬか、この、しぶとい魔物め……!」
大天使は、荒々しく魔物をなぶり続けていた。
どんな仕打ちを受けようとも、サマエルの食いしばった口から出るのは、荒い息遣いだけだった。

それでも、本当の父親はこの男ではないかと疑っていたら、彼も、平常心ではいられなかったかも知れない。
だが、もう、今は、疑念が心にきざす余地はなく、彼はただ、敵に拷問を受けているという感覚でいた。
また、ミカエルが自分を襲うことも予想済みで、さらに、こうした無理強いに慣れているということも、彼の冷静さのよりどころとなっていた。
むしろ、予定より遅いと感じ、アスベエルに知恵をつけ、天使長を扇動(せんどう)したほどだったのだ。

「く……こ、この……汚らわしい、魔物、め! き、今日は、ここまでに、して、おいてやる……!
さ、されど、今度は、こうは、いかん、ぞ!」
ついに力尽きたミカエルは、そう言い捨てて、酒に酔ったようにふらつきながら、檻を後にした。

その姿が見えなくなると、アスベエルが大急ぎで鍵を開け、ベリアスが飛び込んで来て手枷を外した。
「大丈夫ですか、サマエル様!」
「恥ずかしいところを見せてしまったね……。
敵の……それも、男に体を許すなんて、あさましいと思うだろう……?」

助け起こされた彼は、千切れたマントで、散々汚された裸身を隠そうとした。
しかし、それは無駄な努力だった……と言うより、布の裂け目から覗く魔界の貴族の柔肌(やわはだ)を、より一層(なまめ)かしく見せて、こういうときに、彼が他人に与える淫らな感じを、余計に強調しただけだった。

「い、いえ、あなたは……何も悪くありませんよ……。
あ、あいつの方こそ、まるきり発情した雄猫だ、同じ天使として、お恥ずかしい、限りで……」
ベリアスの声が喉にからんだ。
「ど、どうぞ、これを……」
堅物(かたぶつ)のアスベエルでさえ妙な顔つきになり、それでも、自分のマントを脱いで、彼に着せかけた。

「ありがとう、酷い格好が隠れて助かるよ」
だが、布地越しに王子の肌に触れた途端、看守長は、熱い物に触ったかのようにびくっとし、顔も赤くなった。
何も気づかぬ振りをしながら、サマエルは(つや)っぽい仕草で、マントから銀の絹糸のような髪を引き出す。

「べ、ベリアス達が、看守になったのは最近だから、よく知らないだろうが、ミカエルは本当に、見境のないヤツで……」
そう話すアスベエルの声は上ずり、眼は吸いつくように魔族の王子から離れず、ミカエルの名に“様”をつけ忘れたことにも気づかない。
「知ってますとも、有名ですから……」
同じくサマエルに釘付けになり、荒い呼吸をしているベリアスの答えも、上の空だった。

今、檻は、淫魔のフェロモンで一杯になっている。
興奮した彼らが、襲いかかって来るのも時間の問題だった。
もてあそばれることには慣れている。
だが、自分を抱くことで、この純朴な天使達がミカエルのようになってしまうのが、少し悲しいと彼は思った。

二人の天使の手が、ほぼ同時に肩に触れる。
押し倒されて、それから……止めようと入って来た天使達も、きっと……。
そして、後は、昼となく夜となく、九人の男達に……。
(済まない、“焔の眸”。私は、夫としては失格だな……)
彼は眼を閉じた。

その時だった。
檻の外の看守達が、一斉に天使長の悪口を言い出して騒然となったのは。
「あ、あれ……俺は?」
「な、何だか、頭が……」
途端に、呪縛は解け、看守長達は我に返った。

ほっとしたサマエルは、パンパンと手をたたいて皆を黙らせた。
「おやめ、陰口など。おのれの品位を下げるだけだよ。
まあ、私も、他人のことは言えないが。
たしかに、鬼畜にも等しい所業には違いないが、一つ……いや、二つだな、いいこともあったしね」

「あ、そ、それは何でしょう、サマエル様」
夢から覚めたように、ベリアスが訊いた。
王子はいつもの、彼らを魅了してやまない微笑を浮かべた。
「一つは、ミカエルの精気を、たっぷりと頂けたことさ。
さすがは天使の長、上質で強力……味はまあ、二の次だけれど。
そのお陰で、ほら、ご覧……」

サマエルは手早く髪をひとまとめにし、前に流して後ろを向いた。
マントをはらりと落とす。
その晩受けた鞭の傷は、跡形もなく消えていた。
残っているのは、無惨にもぎ取られた翼の傷跡だけ。
そこから、黒いものが顔を出し、植物の芽が伸びるように、見る見る大きくなってゆく。
やがて、完全に成長が止まると、サマエルはコウモリ状の翼を大きく広げ、羽ばたいてみせた。

「素晴らしい!」
「おめでとうございます、サマエル様!」
「我ら一同、大喜び申し上げます!」
さすがは魔界の王子、すばらしい再生力で!」
「さぞや、ご不自由でございしましたでしょう!」
看守達は口々に喜びを(あらわ)にしたが、マントを引き上げたサマエルの表情は、複雑だった。
「お前達、こんな醜い、真っ黒な翼が生えたのを、喜んでくれるのかい?」

「な、何を仰います、醜いなどと、そんなわけが!」
勢い込んでベリアスが言った。
「そうですよ、我らは同じ翼ある者として、心から同情してました。
白か黒かなんて、単に、色の違いですよ」
アスベエルが言った。
「ありがとう……うれしいことを言ってくれるね」
サマエルはまた、にっこりした。

「そう言えば、もう一つあると仰っておいででしたが」
ベリアスが再び尋ねた。
「ああ、それは、ミカエルがしばらくは動けないと言うことだよ。おそらく一週間かそこら。
たっぷりと、絞り取ってやったからね。
しかし、私を抱けばどうなるか、分かっていたはずだが。
……それほど、想いを遂げたかったのかな、あいつは」

「え!? まさか……」
看守の一人が眼を丸くした。
「いや、あいつの想い人は、私の母だ。
私が生まれる前、人界に里帰りした母をさらい、監禁したこともあるほどだ。
それでも、手も触れずに帰してくれたようだったから、今回だけは大人しく抱かれてやったのさ」

「ええっ、遂げられなかった想いを、その息子で果たしたというのですか!? 
ああ、だからさっき、女にしてとか……信じられませんよ、まったく!」
アスベエルが憤然として言った。
「まあ、そのお陰で、自由に行動できる時間が一週間ほど出来たのだ。
せっかく、天界にもぐり込めたのだから、内側からしかできないやり方で、私なりに戦おうと思う。
皆、協力してくれるか」

「はい!」
「もちろんです!」
看守達は声をそろえた。
「ありがとう。では……そうだな、我が息子、サリエルに会ってみよう。
味方につけることが出来れば、かなり有利だ。
彼はどうしている? 先日の戦いの時のマトゥタとサリエルは、どうせ偽者だったのだろう?」

「は……たしかにそうです……が」
看守長は、顔を曇らせた。
サマエルは、かすかに眉を寄せた。
「どうしたのかな」
「言いにくいんですが……本物の女神マトゥタは、すでに処刑されていまして……」
「え、処刑!? どうして? サリエルは無事なのか?」
さすがに動揺し、サマエルは矢継ぎ早に尋ねた。

「ご安心下さい、サリエルは大丈夫ですよ。
一時は投獄されていましたが、今は釈放されています、監視つきですが。
女神の処刑は、最初の出陣の直前で、理由はよく分かりませんが、噂では、天帝様への反逆を企てた、とか……。
でも、女神は貴い存在、天帝様の意に逆らったとしても、今までは処刑に至ったことなど……」

「……なるほど。やはり、彼とは会わなければならないね。
天界内部で、何かが起こっているようだ」
「サリエルの監視は、俺の直属の部下なので、話はつけやすいですよ」

「よし、では、さっそく渡りをつけてくれ。
……ああ、もう、すっかり夜が明けてしまったな。
早い方がいい、出来れば、今夜にでも会いたいが」
「はい、では、取り急ぎ段取りをつけて参ります」
看守長は、足早に出て行った。
その間に、サマエルは折られた角を再生し、眠りについた。

いたけだか【居丈高】

(「威丈高」とも)人に対して威圧的な態度をとるさま。

そそ【楚楚】

清らかで美しいさま。可憐(かれん)で美しいさま。多く若い女性についていう。

うぶ【初/初心/産/生】

1 (初・初心)世間ずれがしていないこと。ういういしいこと。また、そのさま。
 2 (初・初心)まだ男女の情を解しないさま。