5.天界の罠(3)
シェミハザとプロケルと共に、タナトスが到着したとき、すでに、シンハは堕天使の蘇生を開始していた。
“焔の眸”と“黯黒の眸”は、共に死者を蘇らせることが出来るが、いつ頃、その力が彼らに宿ったかは定かでない。
ただ、神族の侵略による流された血と負の思念を、それぞれが吸収したことにより、結晶が
「アザゼル!」
堕天使は、血まみれの友人に駆け寄り、その腕に触れた。
「まだ温かい……可能でございますか、蘇生は!? シンハ様!」
『案ずるな、出血は多いものの、死んだ直後なれば。
「は、はい、よろしくお願い致します」
シェミハザは、深々と頭を下げた。
彼らがいるのは、地下迷宮の入り口にほど近い場所で、普段は人通りなどはない。
窓もなく、左右の壁に掘られたくぼみで燃える一対のろうそくが、唯一の明かりだった。
揺らぐ炎の下、血溜まりの中に倒れているもう一人の天使を、長年王族の教師を勤めて来たグラシャラボラス導師が
『グラシャラボラス、そいつが複製か』
タナトスが声をかけると、導師は顔を上げた。
「左様で、タナトス様。
まだ息がありましたので、手当致しておりました。後で、尋問せねばなりませぬゆえ」
グラシャラボラスは、うやうやしく答えた。
「ふん……それで、何があったのだ?」
「では、それがしが」
プロケルが経緯を説明し始めた。
「先ほどの戦いにて、捕虜が一挙に増え、人手が足りぬと言うので、それがしと導師は、看守役を買って出ておりましてな。
そこへ、天使どもが暴れ出し、他の者達とも協力し鎮圧したものの、数名が逃亡を図りまして。
それを追っていたところ、この両名が、もみ合っておったのです。
駆け寄りますと、そちらの堕天使が……」
元公爵は、シンハが蘇生している方の天使を示す。
「自分はアザゼルで、ホムンクルスに裏切られたと申し、事切れまして。
そこで取り急ぎ、タナトス様に蘇生を願い出た次第です」
「なるほどな。狙いはアザゼルだったか。
ともかく後は、蘇生を待つだけだな」
タナトスは言い、息詰まる沈黙の時が過ぎていった。
そして、ようやくアザゼルは息を吹き返した。
「う、う、うう……」
「アザゼル! 大丈夫か!?」
シェミハザは、必死の思いで友の体を揺さぶる。
アザゼルは、薄目を開けた。
「あ……あ……シェミ、ハザ……わた、しは……」
『シェミハザ、落ち着け、左様に揺すってはならぬ』
シンハが、堕天使をたしなめる。
「あ、は、はい、申し訳……よかった、アザゼル、お前、シンハ様に蘇生して頂いたんだぞ!」
シェミハザは、涙をぬぐった。
「……ああ、そ、それは、ありが、とう、ございました……シン、ハ様……」
顔だけをライオンに向けて、アザゼルは礼を述べた。
『その者にやられたのだな?』
シンハは、まだ意識が戻らない天使を、前足で示す。
「はい……そい、つは……わたしの、記憶を、注入された、複製……だと言い……もう、天界に、見切りを、つけたい、から……人気の、ない所で、相談を、と……。
そして、話して、いたら……い、いきなり……」
「ふん。やはりシンハ、貴様の考えた通りだったな」
タナトスの言葉にシンハは答えず、プロケルに尋ねた。
『他の天使どもは、いかがした?』
「は、逃亡した者も捕らえ、縛り上げて牢に戻してあります」
『ふむ……』
「こうなってしまいましたからには……わたしがこの手で、彼らの始末を付けます……それが、せめてもの……」
シェミハザは、またも眼をうるませ、うなだれた。
タナトスは顔をしかめた。
「気分は悪いが、そうするより他にあるまい。
これ以上、汎魔殿の内で騒動を起こされてはたまらんからな」
「しばしお待ちを、タナトス様」
プロケルが口を挟む。
「あの者達を、味方に引き入れるわけには参らぬのですかな。
それが出来れば有利ではないかと、ここへ来る道すがら、導師とも話しておったのですが」
「それは、俺達も考えていた。だが……」
黄金のライオンは、激しく頭を振った。
『いや、それはならぬ。天帝が巡らした陰険な企ての臭いがしておる。
生かしておいても、我らの益にはならぬわ』
「その通り、です……他に、何が、仕掛けられて、いるか、分かりません……また何か、あったら、犠牲者が……わたしは、蘇生して頂く、ことが、出来まし、たが……」
蒼白な顔でアザゼルが同意し、その場が重い空気に支配されそうになったとき、プロケルが急に顔を輝かせた。
「おう、では、氷漬けにしてここに放り込んでおく、というのはいかがですかな。
入り口を封印しておけば、万一目覚める者があったとしても、逃げ出すことは出来ませんぞ」
元公爵は、地下迷宮を指さす。
「操られているだけの者を、ただ殺してしまうのも寝覚めが悪いと存じます。
ご許可頂けますならば、
タナトスは大きくうなずいた。
「それはいい考えだぞ、プロケル。奥で迷ったら、出口はそう簡単には見つけられん。
よし、すぐに魔神どもを呼び出せ」
「は」
「おお、何と慈悲深い……!
お礼の言葉もございません、タナトス様、プロケル様……!」
シェミハザは涙にくれた。
その時、グラシャラボラスが口を開いた。
「妙ですな、このホムンクルス、一向に目覚めませんぞ。
こちらも虫の息でしたから、そのせいでしょうかな。傷はすべてふさいだのですが……」
「ふん、やはり、何か仕掛けられているのだろう。
プロケル、そいつも一緒に放り込んでおけ、面倒が減る」
タナトスは、迷宮に向かって手を振った。
それまで、何かを確認するかのように、しきりにアザゼルの臭いを嗅いでいたシンハが言った。
『蘇生は叶った。されど無理は禁物。ゆるりと休むがよいぞ、アザゼル』
「はい……分かり、ました、シンハ、様」
『シェミハザよ、天使の蘇生は初めてのことゆえ、この者の予後は、エッカルトに任せるがよい』
「はい、シンハ様」
顔を上げライオンと眼を合わせた刹那、シェミハザは、ぎくりと身を固くし、それからすぐにうなずいた。
「では……お言葉通り、彼を医務室へ運びます」
「よし、これで片付いたな。俺は執務室にいる、何かあったら知らせろ。
──ムーヴ!」
再び何か起きたときに素早い対応が取れるようにと、タナトスは、自室には戻らないことにしたのだ。
“黯黒の眸”のいないベッドで、眠る気がしないということもある。
要石の間に行くことも考えたが、また妃の仕事の邪魔をしてしまいそうで、さすがの彼もやめておいた。
それにしても、長い一日だった。
仮眠でも取ろうと、彼がソファに横になったところへ、シンハが現れた。
「そういえば、シェミハザの挙動が、少し妙だったな。貴様、何か言ったのか?」
シンハは、すっと眼を逸らした。
『……はて。何のことやら』
「……!」
起き上がりかけたタナトスは、思い直して再びソファに身を沈めた。
「……何を企んでいるか知らんが、結果は報告するのだぞ」
『御意』
重々しくうなずくシンハに、タナトスは顔をしかめて見せた。
そのまま、三日ほどが経ち、その間、シュネは高熱を出して寝込んでいた。
精神的なショックだけでなく、例の触手には、眠り薬のような液を発射する
診察したエッカルトは、対魔族用に開発された薬液であり、純血の魔族に使われた場合、効き目が強過ぎて死に至る可能性もあると、苦々しげに述べた。
熱が下がり、時折は笑顔も見せるまでに彼女が回復したのは、それから四日も経ってからだった。
こうして、一週間が経過しても、他には何の進展もない。
サマエルからはもちろん、天界からも条件の提示などはなく、迷宮に封じた天使達にも、動きはなかった。
苛々が頂点に達したタナトスは、“焔の眸”に呼び出しをかけた。
ライオンが私室に入って来た途端、彼は吼えた。
「おい、シンハ! サマエルが、本当にわざと捕まったのだとしたら、俺はあいつを許さんぞ!」
『何を唐突に……』
訳が分からず、シンハは大きく頭を振った。
炎のたてがみから、火の粉が豪華な絨毯に散る。
それも眼に入らず、タナトスは拳を握り締め言い募った。
「俺がどんな思いで、貴様をあいつに譲ってやったと思っている!
あやつが戻って来たら、自慢の顔をボコボコにし、二目と見られんようにしてやるからな!」
『サタナエル、左様に心配せずとも……』
「誰が心配などしている!
譲ってやったのは二度目だと言うのに、せっかく手に入れた
『………』
シンハは首をかしげた。
「大体、貴様は、あいつを甘やかし過ぎだ!
手綱を引き締めておかんから、こんなときにいなくなってしまうのだぞ!
いつも、面倒なことはすべて俺に押しつけ、フラフラ遊び歩いて……!」
『つまり汝は、弟に依存していたおのれに、立腹していると言うわけか?』
「な、何! 俺が、いつ、あいつに……」
タナトスは顔を真っ赤にした。
『依存していないと? 胸を張って左様に言い切れるのか、魔界の王よ?』
「く……」
歯ぎしりをした彼は、ライオンの冷静な眼差しに、一瞬で頭が冷えた。
二手三手先を読み、導き出す答えは的確で、サマエルほど頭の切れる者は、魔界にはいない。
シンハもさすが年の功で、いい考えを出すことはあるが、弟ほどの分析力や臨機応変さはなかった。
他の家臣の
打てば響くと言うか、最後まで説明しなくととも、こちらの思考を汲み取り、素早く答えを出すのだから。
もっと早く、参謀にしておくのだったと後悔したほどだった。
しかし、弟は他人を信用しておらず、何か行動を起こす際には、事後承諾が多かった。
タナトスに対しては、ある意味仕方ないとは言えたが。
今回も、結界はあるし、自分がいなくとも、何とかなると踏んだのだろう。
「ちっ! ああ、俺はいつの間にか、サマエルに頼ってしまっていたようだ。それで……」
『急に去られて、心細くなったと言うわけか』
「な、だ、誰が心細くなど……!」
タナトスはつい、ムキになってしまう。
ライオンは猫のように体をしならせ、大きく伸びをした。
『やれやれ、図体ばかり大きな童子か、世話の焼けることよ。
またもや、保父役をせねばならぬとは……』
「何を言う! 俺は魔界の君主なのだぞ! それをガキ扱いするとは!」
彼の怒鳴り声を柳に風と受け流し、前足で顔を洗っていたシンハは、急に動きを止めて、窓の外を流れゆく雲を見上げた。
『
釣られて外を見たタナトスも、思いは同じだった。