5.天界の罠(2)
魔法陣から出た途端、プロケルが、息せき切って駆け寄って来た。
「お、お待ちしておりましたぞ、タナトス様! む? サマエル様はどちらに……」
「それより、戦況はどうなっている!」
タナトスは怒鳴った。
「は! 敵の数およそ二千、いまだ包囲は解かれてはおりませぬが、結界にて、侵攻は
「ミカエルは、まだいるのか?」
「最初に出した斥候はやられましたが、おそらくは。今一度、偵察させましょうや?」
「いや、俺が行く。あやつを捕え、サマエルの居場所を吐かせてやるわ!」
タナトスは、拳を、空に向かって突き上げた。
「まさか、サマエル様が!?」
プロケルの猫眼の瞳孔が、反射的に広がる。
「敵に捕まった。基地に罠が仕掛けられていたのだ」
「何と……!」
『我も参るぞ!』
シンハの声は
「ぼくも行きます、あ、でも、シュネを、早くお医者に診せないと」
「それがしに、お任せを」
元公爵は、リオンが抱いていた、意識のない少女を預かった。
「皆様、ご無事でサマエル様をお連れ帰り下され」
「無論だ! 皆の者、行くぞ!」
シンハを肩に、黔龍は朱龍と兵を引き連れ、結界の外へ打って出た。
さっそく大天使を見つけたタナトスは、吼えた。
“ミカエル! 貴様、くたばっておらなんだのか!”
「残念だったな、この通り、ピンピンしておるわ!」
天使の長は、憎らしい口調で答えた。
『くっ、我が夫を還せ!』
「紅い蛇は頂いたぞ、戻ってからが楽しみだ! ふ、ははは、ふはははー!」
『待て、ミカエル!』
“逃げる気か、卑怯者!”
“父さんを帰せ!”
後を追おうとするシンハと二頭の龍は、天使達に包囲され、身動きが取れない。
“どけ! 邪魔するヤツは殺す!”
タナトスが突っ込んでいくも、結局、逃げられてしまった。
それでも、司令官を失った敵軍は総崩れとなり、五百人ほどが倒され、千二百人ほどが投降し捕虜となって、汎魔殿の牢獄へと収監された。
その夜遅く、ようやくすべてが片付いて、タナトスは要石の間に向かった。
「どうだ調子は」
その声に応えるように結界が輝き、漆黒のローブ姿の化身が現れた。
「……おう、タナトス。相済まぬ、つい、この風姿に馴染んでおるゆえ」
「なぜ謝る? お前はよくやっているぞ」
「何ゆえと申して……ニュクスか、ケテルで出迎えるべきであろう」
テネブレは眼を伏せた。
「また、そんなことを。お前も我が妃だと言っているだろうが」
言うなり彼は、テネブレの唇を奪った。
「駄目だ、結界に集中でき……」
もがく化身をタナトスは押し倒し、そのまま抱いた。
「……かようなときに。再び敵襲があったら、何とする」
ようやく解放されて、テネブレは恨めしげにローブを着直す。
「大丈夫だ、俺の力で結界を強化しておいたからな」
けろりとして、タナトスは起き上がった。
「分かっておる、ルキフェルの身を案ずるあまり、一時、何もかも忘れたくなったのであろう?」
タナトスは肩をすくめた。
「お前には隠し事が出来んな。その通りだ。まったく、あのたわけめが」
「……そのことなのだが。
ルキフェルは、おのれの意思で、天界に参ったのではなかろうか……」
思わず、魔界の王は眼をカッと見開いた。
「何!? なぜ、そんなことをせねばならん!?」
「想像するに、偵察、もしくは、内部での
それを聞いた彼は、額に手を当て
「……やりかねんな。お前がセリンに、
「タナトス、あのときの我は……」
「昔のことだ、気に病む必要はない。
それより、済まなかったな、俺の我がままにつき合わせて」
テネブレは頬を染めた。
「いや……我でよくば、いくらでも」
ケテルの第二形態だったこの化身の顔は、元々、第一形態とは異なっていたが、最近は、さらにタナトス好みに変化しつつあった。
それでも、ケテルに似たりしないのは、別人として愛されたいという思いがあるからだろう。
魔界王は、改めて妻に口づけ、その場を去った。
執務室に戻ると、シェミハザとゴモリーが待っていて、彼を見るやひざまずき、深々と礼をした。
「タナトス様、申し訳ございません、転移門には近づくことも出来ませんでした。
天界の結界は、今や、四重、五重にも張り巡らされている模様です」
「そうか。ケガはもういいのか、シェミハザ」
「は。任務を果たせず、面目次第もございません」
堕天使は、再び頭を下げた。
「二人共、生きて帰って来たこと、
サマエルの言った通り、全軍で突っ込んでいかずよかったわ。もういい、立て」
「本当なのですね、サマエル様が拉致されたというのは」
ゴモリーの声に、部屋の隅でリオンと肩を寄せ合い、シンハに体を預けていたシュネが、びくりと顔を上げた。
「……ああ。天帝の出方を待つしかない状態だ。
まあ、あいつのことは、さほど気にかけずともいいだろう」
タナトスは、幾分投げやりに肩をすくめた。
たまりかねたように、シュネが叫ぶ。
「そ、そんな! あなたはお兄さんなのに、心配じゃないの!?
僕、い、いえ、あたしのせいでお父さんはさらわれたのにっ!
今すぐ、助けに行きたいのに……!」
リオンは立ち上がり、タナトスに頭を下げた。
「ぼくが行きます、許可を下さい、タナトス伯父……いえ、魔界王様、お願いです!」
『落ち着くがよい、シュネ、リオン。
魔族を拉致し、種々条件をつけて駆け引きの材料にする、それが太古より、天界の姑息な
天界にとり、ルキフェルは最上の取引材料。それゆえ、自力で脱出できずとも、
命を取られることはあるまい。今しばらく、様子を見ようぞ』
黄金色の獅子は、重々しく言った。
「その通りだ、軽率な行動は慎め。
何のために、ヤツが身代わりになったと思っている。
女が捕らえられたら、生き地獄も同然な目に遭うのだぞ」
「………」
年上の魔族達に
「それに“黯黒の眸”は言っていた、ヤツは、わざと捕まったのではないか、とな。
もし、そうなら、
「えっ、わざと?」
「何で?」
シュネとリオンは、ぽかんと口を開けた。
他の者達も、あっけにとられていた。
ライオンの瞳の炎が、ゆらりと揺れた。
『たしかに、敵の
「それみろ。
シェミハザ、ゴモリー、貴様らのことも、過剰なほど気を回していたのは、後々を考えてのことかも知れん」
「で、でも、本当に……?」
シュネは、すがるように魔界王の顔を見つめた。
「ああ、おそらくな。
皆は、散々俺を無鉄砲だの何だのと言うが、おのれを
かつて、ジルがさらわれたとき……あの時もヤツは、単身で敵陣に突っ込んで行きおった。
生きて帰れん可能性が高いと知っていて、だ。
ジルだけは何とか帰すから頼む、とかほざきおって!
格好つけた台詞を吐き、あやつが転移したとき、俺は、腹が立って仕方がなかったぞ!」
『……むう』
シンハは言葉を失い、頭を振るばかりだった。
「シュネ様、お顔の色がすぐれませんわ、今一度、お休みになられては?」
ゴモリーが優しく、シュネに声をかける。
「え、でも……」
「病室に戻れ。連絡があったら、すぐ知らせてやる」
魔界王はそっけなく言い、扉に向かって手を振った。
「はい……」
仕方なく、シュネは立ち上がる。
「わたくしがお連れしましょう」
「ぼくも行くよ」
ゴモリーとリオンが付き添って、シュネは
「それで……貴様が見たのは、たしかにミカエルだったのだな?」
タナトスは、居残ったシェミハザに尋ねた。
「はい、このわたしが、あやつを見誤ることなどありえませんし、ヤツと面識のあるゴモリー様も、間違いないと仰っていました」
うやうやしく、シェミハザは答えた。
「……ふん。俺もさっき、結界の外にいたヤツをこの眼で見た。
同一人物が、同時刻に別の場所にいたとなると……」
あれらのミカエルは、我ら同様、複製……ホムンクルスではないかと
「やはりな。俺もシンハと、そうではないかと話していたのだ」
堕天使はうなずいた。
「左様でございますか。
大天使は、天使の中でも特権階級に属し、婚姻の自由その他、神々に近い権利を有しております。
その複製を作るとは……天帝もいよいよ追いつめられ、なりふり構わぬようになって来ていると思われますが」
「ふん、いい気味だな。
それが真実ならば、サマエルが天界にいるのは好都合だ。
魔界屈指の参謀と
あやつは、そう考えて、自分から飛び込んで行ったのだろうさ。
どうやって連絡を取る気なのか知らんが……こうなったからには、やはり、天界の出方を待つしかあるまい」
『その……天界の出方なのだが、サタナエルよ。少々気になる』
シンハが、顔をしかめて口を挟んだ。
「何がだ、シンハ」
『考えてもみよ。今までもあやつらは、幾度となく攻めて参ったが、いずれも結界に
攻略できぬと知りながら、何ゆえ今、仕掛ける必要があるのだ』
「我らの動揺を誘うための、陽動作戦だったのだろう」
『……それだけであろうか?
特に気にかかるのは、あのミカエルともあろう者が、兵を置いて逃亡致したことよ』
「……ふむ。あいつが敵に後ろを見せるとは、たしかに妙だな。しかも部下を置き捨てて、か」
『投降した天使は、千二百人。そのすべてを味方に付ければ、我らに有利になるのは目に見えておる。
裏に何かあると見て、
……汝はいかに考える、シェミハザ』
話を振られた堕天使は、少し考えた。
「……左様ですね……一つ考えられるのは、今回出撃して来た天使達に、何か、仕掛けを施している可能性ですが……まさか……」
「くそ、天帝め、今度はまた、何を企んで……」
タナトスが言いかけたとき、ドアが乱暴に開けられた。
「一大事でございます! 天使どもが、反乱を起こしましたぞ!」
勢いよく入室して来たのは、元氷剣公プロケルだった。
瞳の虹彩が、興奮のあまり円盤状に広がっている。
「何! もう始まったか!」
タナトスは勢い込んだ。
「ご、ご存じだったのですかな!?」
「たった今、その可能性ありと話していたところだ! それでどうした!」
「は。反乱は、すでに鎮圧済みにて、魔族には被害はございませぬ。
ただ、地下迷宮の入り口付近で、アザゼルが、ホムンクルスに殺されまして。
蘇生のご許可を頂けましょうや」
「ええっ、アザゼルがやられた!?」
シェミハザは蒼白になった。
「許可する、シンハ、行って来い!」
『心得た!
──ムーヴ!』
シンハは移動呪文を唱え、地下迷宮へと向かった。