~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

4.戦士の休息(2)

不意に、鍋をかき混ぜる手を止めて、タィフィンが言った。
「お館様は、後で食事をなさるそうです。今は、奥方様と二人きりでいたいので、と」
リオンはうなずいた。
「水入らずでいられるのも、今だけだもんね。
なら、食堂に持ってくのも面倒だし、ここで食べようか」
「そうね」
野菜を刻むシュネの答えはそっけなく、リオンはちらりと彼女を見たが、何も言わずに食器を取り出し、テーブルに並べた。

こうして料理は出来上がったが、食欲旺盛なリオンとは対照的に、シュネはどこか上の空で、あまり食べなかった。
食器の音だけが聞こえる静かな食事が終わると、シュネは散歩に行くと言い、一人、厨房を出ていった。

リオンはそれを見送り、使い魔に声をかけた。
「手伝おうか?」
「いえ、魔法ですぐ終わりますので。
それより、リオン様、ご相談したいことがあるのですが、少しお時間を頂けませんでしょうか」
「うん、いいよ」
タィフィンは、一瞬で片づけを終え、彼に向き直った。
「シュネ様のことなのですが。一体、どうなさったんでしょう。
お好きなアップルパイも、ほとんど召し上がらないなんて……心配です」

リオンは首をかしげた。
「うーん……ぼくも、ちょっと変だなって思ってはいたんだけど。
ひょっとして、ダイアデムと関係あるんじゃないか? 
彼女、魔界に来たときから、ずっと彼ばかり見てるし……さっきも。
昔、一緒に住んでたとき、何かあったの? あの二人」

タィフィンは、否定の身振りをした。
「いいえ、何も。
それどころか、お館様と、“焔の眸”様の間を取り持って下さったのは、シュネ様なのです」
リオンは、分かったようにうなずいた。
「そっか。彼女の片思いなんだね」

タィフィンは眼を見開いた。
「リオン様……どうして、お分かりになるのですか?」
「ぼくにも覚えがあるからさ。
“焔の眸”の輝きって、何ていうか……吸い込まれちゃいそうな感じ……って言うのかな?
とにかく、すごいの一言なんだもの。
それで、彼女の気持ち、父さん達は知ってるの?」

「はい……」
「そうか……二人も、困ってるんだろうな。
ぼくの時みたいに、他の相手がいるわけじゃないし。
多分、サマエルの血を引いてるせいで、“焔の眸”に()かれちゃうんだろうけど」
「その点は、シュネ様もご理解なさっているようです、でも……」

「簡単には吹っ切れない、か……。
それなら、やっぱり、父さん達に相談した方がいいんじゃない?
後で、ぼくも、シュネと話をしてみるけどね」
「はい、そうしてみます。ありがとうございました、リオン様」

「ああ、ダイアデム、ダイアデム……!」
「よせ、サマエル! しがみつくな、動けねー、苦しいってば!
あ、こら、……たくもー、ンないきなりはムリだって!」
「でも、でも、もう、我慢が……!」
「わあってるって、がっつくな、オレは逃げやしねーってばよ。
……ほら、ゆ~っくりとだ、少しずつ……そうそう、イイか?」

「ああ…ああ…とてもイイよ、ダイアデム……。何て素敵なんだ……」
「あ~腹ぺこに、いきなし、んなに詰め込んじまったら、体に毒だぜ……って、聞いてねーし」
サマエルは、失った魔力の大部分を“焔の眸”から補充してもらい、満足げな笑みを浮かべて眠りに落ちていた。

「ま、仕方ねーか。紅龍が一番消耗するんだから。
疲れもするよな、ちっとでも気ぃ抜けば、カオスに自我を食われちまうし。
……よし、これでいい。お休み、いい夢見ろよ」
ダイアデムは、夫を魔法でベッドに横たえ、キスする。
当分起きないだろうと思った彼は、外で気分転換でもしようと部屋を出た。

広い回廊をぶらぶら歩いていると、使い魔が現れ、話しかけて来た。
「奥方様、お休みのところ申し訳ございません、お話があるのですか」
「ん? どしたんだ、タィフィン」
「実は……」

可愛らしく首をかしげて、話に聞き入っていた宝石の化身は、やがて言った。
「そっか、分かった。とにかく彼女と話をしてみるよ」
「はい、お願い致します」
彼は手を振り、シュネを捜しに出かけた。

彼女は、中庭の花壇の隅に、ぽつんと座り込んでいた。
芝生の上で花や葉をもてあそび、時々千切っていたが、眼の焦点は合っていない。
「おい、シュネ、何してんだ?」
声をかけると、シュネは、びくっと我に返った。
「な、何、誰!? あ……ダイアデム!?」

「お前、いっつも、オレが出てくと驚くよな」
「だ、だって、キミ、い、いきなり出て来るんだもん……あれ、サマエル様は?」
「寝てるよ。疲れ切ってたから、たっぷり魔力をくれてやったんだ。
腹一杯になったら眠くなるだろ、ぐっすりさ」
「……そう」

「それよか、タィフィンが心配してたぞ。
好物のアップルパイも残すなんて、何かあったのかって。腹でも痛いのか?」
彼女は慌てて首を横に振った。
「う、ううん、お、お腹は何ともないよ。
僕……じゃなかった、あ、あたしだって女だし、ふ、太ったらヤダなって」
「無理に頑張んなくていいぜ、女言葉なんて、めんどいだろ」
「そうね。キミといると、あの頃思い出して、つい『僕』って言っちゃうし」
シュネは無理に笑ってみせる。

「なあ、シュネ。オレやサマエルと一緒にいると、辛いんじゃねーのか、色んな意味で。
だから、食欲もなくなったりして……」
真剣な少年の顔から、彼女は眼を逸らした。
「……違うんだ。僕ね、今、悩んでることがあるんだよ……。
でも、誰にも相談出来なくて。サマエル様は忙しそうだし、キミにはちょっと……」

ダイアデムは口を尖らせる。
「へん、オレじゃ頼りないってか?」
「違うってば」
またも首を振るシュネに、彼は膨れっ面をして見せた。
「んじゃあ、言ってみろよ、何、悩んでんだか。相談に乗ってやっから」

すると、悲しげな顔で、シュネは話し始めた。
「じゃあ、言うけど……あのね、僕、ここに来る直前に、その……。
あの……結婚、を……申し込まれたんだけど……」
ダイアデムは、眼を丸くした。
「け、結婚!? 誰にだ、相手は誰だよ!」

「……えっと、ネ、ネスター先生」
「ネスター!?
……って、お前の親父だろ、まあ、血はつながってねーけど、二十も年上のジジイじゃんか!」
「……先生が拾ってくれなきゃ、僕は野たれ死んでたよ。
そしたら、碧龍はいなくて、予言の通りなら、魔族はどうやっても神族に勝てないことになって……つまり、先生は、魔族の恩人でもあるってこと、なんだよ、ね……」

「いくら、恩人だからって、好きでもねー年寄りと結婚しちまってもいいのかよ!
あ……」
勢いに任せて言ってしまってから、ダイアデムは唇を噛んだ。
彼女が好きなのは、この自分……しかし、彼はサマエル以外の誰も、愛する気はなれなかった。

「……そうだったのか、だから、オレには話したくないって……。
けど、ヤケを起こしちゃダメだぜ、落ち着いてよく考えてみてくれよ」
「ちゃんと考えてるよ。
でも……先生に感謝の気持ちを表わすとしたら、やっぱり答えは一つだよ、ね……?」
「感謝のために結婚する気か!? そんなのってありかよ!
それに、お前もネスターも、人界じゃ貴族でもねーし、身分にゃ縛られてねーはずだろ!?」

思わずダイアデムの声は上ずる。
厳格な身分制度の中、代々の魔界王の伴侶と決められ、愛する者と結ばれることなど望むべくもなかった彼には、何の制約もないのに、好きでもない相手との結婚を考える彼女の気持ちが、理解出来なかった。

しかし、シュネは、暗い表情で膝を抱え、つぶやくように言った。
「ごめん。独りで考えたいんだ。キミの眼、見てると、何も考えられなくなるから……」
「……分かった。こっちこそごめんな……」
宝石の化身は、謝ることしか出来なかった。
シュネは、首を左右に振った。
「ううん。でも、サマエル様には言わないで。キミも忘れて。もうこの話は」
「ああ、言わねーよ」

後ろ髪を引かれる思いで、ダイアデムは、その場を後にした。
独りになったシュネは、胸にぽっかりと穴が開いたような思いが募り、芝生に身を投げると、声を上げて泣き出した。

一方、ダイアデムも、気分はかなり沈んでいた。
待ちかねていた使い魔に、彼は暗い口調で言った。
「……悪い、タィフィン。オレ、どうしてやることもできねーよ……。
彼女、養父に求婚されたんだってさ。恩人だからって、断り切れずにいるらしい……」
「左様でございましたか。それで、悩んでいらしたのですね」

「ああ。止めてーけど、オレにゃ何の権利もねーし……。
それに、サマエル以外の誰のモンにもならねーって決めたんだ、オレ」
「分かっております、奥方様。
お館様と仲良くお暮らし下さることが、わたくしにとっても喜びですから」
主人の不幸と長い孤独、その末にようやくつかんだ現在の幸福をよく知っているタィフィンは、そう答えるしかなかった。

物悲しい気分で部屋に戻ると、サマエルはすでに目覚めていた。
「浮かない顔だね、シュネのことかい? ダイアデム」
「さすがだな、どうして分かった?」
入浴を済ませたばかりらしく、夫の頬は上気し、均整の取れた体から、湯気が立ち上っている。
素肌に絹のローブを羽織っただけで、両腕を広げてソファに寄りかかっている姿は、かなり(なまめ)かしかった。

「再会してから、彼女はずっと、お前のことばかり見ていたよ」
「そっか? 慣れてっから、気にしてなかったけど」
「人界で、新しい恋の一つでもと思っていたのに、お前のことをまだ想っているなんてね……。
可哀想だが、どうしてあげることも出来ない。
それとも、お前が、彼女に想いを遂げさせてやってもいいと、考えているなら別だが……」
サマエルは眼を伏せた。

「想いを遂げさせてやるって、どういう……あ」
言いかけて気づいたダイアデムは、手を振り回した。
「嫌だ。オレ、お前以外相手にすんの、勘弁だ。女は試したことねーけど……やっぱ、いい」
「そうか。お前も色々あったからね。私としては、うれしいけれど。
ふう、暑い……長湯し過ぎたかな……」
サマエルは、胸元を大きくはだけ、風を入れながら足を組み替えた。
その動きに連れてローブの裾がめくれ、桜色にほてった太股が露になる。

「……お前、そのカッコ、危な過ぎ。
ンな悩ましーの見たら、食っちまいたくなるじゃんかよ」
すると、サマエルは笑みを浮かべて立ち上がり、ローブが体から滑り落ちるに任せた。
引き締まった裸身、そのすべてがダイアデムの前にさらされる。
濡れて全身にからまる銀の髪が、何とも言えず(みだら)らだった。

「お前ってば、並の女より色っぺーぜ……マジで、味見してみたくなって来た……」
サマエルの微笑みが深くなる。
かき上げた瞬間乾いた髪が、彼の裸身を、輝くオーラのように縁取る。
ダイアデムの喉がごくりと鳴り、その熱い視線を浴びるのを快く思いながら、恥じらうと言うよりは、誘うように淫魔の王子は体をくねらせた。

「いいよ、お前になら、食べられても」
「へへっ、たまにはいっか、こんなのも」
ダイアデムはふわりと浮き上がり、サマエルの首に腕を回した。
湯上がりの夫の体は温かく、いい香りがした。