5.天界の罠(1)
慌しく、最終準備が開始された。
神族は、前回の敗戦を受け、作戦の練直しを図っていると思われた。
その間に魔族は、天界と魔界どちらからもほぼ等距離にある小惑星の一つ
を選び、安全を確認した上で、前線基地を作った。
そして、ついに、出撃の日がやって来た。
広大な汎魔殿の前庭に、出陣のため勢揃いした軍団に、魔界王タナトスは
「同胞達よ、時は来た! いよいよこれが、我らの命運を賭けた最後の戦いとなる!
恐れるな、勝利は必ずや我らが手に!
──
「おう!」
留守部隊を残し、魔族の兵士達は整然と行進して、前庭に描かれた巨大な魔法陣に入って行った。
前線基地から、まずは偵察隊を出すことになっていたのだが、せっかちなタナトスは吼えた。
「ええい、偵察など、まだるっこしい! このまま天界に攻め込むぞ!
天界のちゃちな結界を破るなど、龍が四頭もいれば朝飯前だ!」
「落ち着け、魔族の将来がかかっているのだぞ、慎重に事を運ばなければ。
神族が……ましてや天帝が、このまま手をこまねいているとは到底思えない。
先の戦いも、当然、次の手は考えていたはず……それを使う前に自滅したのさ。
まずは、冷静に敵の動きを見ようではないか。
嫌でも全面対決するときが来る、そのとき思う存分暴れればいい」
サマエルは、辛抱強く兄を説得した。
「ふん……ならば、今は大人しくしてやるか」
タナトスはふくれっ面のまま、渋々同意した。
「そんなことより、あそこで皆、お前の訓示を待っているぞ。
早く事を進めたいのなら、まずは彼らを送り出すことだな」
「ち、言われんでも分かっておるわ!」
怒りのままにタナトスは、弟を振り切る勢いで歩を進めた。
偵察隊の構成は、堕天使と魔族半々の総勢二十人だった。
堕天使達の中に間者がいる可能性を考慮し、魔族も加えたのだ。
隊長にはシェミハザ、副隊長には吟詠公爵ゴモリーが任命されていた。
すでに並んで王を待っていた隊員達は、さっと膝をついた。
「分かっているだろうが、貴様らの役目はあくまでも偵察だ。
速やかに行動し、敵に見つかっても交戦は避けろ。
天界の結界及び、転移門の防衛力等を探って来るだけでいいからな」
タナトスは、そっけなく言った。
シェミハザは、胸に手を当て、うやうやしく礼をした。
「心得ております、タナトス様」
「頼んだよ、シェミハザ、ゴモリー」
「はい、お任せ下さい、サマエル様。それでは行って参ります」
彼らは立ち上がり、一斉に黒い翼を広げ、暗い空へと舞い上がっていった。
それを眼で追い、タナトスはつぶやいた。
「後は待つだけか。首尾よくいけばいいがな」
「大丈夫さ、吉報を待とう。 かく言う私も、出来ることなら自分の眼で確かめたいくらいなのだけれどね。
じきに、思う存分戦えるさ」
「ふん、どうだかな」
タナトスは、口を尖らす。
「そんな、子供みたいに。
……おや、どうしたのだね、シンハ」
サマエルは、深刻な顔で近づいて来たライオンに声をかけた。
『シュネの姿が見えぬ。リオンも捜しに参ったが、またどこぞで、泣いてでもおるのではなかろうか』
「そうか。ここ全体に結界は張ってあるが、単独行動は危ないね、手分けして捜そう」
タナトスは鼻を鳴らす。
「ふん、子守りも面倒なものだな」
「彼女はもう、子供ではないよ。タナトス、お前も見かけたら教えてくれ」
そう言い残し、サマエルはシンハとその場を去る。
だが、一周するのに徒歩では数日かかる小惑星で、見つけられたがっていない相手を発見するのは意外と骨が折れた。
強力な結界の中では透視も使えず、念話も難しく、さらには、岩石が発する火薬のような臭いが充満しており、シンハの鼻も利かなかったのだ。
それでも、懸命の捜索の結果、ようやく半時ほど経って、サマエルは彼女を見つけ出した。
大きな岩の陰で膝を抱え、シュネは涙にくれていた。
彼としては、子孫が立ち直るまで、魔界で静かに過ごさせてやりたかったのだが、情勢がそれを許さなかった。
(可哀想に……私には分かる、“焔の眸”に
いくら思いを振り払っても、忘れようと努めても、あの輝きを見てしまったが最後、彼を求めてしまうのだ……何としても手に入れたいと。
だが、もし、私がいなかったら……)
何と声をかけたものか迷い、とりあえず皆に発見を知らせるため、彼は一旦戻ろうとした。
だが。
事態は、わずかな猶予も与えてはくれなかった。
突如、地面を割って現れた、うねうねとうごめく白い触手が、シュネの手や足に絡みついたのだ。
「な、何これ!? 嫌、放して!」
「危ない、シュネ!」
サマエルは触手を引き千切り、彼女を救ったが、今度は、自分が捕まってしまった。
「お、お父さん!?」
「私に構うな、逃げろ……う、何だ……?」
サマエルはもがくが、体がしびれ、自由が利かなかった。
その間にも、触手は体に巻きつき、彼は、白い
「くくく、予想外の大物がかかったぞ……!」
どこからかそんなつぶやきが聞こえ、その声に聞き覚えがあるように、彼には思えた。
「シュ、ネ……しん、ぱ……いらな……わ、わた、しは……」
サマエルの舌も、体同様しびれ、もうまともに口も利けない。
さらには強い眠気にも襲われて、彼女に伝えたいことがあったのだが、念話さえも使えなくなっていた。
(く、これは天界の、獲物を眠らせて捕らえる罠か……ああ、シュネ……)
まだ少し動けたシュネは、呼び声を最大にして、放った。
“誰か、誰か来て! 敵だよ! 天界の間者が!
助けて! お父さんが危ない! 早く!
──あっ!?”
しかし、天界の罠は、魔界の王子を捕らえたまま、不思議な白い輝きを残して、煙のように消え失せてしまった。
入れ違いに、彼女の声を聞きつけて、シンハとタナトス、リオンが駆けつけて来た。
『いかが致した、シュネ、サマエルはいずこに』
「ごめん、シンハ、ごめんなさい……! 父さんは、僕の代わりに敵に捕まったの……!
僕がいけないんだ、一人でふらふらしてたから……わあぁ!」
シュネは泣き伏した。
「お、お父さんが捕まった!? あ、でも、キミのせいじゃないよ、ケガはない?」
リオンが助け起こそうとしても、彼女は動けなかった。
「大、丈夫、しびれ、てる、だけ……。
そ、そこの穴から、急に、植物のツル、みたい、なのが、出て来て……。
お父さんが、助けてくれた、けど、お父さんは、ツルに、ぐるぐる、巻きにされて、一緒に、消えた、の……」
「植物のツルが敵? でも、どうやって入ったんだろう。
結界が張ってあったし、見張りだっていっぱいいたのに……いや、そんなことより!」
『参るぞ、リオン!』
「うん!」
駆け出そうとする一人と一頭の前に、魔界王が立ちはだかる。
「待て、二人共」
『止めるな、サタナエル!』
たてがみを燃え上がらせ、ライオンは彼を睨む。
「邪魔だよ、どいて!」
リオンも同様だった。
しかし、タナトスは、珍しく冷静だった。
彼は足元を指差した。
「見ろ、これは魔法陣だ。天界に直接転移出来るものだろう。
悔しいが、もう、敵もサマエルも近くにはいまい。
結界を開けた途端、ヤツらは襲いかかって来るぞ。それか、待ち伏せされるか、だ」
『なれど、サタナエル!』
二対の紅い眼が、かちりと絡む。
「これは魔界王としての命令だ! 追うな、“焔の眸”、そして、ヴァーミリオン!」
『くうっ!』
「……どうして!」
正式に魔界の君主に命じられたシンハは、悔しげに爪を地面に突き立て、リオンは拳を握り締めた。
「落ち着け、貴様ら。何があろうとサマエルなら……」
言いかけたとき、タナトスの心に接触してくる何者かの精神があった。
「……む、待て、プロケルからだ」
“何だと……よく聞こえん、もう一度……何っ!?”
距離もあり、お互いに結界の中にいる場合、念話を使ったりはしないのだが、元魔界公爵の声はかなり
“……ですから、魔界が攻撃を受けており……エルピダを介し、サマエル様にお知らせ致そうとしたのですが、連絡がつかぬと申しまして……”
“その説明は後だ。
ともかく、“黯黒の眸”がいれば、結界は安泰だろう、何をうろたえることがあるのだ”
タナトスは肩をすくめたが、次の瞬間、顔色を変えた。
“何だと!? もう一度言ってみろ!”
“……は。実は、その……敵の部隊を指揮しておるのは、あの、ミカエルめでございまして……”
「な、ミカエルが……生きているだと!? 亡霊ではないのか!」
タナトスは思わず大声を上げる。
「えっ、あの天使、死んだんじゃ!?」
ぐったりとなったシュネを介抱していたリオンは、驚いて顔を上げた。
『何と……生きて……ミカエルめがか!?
まさか、あり得ぬ。あやつは我が目前にて、紅龍に跡形もなく……』
シンハの瞳の炎もまた、激しく揺らぐ。
「くそ、目くらましか替玉か、他のろくでもない手段を使ったのか知らんが、また騙しおったな!」
タナトスは掌に拳をたたきつけ、それからプロケルに答えた。
“分かった、すぐ戻る、それまで耐えておれ”
“は、お待ち申し上げております”
『おのれ天帝め、重ね重ねの屈辱、決して忘れぬぞ!』
体を弓なりにし、背中の毛を逆立ていたライオンは、頭をぶるぶると振り、どうにか冷静さを取り戻した。
『いや、怒りに身を任せるはヤツらの思う壺。
まずは皆に触れを出せ、サタナエル。他の間者がまだおるやも知れぬ、念のためだ』
魔界王はうなずいた。
「そうだな、偵察隊も呼び戻すか。今、戦力を分断するのはまずい。
──伝令! 天界の間者がもぐり込んで来た、一匹はすでに逃げたが、ヤツらは地中に潜んでいる、警戒を怠るな!
偵察隊が帰還次第、一旦魔界へ退く!
──以上だ!」
使い魔達が散るのも待たず、魔界王は堕天使に念を送った。
“シェミハザ、聞こえるか、戻って来い、いますぐにだ!”
だが、返って来たのは、途切れ途切れのゴモリーの声だった。
“タナ、トス、様……シェミ、ハザは、傷を、受け……でも、命には、別状、あり、ません……。
それ、より、大変……です!
ミ、カ、エルが……あの、ミカ、エルが、生きて……!”
彼は、くわっと眼を見開いた。
“いいから、とっとと戻って来い、命令だ!”
“
「くそう、
交信を打ち切り、タナトスは地団太を踏んだ。
『まさか……』
「ああ。向こうにもミカエルが出たそうだ」
「死んだはずなのに、ミカエルが二人!? ど、どうなってるの!?」
リオンも眼を丸くした。
『……むう』
ライオンは眉間にしわを寄せ、炎のたてがみを揺すった。
シェミハザ達の帰還を待つ間、天界の間者が出て来た穴を調べてみると、棺桶にも似た気密容器が据え付けられていた。
天界は、かなり以前から、間者を地中で眠らせておいたようだった。
周辺の小惑星にはすべて、同様の罠が張ってあると思われ、魔界の王族達は歯噛みした。
偵察隊は、天界の追撃を振り切り、何とか全員生還した。
報告も後回しにして、タナトスは即刻退却を命じた。