~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

5.天界の罠(3)

シェミハザとプロケルと共に、タナトスが到着したとき、すでに、シンハは堕天使の蘇生を開始していた。
“焔の眸”と“黯黒の眸”は、共に死者を蘇らせることが出来るが、いつ頃、その力が彼らに宿ったかは定かでない。
ただ、神族の侵略による流された血と負の思念を、それぞれが吸収したことにより、結晶が(いちじる)しく成長したのはたしかで、その後に獲得した能力だと思われた。

「アザゼル!」
堕天使は、血まみれの友人に駆け寄り、その腕に触れた。
「まだ温かい……可能でございますか、蘇生は!? シンハ様!」
『案ずるな、出血は多いものの、死んだ直後なれば。(いたずら)に騒がず、待っておれ』
「は、はい、よろしくお願い致します」
シェミハザは、深々と頭を下げた。

彼らがいるのは、地下迷宮の入り口にほど近い場所で、普段は人通りなどはない。
窓もなく、左右の壁に掘られたくぼみで燃える一対のろうそくが、唯一の明かりだった。
揺らぐ炎の下、血溜まりの中に倒れているもう一人の天使を、長年王族の教師を勤めて来たグラシャラボラス導師が(いや)していた。

『グラシャラボラス、そいつが複製か』
タナトスが声をかけると、導師は顔を上げた。
「左様で、タナトス様。
まだ息がありましたので、手当致しておりました。後で、尋問せねばなりませぬゆえ」
グラシャラボラスは、うやうやしく答えた。
「ふん……それで、何があったのだ?」

「では、それがしが」
プロケルが経緯を説明し始めた。
「先ほどの戦いにて、捕虜が一挙に増え、人手が足りぬと言うので、それがしと導師は、看守役を買って出ておりましてな。
そこへ、天使どもが暴れ出し、他の者達とも協力し鎮圧したものの、数名が逃亡を図りまして。
それを追っていたところ、この両名が、もみ合っておったのです。
駆け寄りますと、そちらの堕天使が……」
元公爵は、シンハが蘇生している方の天使を示す。
「自分はアザゼルで、ホムンクルスに裏切られたと申し、事切れまして。
そこで取り急ぎ、タナトス様に蘇生を願い出た次第です」

「なるほどな。狙いはアザゼルだったか。
ともかく後は、蘇生を待つだけだな」
タナトスは言い、息詰まる沈黙の時が過ぎていった。

そして、ようやくアザゼルは息を吹き返した。
「う、う、うう……」
「アザゼル! 大丈夫か!?」
シェミハザは、必死の思いで友の体を揺さぶる。
アザゼルは、薄目を開けた。
「あ……あ……シェミ、ハザ……わた、しは……」

『シェミハザ、落ち着け、左様に揺すってはならぬ』
シンハが、堕天使をたしなめる。
「あ、は、はい、申し訳……よかった、アザゼル、お前、シンハ様に蘇生して頂いたんだぞ!」
シェミハザは、涙をぬぐった。
「……ああ、そ、それは、ありが、とう、ございました……シン、ハ様……」
顔だけをライオンに向けて、アザゼルは礼を述べた。

『その者にやられたのだな?』
シンハは、まだ意識が戻らない天使を、前足で示す。
「はい……そい、つは……わたしの、記憶を、注入された、複製……だと言い……もう、天界に、見切りを、つけたい、から……人気の、ない所で、相談を、と……。
そして、話して、いたら……い、いきなり……」

「ふん。やはりシンハ、貴様の考えた通りだったな」
タナトスの言葉にシンハは答えず、プロケルに尋ねた。
『他の天使どもは、いかがした?』
「は、逃亡した者も捕らえ、縛り上げて牢に戻してあります」
『ふむ……』

「こうなってしまいましたからには……わたしがこの手で、彼らの始末を付けます……それが、せめてもの……」
シェミハザは、またも眼をうるませ、うなだれた。
タナトスは顔をしかめた。
「気分は悪いが、そうするより他にあるまい。
これ以上、汎魔殿の内で騒動を起こされてはたまらんからな」

「しばしお待ちを、タナトス様」
プロケルが口を挟む。
「あの者達を、味方に引き入れるわけには参らぬのですかな。
それが出来れば有利ではないかと、ここへ来る道すがら、導師とも話しておったのですが」

「それは、俺達も考えていた。だが……」
黄金のライオンは、激しく頭を振った。
『いや、それはならぬ。天帝が巡らした陰険な企ての臭いがしておる。
生かしておいても、我らの益にはならぬわ』

「その通り、です……他に、何が、仕掛けられて、いるか、分かりません……また何か、あったら、犠牲者が……わたしは、蘇生して頂く、ことが、出来まし、たが……」
蒼白な顔でアザゼルが同意し、その場が重い空気に支配されそうになったとき、プロケルが急に顔を輝かせた。

「おう、では、氷漬けにしてここに放り込んでおく、というのはいかがですかな。
入り口を封印しておけば、万一目覚める者があったとしても、逃げ出すことは出来ませんぞ」
元公爵は、地下迷宮を指さす。
「操られているだけの者を、ただ殺してしまうのも寝覚めが悪いと存じます。
ご許可頂けますならば、()く、我が配下の氷の魔神どもに命じ、手配致しますが」

タナトスは大きくうなずいた。
「それはいい考えだぞ、プロケル。奥で迷ったら、出口はそう簡単には見つけられん。
よし、すぐに魔神どもを呼び出せ」
「は」
「おお、何と慈悲深い……!
お礼の言葉もございません、タナトス様、プロケル様……!」
シェミハザは涙にくれた。

その時、グラシャラボラスが口を開いた。
「妙ですな、このホムンクルス、一向に目覚めませんぞ。
こちらも虫の息でしたから、そのせいでしょうかな。傷はすべてふさいだのですが……」
「ふん、やはり、何か仕掛けられているのだろう。
プロケル、そいつも一緒に放り込んでおけ、面倒が減る」
タナトスは、迷宮に向かって手を振った。

それまで、何かを確認するかのように、しきりにアザゼルの臭いを嗅いでいたシンハが言った。
『蘇生は叶った。されど無理は禁物。ゆるりと休むがよいぞ、アザゼル』
「はい……分かり、ました、シンハ、様」
『シェミハザよ、天使の蘇生は初めてのことゆえ、この者の予後は、エッカルトに任せるがよい』

「はい、シンハ様」
顔を上げライオンと眼を合わせた刹那、シェミハザは、ぎくりと身を固くし、それからすぐにうなずいた。
「では……お言葉通り、彼を医務室へ運びます」

「よし、これで片付いたな。俺は執務室にいる、何かあったら知らせろ。
──ムーヴ!」
再び何か起きたときに素早い対応が取れるようにと、タナトスは、自室には戻らないことにしたのだ。
“黯黒の眸”のいないベッドで、眠る気がしないということもある。
要石の間に行くことも考えたが、また妃の仕事の邪魔をしてしまいそうで、さすがの彼もやめておいた。

それにしても、長い一日だった。
仮眠でも取ろうと、彼がソファに横になったところへ、シンハが現れた。
「そういえば、シェミハザの挙動が、少し妙だったな。貴様、何か言ったのか?」
シンハは、すっと眼を逸らした。
『……はて。何のことやら』

「……!」
起き上がりかけたタナトスは、思い直して再びソファに身を沈めた。
「……何を企んでいるか知らんが、結果は報告するのだぞ」
『御意』
重々しくうなずくシンハに、タナトスは顔をしかめて見せた。

そのまま、三日ほどが経ち、その間、シュネは高熱を出して寝込んでいた。
精神的なショックだけでなく、例の触手には、眠り薬のような液を発射する刺胞(しほう)が無数にあり、巻きつかれた箇所が、赤く腫れ上がっていたのだ。
診察したエッカルトは、対魔族用に開発された薬液であり、純血の魔族に使われた場合、効き目が強過ぎて死に至る可能性もあると、苦々しげに述べた。
熱が下がり、時折は笑顔も見せるまでに彼女が回復したのは、それから四日も経ってからだった。

こうして、一週間が経過しても、他には何の進展もない。
サマエルからはもちろん、天界からも条件の提示などはなく、迷宮に封じた天使達にも、動きはなかった。
苛々が頂点に達したタナトスは、“焔の眸”に呼び出しをかけた。

ライオンが私室に入って来た途端、彼は吼えた。
「おい、シンハ! サマエルが、本当にわざと捕まったのだとしたら、俺はあいつを許さんぞ!」
『何を唐突に……』
訳が分からず、シンハは大きく頭を振った。
炎のたてがみから、火の粉が豪華な絨毯に散る。

それも眼に入らず、タナトスは拳を握り締め言い募った。
「俺がどんな思いで、貴様をあいつに譲ってやったと思っている! 
あやつが戻って来たら、自慢の顔をボコボコにし、二目と見られんようにしてやるからな!」
『サタナエル、左様に心配せずとも……』

「誰が心配などしている!
譲ってやったのは二度目だと言うのに、せっかく手に入れた宝物(ほうもつ)をないがしろにし、いくら紅龍だとて、生きて戻れる保障もない場所へ、勝手に飛び込んでいく、それが気に食わんと言っているのだ!」

『………』
シンハは首をかしげた。
「大体、貴様は、あいつを甘やかし過ぎだ!
手綱を引き締めておかんから、こんなときにいなくなってしまうのだぞ! 
いつも、面倒なことはすべて俺に押しつけ、フラフラ遊び歩いて……!」

『つまり汝は、弟に依存していたおのれに、立腹していると言うわけか?』
「な、何! 俺が、いつ、あいつに……」
タナトスは顔を真っ赤にした。
『依存していないと? 胸を張って左様に言い切れるのか、魔界の王よ?』
「く……」
歯ぎしりをした彼は、ライオンの冷静な眼差しに、一瞬で頭が冷えた。

二手三手先を読み、導き出す答えは的確で、サマエルほど頭の切れる者は、魔界にはいない。
シンハもさすが年の功で、いい考えを出すことはあるが、弟ほどの分析力や臨機応変さはなかった。
他の家臣の愚鈍(ぐどん)さにうんざりしていたタナトスは、弟の受け答えには、清々しいものさえ感じていた。
打てば響くと言うか、最後まで説明しなくととも、こちらの思考を汲み取り、素早く答えを出すのだから。
もっと早く、参謀にしておくのだったと後悔したほどだった。
しかし、弟は他人を信用しておらず、何か行動を起こす際には、事後承諾が多かった。
タナトスに対しては、ある意味仕方ないとは言えたが。
今回も、結界はあるし、自分がいなくとも、何とかなると踏んだのだろう。

「ちっ! ああ、俺はいつの間にか、サマエルに頼ってしまっていたようだ。それで……」
『急に去られて、心細くなったと言うわけか』
「な、だ、誰が心細くなど……!」
タナトスはつい、ムキになってしまう。

ライオンは猫のように体をしならせ、大きく伸びをした。
『やれやれ、図体ばかり大きな童子か、世話の焼けることよ。
またもや、保父役をせねばならぬとは……』
「何を言う! 俺は魔界の君主なのだぞ! それをガキ扱いするとは!」

彼の怒鳴り声を柳に風と受け流し、前足で顔を洗っていたシンハは、急に動きを止めて、窓の外を流れゆく雲を見上げた。
()く還れ、ルキフェル。さもなくば、安否を知らせよ』
釣られて外を見たタナトスも、思いは同じだった。