4.戦士の休息(3)
しばらく泣くと気が晴れて、シュネは城の中に戻った。
「あ、戻ったね、ちょっと、いいかい?」
厨房の前を通りかかると、リオンが手招いた。
「な、なあに?」
彼女は改めて、涙の痕を消すように目蓋をこすった。
「あのさ……タィフィンが心配しててね。
キミ、何かあったの? もしよかったら、聞かせてくれないかな。
ほら、誰かに話すだけでも、気が軽くなるってよく言うじゃないか。
あ、嫌なら、別にいいんだけどさ……」
「たった今、ダイアデムと話して来たところなんだけど……でも、リオン兄さんが聞いてくれるなら、話してもいいかな」
「じゃ、こっちで座ろう」
食事を摂ったテーブルに、二人は再び腰掛けた。
シュネはしばし、落ち着かない様子でもじもじしていたが、大きく息を吸い込むと、話し始めた。
「えっと……あたしね、ちょっと、っていうか、かなり困ってたの。
実は、こっちに来た日……あの朝にね、いきなり、結婚してくれって言われて……」
彼女が話し始めると、リオンは眼を丸くした、
「結婚!? だ、誰に!」
「……ネスター先生よ」
「ええっ!? ぎ、義理のお父さんに結婚申し込まれたのかいっ!?」
リオンは飛び上がり、これ以上出来ないというほど、眼を大きく見開いた。
「……うん。あたしも、もう三十歳だし、人間としては、結婚しても不思議じゃない年ではあるのよね。
ただ、あたし、外見が十八くらいだし、多分、魔族としての年齢もそれくらいで、結婚なんて、まだ全然考えられなくて……。
それに、あたし、他に好きな人がいるの。言っちゃおうか、ダイアデムよ。
サマエル父さんの弟子になりたくて、お屋敷に押しかけて……一目彼を見たときから
彼女は眼を伏せた。
椅子に座り直し、リオンはにっこりした。
「ああ、やっぱりね。キミ、彼ばっか見てるし、そうじゃないかって思ってたよ」
「えっ、兄さんにも分かっちゃってた? じゃあ、お父さん達にもバレてるね……はは」
シュネは、紅くなった頬を両手ではさみ、無理に笑ってみせた。
「……それで、ネスターは、どこまで知ってるの?
キミに好きな人がいることや、キミが……魔族だ、ってことなんかは?」
「一応ね……。
でも、さすがに、龍に変身するなんてことは言えなかったから、あたしは魔族の血を引いてて、好きな人も魔族だ、って程度だけど。
そしたら先生は、先祖に魔物がいたって、そんなのずっと前のことだし、今はもう、関係ないだろって。
それはいいんだけど、若い頃に恋の一つや二つあるのは普通だし、そんなのすぐ忘れるんだから、いくら魔物の血を引いて魔力が強いからって、魔族になって魔界に行くよりも、人間として人界で暮らす方がいいに決まってる、みたいに言ってきて……」
リオンは肩をすくめた。
「何も知らないから、そう言うんじゃない?
魔族を化け物扱いして、やたら怖がったり、魔界は地獄みたいなとこだって思ってたり……まあ、あながち外れてもないけど……そういう人間って、少なくないもんね」
シュネはうなずいた。
「……先生は、元から魔族が好きじゃないの、使い魔の扱い見てると分かるけど。
可哀想になって、一人、こっそり逃がしてあげたことがあるくらいよ」
いたずらっ子のように、彼女はぺろりと舌を出した。
「え、そんなことして、バレなかったの?」
「大丈夫、勝手に逃げたって怒ってたもの。
先生は、あたしが何を感じて、どう考えるのかってことに興味がないのよ。
だから、いつもあたしの意思は確認もしないで、自分の考えを押しつけて来るんでしょ。
そのときも、堂々巡りっていうか、いくら話しても……。
……それで、最後にはもう、いたたまれなくなっちゃって。
もうすぐ、魔界と天界の存亡を賭けた戦いが始まるから、行かなきゃなりません、って、飛び出して来ちゃったのよ……。
これじゃ、前とおんなじね……進歩してないわ、あたし」
彼女はため息をついた。
「そうだったのかぁ……でも、仕方ないよ、びっくりしたんだろ?
昨日まで、お父さんだとしか思ってなかった人に、いきなり結婚してくれなんて言われたら、誰だって、頭が混乱しちゃうさ」
リオンが慰めると、シュネは唇を噛んだ。
「それだけじゃないの……。
あたし、大人の……男の人が恐くって……どうしても駄目で……。
本当のお父さんのこととか、色々あったからだと思うんだけど……」
「本当のお父さん? 僕と同じで、ご両親は亡くなったって聞いてたけど、何かあったの?」
リオンは首をかしげた。
「サマエル様から聞いてないの?
話すとすごく長くなっちゃうし、それに……思い出すのは、まだちょっと辛いんだ……そうだ、あたしの記憶を見てもらえば!」
シュネはリオンの手を取り、自分の額に当てた。
ややあって、リオンは我に返って言った。
「……大変だったんだね……。
でも、あれは事故だよ、キミのせいじゃないよ。
だって、お父さんは、駄目だって言われてたのに封印解いたんだし。
こんな風に言っちゃあいけないかもだけど、その……自業自得、なんじゃないのかな?」
「……うん。サマエル父さんも、ダイアデムも、そう言ってくれたよ。
でも……あのとき、お父さん達と死んでた方がよかったんじゃないかって思うときもあって……」
シュネは震え、自分の肩を抱いた。緑の瞳に涙が
それを見つめるリオンの栗色の眼も、じわじわとうるんでいった。
「シュネ、キミは強いよ、すごく」
「強くなんかないわ。今まですっごく苦しかった。
でも、今日、ダイアデムと兄さんに聞いてもらって、少し心が軽くなったわ。ありがとう」
シュネの顔に、ほんの少し笑みが戻る。
「だって、キミはもう、ぼくの妹なんだし、ほっとけないよ」
「兄さんがいてくれてよかった。
……でも、ちょっぴりうらやましいな……戦争が終わったら、帰るところがあるんだもの」
すると、今度はリオンが、栗色の瞳を翳らせた。
「別れて来たよ、ライラとは……」
「ええっ、ど、どうして!」
シュネは口に手を当てた。
「だって、もし、ぼくらの関係が神族に知れて、彼女が人質にされたりしたら……?
ぼくは、きっと、自分を許せないよ。
でも、ライラは女王だし、魔界へ避難させるわけにもいかない。
戦いがどれくらい続くか分からないし、女王が、ずっと自分の国を留守にしてちゃ、駄目だろ」
「でも、戦争に勝ったら、戻ってもいいんじゃないの? そのときにはもう、神族はいないんだし」
リオンは悲しげに、否定の身振りをした。
「いや……たとえ勝っても、ぼくは、彼女とは一緒にいられないよ。
まして、結婚なんて、とんでもない。
王様が魔物に殺されたあの国で、女王の結婚相手が魔族だなんて、誰も許さないさ」
「で、でも、魔族が全部悪いわけじゃないし、兄さんのこと知ったら、皆もきっと……」
「それに、年の取り方も違い過ぎる。ぼくはもう百六十歳……でも、外見はキミと同じくらいだ。
彼女がお婆さんになっても、ぼくは若いまま……ああ、もちろん、ぼくはそんなこと、気にしないけど。
でも、彼女はすごく悩んでた……ぼくに悟られないようにはしてたけどね」
「け、けど、別れちゃうなんて……女王様は納得したの?」
「いや、彼女は嫌だって言ったよ、ぼくが帰って来るのを、いつまでも待ってるって。
だから……消したんだ、彼女の記憶を。ぼくに関するすべてを、ね……。
彼女を、魔物から救ったのも、賢者サマエルだってことにして……。
ああ、お父さんには、こっちに来てから許しをもらったよ。
怒られるかと思ったけど、悲しそうだった。本当にそれでいいのかって……いくら子孫でも、そんなところまで似なくていいのにって、言われたよ。
お父さんにも、同じような経験があったんだね」
「き、記憶を、け、消しちゃったの!?」
かつて記憶を失っていた彼女は、ショックを受けた。
「……正確には、書き換えた、だね。
これでもう、彼女は、ぼくの呪縛から解放された……いつか、人間の中から、ふさわしい伴侶を見つけるんだろう。
心から幸せになって欲しいよ、彼女には」
「……」
シュネの動揺に気づいた様子もなく、リオンは独り言のように続ける。
「ぼくは一生、結婚なんてしない。
お父さん達は、ぼくを次の魔界王にって考えてたみたいだけど、タナトス伯父さんが、奥さんをもらったんだから、もうそれはないね。
いや、たとえ王様になったとしても、お妃はもらわない。
ぼくはずっと、彼女の面影を追って生きてくよ……」
リオンは遠くを見た。そういう表情をすると、サマエルにとてもよく似ていた。
やっていることはネスターと同じ、相手の意思を無視した押しつけではないかとシュネは思ったが、そう告げることはためらわれた。
心優しいリオンのことだ、分かった上での行動なのだろう。
愛する人の意向を無視しても、相手のためにしなければならない辛さ、それを今、彼は噛み締め、耐えている……。
(ネスター先生もそうなのかな。やっぱり僕、先生のお嫁さんにならなきゃいけないの……?)
シュネの心は、さらに揺らいだ。
「神族と同じことしてるね……ぼく」
そのときリオンが、ぽつりと言った。
「えっ、そ、そんなことないよ、だって神族は、相手のこと考えてないどころか、命まで奪ってるじゃない。
だけど、兄さんは一生懸命、ファイディー国のことまで考えて……」
「そう、かな……」
「ネスター先生だって、僕のためを思って魔力を封じようとした……だから、やっぱり……」
「いや、今回の思惑は、違うんじゃないか?
拾った女の子が、意外にも美人に育ったから妻にしたくなった……としたら、勝手もいいところだよ。
恩返ししなきゃ、っていう優しい心につけ込んでるようにしか、思えないな」
きっぱりと彼は言い、シュネを指差す。
「大体ね、好きでもない相手と嫌々結婚して、キミは幸せになれるの?」
「う、それは……で、でも……」
言葉に詰る彼女を、リオンは真正面から見据えた。
「いい加減、自分に正直になりなよ、シュネ。
ダイアデムのこととか抜きにしたって、ネスターと結婚なんか、したくないんだろ?」
ずばりと言われて、思わず、シュネはうなずいていた。
「うん、したく、ない……あ」
「そら、本音が出た」
「ホントね」
ほっとした彼女は、笑顔になっていた。
「あたし、ネスター先生を尊敬はしてるけど、好きにはなれそうもないわ。
結婚したら、きっと後悔するだろうなって思っちゃう、悪いけど。
教師と生徒の関係の延長って感じで、うんざりしそう」
「じゃあ、断ればいい。
相手を傷つけたくないからって、自分の気持ちを偽ることはないよ。
面と向かって言いにくいんなら、手紙を書くんだね。
そして、人界に戻らなきゃいい……どうせ、ぼくらは人間じゃない、あそこにいる必要はないんだ。
……人間なんて、たったの百年で死ぬんだからさ。好きになったりしたら、かえって辛いよ」
その言葉は、彼自身に向けられているようだった。
「兄さん……」
「そんな顔しないで。
ぼくらは必ず神族に勝って、故郷に
フェレス族として、ウィリディスに住むのさ。きっと、いいところだよ……」
リオンの笑顔には、隠し切れない影があった。