~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

5.天界の罠(2)

魔法陣から出た途端、プロケルが、息せき切って駆け寄って来た。
「お、お待ちしておりましたぞ、タナトス様! む? サマエル様はどちらに……」
「それより、戦況はどうなっている!」
タナトスは怒鳴った。

「は! 敵の数およそ二千、いまだ包囲は解かれてはおりませぬが、結界にて、侵攻は(まぬが)れております」
「ミカエルは、まだいるのか?」
「最初に出した斥候はやられましたが、おそらくは。今一度、偵察させましょうや?」

「いや、俺が行く。あやつを捕え、サマエルの居場所を吐かせてやるわ!」
タナトスは、拳を、空に向かって突き上げた。
「まさか、サマエル様が!?」
プロケルの猫眼の瞳孔が、反射的に広がる。
「敵に捕まった。基地に罠が仕掛けられていたのだ」
「何と……!」

『我も参るぞ!』
シンハの声は咆哮(ほうこう)に近かった。
「ぼくも行きます、あ、でも、シュネを、早くお医者に診せないと」
「それがしに、お任せを」
元公爵は、リオンが抱いていた、意識のない少女を預かった。
「皆様、ご無事でサマエル様をお連れ帰り下され」
「無論だ! 皆の者、行くぞ!」

シンハを肩に、黔龍は朱龍と兵を引き連れ、結界の外へ打って出た。
さっそく大天使を見つけたタナトスは、吼えた。
“ミカエル! 貴様、くたばっておらなんだのか!”
「残念だったな、この通り、ピンピンしておるわ!」
天使の長は、憎らしい口調で答えた。

『くっ、我が夫を還せ!』
(おど)りかかってきたライオンを、大天使はひらりとかわし、天使の群れの中に紛れ込んだ。
「紅い蛇は頂いたぞ、戻ってからが楽しみだ! ふ、ははは、ふはははー!」
(あざ)けるような笑い声が、遠ざかっていく。

『待て、ミカエル!』
“逃げる気か、卑怯者!”
“父さんを帰せ!”
後を追おうとするシンハと二頭の龍は、天使達に包囲され、身動きが取れない。
“どけ! 邪魔するヤツは殺す!”
タナトスが突っ込んでいくも、結局、逃げられてしまった。

それでも、司令官を失った敵軍は総崩れとなり、五百人ほどが倒され、千二百人ほどが投降し捕虜となって、汎魔殿の牢獄へと収監された。

その夜遅く、ようやくすべてが片付いて、タナトスは要石の間に向かった。
「どうだ調子は」
その声に応えるように結界が輝き、漆黒のローブ姿の化身が現れた。
「……おう、タナトス。相済まぬ、つい、この風姿に馴染んでおるゆえ」
「なぜ謝る? お前はよくやっているぞ」

「何ゆえと申して……ニュクスか、ケテルで出迎えるべきであろう」
テネブレは眼を伏せた。
「また、そんなことを。お前も我が妃だと言っているだろうが」
言うなり彼は、テネブレの唇を奪った。
「駄目だ、結界に集中でき……」
もがく化身をタナトスは押し倒し、そのまま抱いた。

「……かようなときに。再び敵襲があったら、何とする」
ようやく解放されて、テネブレは恨めしげにローブを着直す。
「大丈夫だ、俺の力で結界を強化しておいたからな」
けろりとして、タナトスは起き上がった。
「分かっておる、ルキフェルの身を案ずるあまり、一時、何もかも忘れたくなったのであろう?」

タナトスは肩をすくめた。
「お前には隠し事が出来んな。その通りだ。まったく、あのたわけめが」
「……そのことなのだが。
ルキフェルは、おのれの意思で、天界に参ったのではなかろうか……」
思わず、魔界の王は眼をカッと見開いた。
「何!? なぜ、そんなことをせねばならん!?」
「想像するに、偵察、もしくは、内部での霍乱(かくらん)か……」

それを聞いた彼は、額に手を当て嘆息(たんそく)した。
「……やりかねんな。お前がセリンに、憑依(ひょうい)していたときもそうだったが」
「タナトス、あのときの我は……」
「昔のことだ、気に病む必要はない。
それより、済まなかったな、俺の我がままにつき合わせて」

テネブレは頬を染めた。
「いや……我でよくば、いくらでも」
ケテルの第二形態だったこの化身の顔は、元々、第一形態とは異なっていたが、最近は、さらにタナトス好みに変化しつつあった。 
それでも、ケテルに似たりしないのは、別人として愛されたいという思いがあるからだろう。
魔界王は、改めて妻に口づけ、その場を去った。

執務室に戻ると、シェミハザとゴモリーが待っていて、彼を見るやひざまずき、深々と礼をした。
「タナトス様、申し訳ございません、転移門には近づくことも出来ませんでした。
天界の結界は、今や、四重、五重にも張り巡らされている模様です」
「そうか。ケガはもういいのか、シェミハザ」
「は。任務を果たせず、面目次第もございません」
堕天使は、再び頭を下げた。

「二人共、生きて帰って来たこと、()めてやる。
サマエルの言った通り、全軍で突っ込んでいかずよかったわ。もういい、立て」
「本当なのですね、サマエル様が拉致されたというのは」
ゴモリーの声に、部屋の隅でリオンと肩を寄せ合い、シンハに体を預けていたシュネが、びくりと顔を上げた。

「……ああ。天帝の出方を待つしかない状態だ。
まあ、あいつのことは、さほど気にかけずともいいだろう」
タナトスは、幾分投げやりに肩をすくめた。

たまりかねたように、シュネが叫ぶ。
「そ、そんな! あなたはお兄さんなのに、心配じゃないの!?
僕、い、いえ、あたしのせいでお父さんはさらわれたのにっ!
今すぐ、助けに行きたいのに……!」
リオンは立ち上がり、タナトスに頭を下げた。
「ぼくが行きます、許可を下さい、タナトス伯父……いえ、魔界王様、お願いです!」

『落ち着くがよい、シュネ、リオン。
魔族を拉致し、種々条件をつけて駆け引きの材料にする、それが太古より、天界の姑息な()り口なのだ。
天界にとり、ルキフェルは最上の取引材料。それゆえ、自力で脱出できずとも、()
命を取られることはあるまい。今しばらく、様子を見ようぞ』
黄金色の獅子は、重々しく言った。

「その通りだ、軽率な行動は慎め。
何のために、ヤツが身代わりになったと思っている。
女が捕らえられたら、生き地獄も同然な目に遭うのだぞ」
「………」
年上の魔族達に(さと)されて、シュネは唇を噛み、うつむいた。

「それに“黯黒の眸”は言っていた、ヤツは、わざと捕まったのではないか、とな。
もし、そうなら、(なげ)く必要もあるまい」
「えっ、わざと?」
「何で?」
シュネとリオンは、ぽかんと口を開けた。
他の者達も、あっけにとられていた。

ライオンの瞳の炎が、ゆらりと揺れた。
『たしかに、敵の(ふところ)に潜り込めば、様々画策できる、とは申しておったが……』
「それみろ。
シェミハザ、ゴモリー、貴様らのことも、過剰なほど気を回していたのは、後々を考えてのことかも知れん」
「で、でも、本当に……?」
シュネは、すがるように魔界王の顔を見つめた。

「ああ、おそらくな。
皆は、散々俺を無鉄砲だの何だのと言うが、おのれを(かえり)みもせず突っ走るのは、実はヤツの方なのだぞ。
かつて、ジルがさらわれたとき……あの時もヤツは、単身で敵陣に突っ込んで行きおった。
生きて帰れん可能性が高いと知っていて、だ。
ジルだけは何とか帰すから頼む、とかほざきおって!
格好つけた台詞を吐き、あやつが転移したとき、俺は、腹が立って仕方がなかったぞ!」
『……むう』
シンハは言葉を失い、頭を振るばかりだった。

「シュネ様、お顔の色がすぐれませんわ、今一度、お休みになられては?」
ゴモリーが優しく、シュネに声をかける。
「え、でも……」
「病室に戻れ。連絡があったら、すぐ知らせてやる」
魔界王はそっけなく言い、扉に向かって手を振った。

「はい……」
仕方なく、シュネは立ち上がる。
「わたくしがお連れしましょう」
「ぼくも行くよ」
ゴモリーとリオンが付き添って、シュネは悄然(しょうぜん)と出ていった。

「それで……貴様が見たのは、たしかにミカエルだったのだな?」
タナトスは、居残ったシェミハザに尋ねた。
「はい、このわたしが、あやつを見誤ることなどありえませんし、ヤツと面識のあるゴモリー様も、間違いないと仰っていました」
うやうやしく、シェミハザは答えた。

「……ふん。俺もさっき、結界の外にいたヤツをこの眼で見た。
同一人物が、同時刻に別の場所にいたとなると……」
あれらのミカエルは、我ら同様、複製……ホムンクルスではないかと愚考(ぐこう)致しますが」
「やはりな。俺もシンハと、そうではないかと話していたのだ」

堕天使はうなずいた。
「左様でございますか。
大天使は、天使の中でも特権階級に属し、婚姻の自由その他、神々に近い権利を有しております。
その複製を作るとは……天帝もいよいよ追いつめられ、なりふり構わぬようになって来ていると思われますが」

「ふん、いい気味だな。
それが真実ならば、サマエルが天界にいるのは好都合だ。
魔界屈指の参謀と(うた)われたヤツが、直接天帝の動向を探る……我らにはかなり有利になるだろう。
あやつは、そう考えて、自分から飛び込んで行ったのだろうさ。
どうやって連絡を取る気なのか知らんが……こうなったからには、やはり、天界の出方を待つしかあるまい」

『その……天界の出方なのだが、サタナエルよ。少々気になる』
シンハが、顔をしかめて口を挟んだ。
「何がだ、シンハ」
『考えてもみよ。今までもあやつらは、幾度となく攻めて参ったが、いずれも結界に(はば)まれ、そのすべてが失敗に終わっておる。
攻略できぬと知りながら、何ゆえ今、仕掛ける必要があるのだ』

「我らの動揺を誘うための、陽動作戦だったのだろう」
『……それだけであろうか?
特に気にかかるのは、あのミカエルともあろう者が、兵を置いて逃亡致したことよ』
「……ふむ。あいつが敵に後ろを見せるとは、たしかに妙だな。しかも部下を置き捨てて、か」

『投降した天使は、千二百人。そのすべてを味方に付ければ、我らに有利になるのは目に見えておる。
裏に何かあると見て、(しか)るべきであろう?
……汝はいかに考える、シェミハザ』

話を振られた堕天使は、少し考えた。
「……左様ですね……一つ考えられるのは、今回出撃して来た天使達に、何か、仕掛けを施している可能性ですが……まさか……」
「くそ、天帝め、今度はまた、何を企んで……」
タナトスが言いかけたとき、ドアが乱暴に開けられた。

「一大事でございます! 天使どもが、反乱を起こしましたぞ!」
勢いよく入室して来たのは、元氷剣公プロケルだった。
瞳の虹彩が、興奮のあまり円盤状に広がっている。
「何! もう始まったか!」
タナトスは勢い込んだ。

「ご、ご存じだったのですかな!?」
「たった今、その可能性ありと話していたところだ! それでどうした!」
「は。反乱は、すでに鎮圧済みにて、魔族には被害はございませぬ。
ただ、地下迷宮の入り口付近で、アザゼルが、ホムンクルスに殺されまして。
蘇生のご許可を頂けましょうや」

「ええっ、アザゼルがやられた!?」
シェミハザは蒼白になった。
「許可する、シンハ、行って来い!」
『心得た!
──ムーヴ!』
シンハは移動呪文を唱え、地下迷宮へと向かった。