~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

6.光の檻(2)

サマエルの場合、傷の治りが悪くなったといっても、一般的な魔族や天使よりもまだ早く、どんな酷い傷もたった一晩で癒えてしまう。
驚異的な彼の回復力を目の当たりにしたミカエルは、八つ当たり気味に看守長をどやしつけた。

「こやつを見よ、アスベエル! 傷はすぐふさがり、飢えても(かわ)いてもおらぬ!
貴様、こやつに餌などやっておるのではなかろうな、もし左様なことがあれば、天界への反逆と見なすぞ!」

水しか飲ませていなかったアスベエルは、さほどやましさを感じることもなく、落ち着いて答えた。
「滅相もありません、なぜ、わたしがそんなことを。
こいつは、獣のごとく床に這いつくばり、自分の流した血をなめているのですよ、汚らわしい。
初めて見たときには、おぞましさに髪も逆立つ思いでしたが。
それに、捕らえたときよりも、確実に()せて来てます、平静を装っていても、空腹には違いありませんよ」

天使の長は、胡散(うさん)臭そうにアスベエルを見たが、相手も看守の長を務める大天使、無闇に糾弾(きゅうだん)するわけにもいかなかった。
「……ち、まだ手ぬるいということか」
忌々しげに舌打ちし、ミカエルは、さらに魔界の王子を痛めつけた。
だが、サマエルは、(がん)として口を割らなかった。

かつて、暗黒に閉ざされた紅龍の塔で、何十年もの間、筆舌に尽くしがたい苦痛を受け続けたことがある彼には、この程度の拷問など、さほど大したものとは感じられなかったのだ。
紅龍の試練では、食事こそ与えられていたが、何日も気を失っていたり、苦痛のあまり水さえ喉を通らないこともしばしばで、その点でも今の状況とさして変わりはなかった。

幼少期から独りでいることの多かった彼だが、試練中は、体の痛みより、孤独の方が辛く感じられたくらいだった。
暗闇の中、動く物といえば、声もなく漂う青白い人魂ばかり、自分が誰かも忘れ果ててしまうほど長い間、話す相手もなければ触れ合う者もない、絶対的な孤独……心が凍てついてしまいそうな……。

あのときに比べれば、今の方が精神的には楽なくらいだった。
拷問中のミカエルは、饒舌(じょうぜつ)といってもいいほどに声をかけて来、アスベエルも、口数は少なかったが、時折気の毒そうに話しかけてくれ、監視するためとはいえ、常に天使達の姿が眼に入ることもあって、孤独感にさいなまれることだけはなかったのだから。

その一方で、まったく自白が得られず、(ごう)を煮やした大天使は、大振りの手斧(ておの)をかついで檻に入って来た。
「さあ、今日は、これを使ってやるぞ、どうだ!」
鋭く光る刃を鼻先に突きつけられても、サマエルは顔色一つ変えない。
「……ふうん、また、ずいぶんと大仰(おおぎょう)なものを持ち出して来たね。
そんなもので脅しても無駄だよ、教えてなどやるものか」

「こやつは! 女のような顔をしておるくせに、何とふてぶてしい!
だが今に、泣き叫んで許しを乞いたくなるわ!
傷など、すぐにふさがると高をくくっているようだが、完全に切断されたら何とする?
さあ、言ってみろ、これで、どこを切り落として欲しい!」

恫喝(どうかつ)されたサマエルは、(おび)えるどころか笑みを浮かべた。
「さあてね、個人的意見としては、五体満足で、魔界に帰して欲しいが」
「くっ……ふ、ふざけるな!
ええい、貴様の、そのくそ落ち着き払った顔を見ているだけで腹が立つ、今日と言う今日は、絶対に吐かせてやるからな、覚悟しろ!」

ミカエルは、手斧を置くと、拳を固め、彼の腹と言わず顔と言わず殴りつけた。
しかし、サマエルはいつも通り、悲鳴一つ漏らさない。
「くそ、(けが)れた蛇め! この程度では、痛くも(かゆ)くもないと言いたげだな!
では、目玉をくり貫き、鼻をそぎ、耳を引き千切ってやったらどうだ!」

「……小さな目玉を、そんな大きな斧でくり貫くのは難しいぞ。
焼きごてを押し付けるか何かした方が、楽なのではないかな。
あるいは、よく切れる小刀で、顔面の皮膚を剥ぎ取ったらどうだ、私の顔がそんなに気に入らないのなら」
切れた唇から血を流し、それでも平然と、サマエルは答えた。

「何……!?」
予想外の反応に、大天使は絶句する。
「そして、剥いだ皮は、額にでも入れて飾っておけばいい。
私は、この、女のような顔が嫌いだが、お前は、我が母アイシスの面影を、毎日見られてうれしいだろう」

「き、貴様……!」
からかわれていると思ったミカエルは、腰に下げた小剣をすらりと抜いた。
「ならば、望み通りにしてくれる!」
叫びながら、仰向けに横たわる彼の額に、それを突き立てる。
紅い血が一筋、傷口からこめかみに向かって流れた。
しかし、サマエルは眉一つ動かさない。

「その調子だ、ミカエル。どうせなら、顔だけでなく、全身の生皮を剥げばいい。
そして、塩水……いや、煮えたぎった油をかける方が効果的だろうな。
……私が苦痛に転げ回る様を見たいのなら、これくらいはやらなくては」
凄惨(せいさん)な拷問の話をしていながら、サマエルの口調も表情も、世間話でもしているかのようだった。

「……う、な、何を言っているのだ、貴様……」
大天使は、一瞬、気を飲まれ、それから、激しく首を振った。
「い、いや、貴様ごときに言われんでも、それくらい、やってやるわ!」
そう言って手に力を込めたが、サマエルに見つめられているためなのかどうか、どうしてもそれ以上、皮膚を切り裂くことは出来ず、しまいにはその額から、汗が噴き出し始めた。

「……そうして、醜く焼けただれた私を、犬のように鎖につなぎ、この汎神殿(パンテオン)中を引き回せば……おや、どうした?」
自分の言葉に陶酔していたサマエルは、相手の動揺に気づいて尋ねた。
「う、うるさい……!」
ミカエルは、震える手にもう一方の手を重ねたが、切っ先が刺さったところから、指の太さほども動かすことが出来ないのだった。
とうとう大天使は、彼の額から小剣を抜き、鞘に収めてしまった。
「何だ、やめるのか、つまらない」
サマエルは肩をすくめた。

「……こ、この、狂人め! 喜ぶのはまだ早いぞ、今からが本番だ!」
夢から覚めたようにミカエルは叫ぶと、彼の角をつかみ、拾い上げた手斧で、根元から叩き折った。
「……っ!」
その衝撃が脳に響き、気が遠くなりかけたサマエルを転がしてうつ伏せにし、大天使は、手枷を床の鉄の輪に留める。

「看守長、この悪魔めの翼を押さえていろ、暴れないようにな!」
近づきかけたアスベエルは、青ざめて足を止めた。
「ま、まさか、ミカエル様……」 
「何だ、怖じ気づいたか、情けない!
貴様も看守長、かような拷問など、見慣れておるであろうが!」

「で、ですが、今までは、魔物相手でも、そこまでは……」
「黙れ、これくらいやらねば、しぶとい魔物を堕とせはせぬわ!
さあ、早く来い! まずは左からだ、しっかりと持て!」
「は、はい……」
渋々、看守長は歩み寄り、黒い翼をつかむ。
ミカエルは、手斧を振り上げた。

「……くうっ!」
肩から背中にかけて焼け付くような痛みが走り、サマエルは悲鳴を上げそうになるのを、懸命にこらえた。
勢いよく振り下ろされた刃は骨に当たり、それ以上深くは食い込まない。
それを見た大天使は、何を思ったか、にやりとした。
「よし、もういい、そこをどけ、アスベエル。後は我が直々に、引き千切ってくれるわ!」

「ええっ!?」
仰天するアスベエルを尻目に、ミカエルは斧を放り出し、コウモリ状の翼をつかんだ。
囚人の背中に足をかけ、力任せにそれを引く。
「……う、ぐううっ……!」
サマエルは歯を食いしばった。

みしみしと嫌な音を立てて傷口が広がり、飛び散る鮮血が、大天使の顔や白いローブを真っ赤に染めていく。
目の前で繰り広がられる地獄絵図に、アスベエルだけでなく、檻の外に控える八人の天使達もまた声もなく、ただ体を震わせていた。

「……ああ」
やがて、翼がもぎ取られる苦痛の極みの瞬間、サマエルは気を失った。
「ふん、この程度では、我の気は納まらぬ!
誰か、水を持て!」
ミカエルが命じても、ほとんどの看守は腰を抜かしかけており、誰も応じる者はいなかった。

「何をしておる、早くしろ! それとも全員、羽をむしって欲しいか!」
返り血を浴びて真っ赤に染まった大天使の形相は、まるで鬼のようだった。
「あ、あの、わ、わたし、が」
力天使ベリアスが意を決し、水の入った容器をつかむと、檻に入った。
震える手で、失神した魔物に水を浴びせる。

「……う、うう……」
うめき声を上げる魔界の王子の、血にまみれた銀髪をわしづかみにして顔を持ち上げ、ミカエルはすさまじい笑みを浮かべた。
「どうだ、角をもがれ、翼をむしり取られる気分は?
かつて翼を食われた恨み、今こそ晴らしてくれる!
……と言いたいところだが、我とて慈悲深き天使の長、今すぐに白状すれば、もう一方は許してやろうぞ、さあ、吐け!」

「どの、道……片羽根、では……もは、や……飛べ、まい……さっさ、と……もう、片方、も、やるが、いい……愚天使……」
腫れ上がった唇で、サマエルは答えた。
「強情な! では、注文通りにしてやる!」
大天使は、サマエルの頭を力一杯、床にたたき付け、再び手斧を取り上げた。
「アスベエル! いや、力天使ベリアス! 貴様の方が見所がある、翼を押さえておれ!」
「は、はい……」
水を運んだ天使は、蚊の鳴くような声で答え、おずおずと翼を手にとった。
「よし、離すなよ!」

「うっ……!」
一撃の後、ミカエルは手斧を捨て、またもや魔物の翼を、引き剥がしにかかった。
漆黒の翼は、あるじの体から離れるのを嫌がるように、ひどく暴れ、大天使の顔を打ちすえた。
鮮血が飛散し、床に滴って、血だまりを作ってゆく。
「このっ、大人しくしろ!」
ミカエルは魔物の頭を足蹴にし、腕に込める力をますます強めてゆく。
「く、くうう……!」
サマエルは激痛に身悶え、叫び出しそうになるのを必死にこらえた。

そうして、ついに翼は引き抜かれた。
「がはっ……!」
例えようもない苦痛に襲われたサマエルの口から、血の塊が吐き出される。
「ベリアス、水!」
「は、はい」
天使にいくら水を浴びせかけられても、彼は、もはや動くことも出来ない。

紅く塗りつぶされた視界に、“焔の眸”の幻が浮かび上がる。
懸命に手を差し伸べているニュクス、こちらへ駆け寄って来ようとするシンハ、こちらに向けて、必死に呼びかけているゼーン……ダイアデムは、炎の瞳に涙を一杯溜めて、拳を握り締め、何事か叫んでいる。
けれど、どんなに耳を澄ましても、彼らの声は聞こえない。
手を伸ばそうとするが、体の自由は、まったく利かなかった。
たとえ動けたとしても、もはや、彼らの元へ還る術は失われていたのだが。

やがて、幻影は(はかな)く消えてゆき、その代わりに現れたのは、二人の女性だった。
母は顔を覆って泣き崩れ、ジルは、こちらへ来てはいけないと言いたげに、両手の指を大きく広げ、しきりに振っている。
(母上、ジル……そうだね、私は、そちらへは行けない……私の行く先は地獄、なのだから……。
済まない、皆、私はもう……)
彼の意識は暗転した。