~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

4.戦士の休息(1)

意気揚々と凱旋(がいせん)した彼らは、留守を守っていた者達の熱狂的な歓迎を受け、その高揚感のままに、タナトスはすぐにも軍議を開こうとした。
だが、サマエルだけでなく、シンハと出迎えたニュクスも、それに異議を唱えた。
亜空間での一日は、外の世界では一週間にも当たり、タナトス自身も含め、龍に変化した四人の消耗は特に激しかったのだ。

「疲労困憊(こんぱい)していたのでは、いい考えも浮かばないよ。
今のうちに休息を取ろう、長期戦になるのは必至だからね」
サマエルは、血気に(はや)る兄をそう言って説き伏せ、会議は翌日に持ち越しとなった。

そして、彼が妻と子孫達を連れて自城に向かおうとしたとき、突如二つの人影が目の前に現れ、片膝を付いた。
「サマエル殿下、お疲れのところ申し訳ございません、少し、お時間を頂けますでしょうか」
どちらも、純白の翼を持つ天使だった。

「何奴だ!」
タナトスが大声で誰何(すいか)すると、散りかけていた家臣達の間に緊張が走ったが、サマエルは、周囲を安心させるように手を振った。
「心配いらないよ、彼はロシエル。顔が広いというのでね、何か情報が得られないかと思って、わざと白い翼のままで、投降した天使達に紛れ込ませておいたのさ。
それで?」

促された堕天使ロシエルは、後ろに控えた天使を示した。
「はい、この、ペネムの話をお耳に入れたく、参上(つかまつ)りました。
我らは、隊は違えど、元から見知っておりまして……」
「前置きはいらん、さっさと本題に入れ」
タナトスは、不機嫌に話をさえぎる。

天使は頭を下げ、おずおずと口を開いた。
「ペ、ペネムと申します……。
このような漠然とした話を……お知らせすべきか否か、迷ったのでございますが……」
御託(ごたく)はいいと言っているだろうが!」
「は!」
怒鳴りつけられた二人はさっと平伏し、ペネムは急いで話し始めた。

「申し上げます。わたしは、一年ほど前まで、天帝の給仕係をしておりました。
ある日、給仕を終え、隣室で片付けをしながら、天帝とミカエルの会話を聞くともなく聞いておりますと、突如捕らえられ、密偵として詮議(せんぎ)を受けたのです。
必死に抗弁し、どうにか、処刑は(まぬが)れましたが、厳重な監視下に置かれて一年が過ぎ……命を()って忠誠を示せと、今回の戦に……。
つまり、わたしは、生きて、天界には戻れぬ身なのでございます……」

「ふん。それで、何を聞いたというのだ、貴様は」
タナトスは腕組みをした。
「はい。あの日……天帝はこう言っていました。
『くれぐれも極秘とせよ。天使のみならず、神々にもだ。
下級天使達の中に不穏な動きありと聞くが、天使は所詮人形。感情を持たせるのが間違っている。
これが功を奏せば、天界の戦力は飛躍的に増大する』と。
しかし、こたびの戦いは、あまりにもあっけなく終息しました、妙だとはお思いになりませんか?」

『たしかに、興醒(きょうざ)めなほど容易に片がついた。やはり、裏に何かあるのやも知れぬな』
シンハが言葉を挟む。
「だが、功を奏せばと言っておったのだろう、その策か何かが、失敗したとも考えられるぞ」
タナトスは異議を唱えた。
『むう……』
ライオンは、ぶるぶるとたてがみを振るった。

「サマエル。貴様、どう思う」
タナトスは、無言で考え込んでいる弟に声をかけた。
「……現時点では、判断しかねるな。無論、用心に越したことはないが。
ペネムと言ったね、他には?」
「残念ながら、直接聞いたのは、それだけでございます。
ただ……その会話内容と関係があるかは不明ですが、その直後から、神々のみならず、天使の主立った者達が、医療検査を受けさせられるようになりまして……」

「……医療検査だって? それまで誰も、お前達の体など、気にかけたこともなかったのだろう?」
ペネムはうなずいた。
「仰る通りです。
戦に備えて兵士の体調管理が必要になったとの通達でしたが、いくらでも創れるからと、ケガ人も病人も容赦なく処分して来たくせに、なぜ今さら……と、皆も不審がっておりました」

「……ふうむ、たしかに引っかかるな。その検査とやらの内容は分かるかい」
「いえ。ですが、上級天使ならば、一度は受けているかと」
「そうか、では、後でシェミハザ達に聞いてみよう」
すると、ロシエルが口を挟んだ。
「実は、わたしにも気になることがございまして……」
「聞かせてくれ」
サマエルがうなずくと、堕天使は話し始めた。

「は。やはり同じ時期に、地下牢の囚人達が大量に処刑されたのでございます。
大事の前に、穀潰(ごくつぶ)しを飼っておく余裕はない、というのが表向きの発表でした。
ですが、漏れ聞いた話では、処刑されたのは天使ばかりで、しかも、記憶を操作されていたらしい、と。
魔族の囚人は、十数人足らずでしたし、取引に使えるというので、今も牢中に……」

「そうか。捕虜達も助けたいけれど、戦が始まっては無理かな……。
だが、記憶を操作? どうして、そんなことを」
サマエルは首をかしげた。

「分かりません……が、その結果は悲惨なもので。
自分の名はおろか、食事の摂り方、排泄(はいせつ)の仕方までも忘れ果て……あげく、穴に投げ込まれたそうです……。
皆、無力な赤ん坊のように泣き叫びながら、生き埋めにされたと……」
ロシエルは言葉を途切らせ、眼を閉じ、胸の前で指を組み合わせた。
隣の天使もまた、死者を(いた)む祈りを捧げていた。

「わざと記憶をめちゃめちゃにして、その上に生き埋め……!? 信じらんない……酷いよ」
シュネは思わず涙ぐむ。
彼女自身、記憶を失っていたこともあり、身につまされていた。
「……本当、知れば知るほど、酷いヤツらだね」
リオンも、顔をしかめて同意する。
ニュクスは、ケテルを思い出したのか、涙を浮かべて青ざめ、タナトスにすがりついていた。

祈りを終えたロシエルは、沈痛な面持ちで、再び話し始めた。
「そして、ペネムが申し上げた検査においても、頭痛を訴えたり、一時的な記憶喪失に陥ったり、果ては意識障害を起こす者までいたそうで……おそらくどちらも、同じ処置だったのではと思うのですが……」

「……何の処置か知らないが、死んでも狂っても構わない囚人達で試し、調整していったようだね……。
随分と(むご)いことをするものだ……」
サマエルも端正な顔をかすかに歪めたが、タナトスは怒りを(あらわ)にし、壁を殴りつけた。
「まったく胸くそが悪い、たわけ者どもめ!
ウィリディスを取り戻したなら、俺みずからが監獄の場所を清め、慰霊の塔でも建てて、すべての死者を(とむら)ってやるわ!
我らとて、敵対する者には容赦はせんが、何ゆえ、同胞にそんな仕打ちをする必要があるのだ!」

「やはり、切羽詰っているのだろうな、色々な面で……」
サマエルは考えに沈み、ぼんやりと答えた。
『察するに、最悪の事態に備えておけばよいのであろうな、サマエル』
夫の思考を邪魔しないように、シンハは静かに尋ねた。

上の空でうなずく弟の様子に、もう質問はないと見て、タナトスは言った。
「よし、ペネム、ロシエル、下がっていいぞ。なかなか貴重な情報だった、後で褒美を取らす。
また、何かあったら報告に来い」
「はは!」
二人の堕天使が揃って頭を下げ、消えると、タナトスは妃と自室に引き取り、サマエル達も紅龍城の応接室に移動した。

「ふぁー、やっと落ち着けるぜー」
紅毛の少年が現れて、大きく伸びをする。
「お腹減ったなー」
リオンが腹を押さえた。
シュネもうなずく。
「本当ね。アップルパイ食べたいな」

ソファに腰掛けたサマエルは、ぱちんと指を鳴らした。
「タィフィン、食事を三人前、デザートはアップルパイを。
ダイアデムには“悪魔の血”を頼む」
使い魔が現れ、うやうやしく頭を下げる。
「かしこまりました、お館様」

「わあ、久しぶりだね、タィフィン! 魔界に来てたんだ、元気そうだね!」
眼を輝かせて、シュネはタィフィンの手を取った。
「シュネ様、お懐かしゅうございます。お会いできて、これほどうれしいことはございません。
腕によりをかけて、お支度させて頂きます」
使い魔は眼をうるませた。

タィフィンは腕のいい料理人であり、魔界の貴族達には引く手あまただったが、サマエル以外には仕えようとはせず、戦の間、主が不自由しないようにと、紅龍城の管理を一手に引き受けていたのだった。

「じゃあ、あたし、お料理手伝う!」
あ、ぼくも。でもさ、ぼくがいたとき、キミはいつも姿を消してたから、こんな可愛い子だったなんて、ちっとも知らなかったな」
「まあ、そんな」
リオンの言葉にタィフィンは頬を染め、背中の妖精のような羽が(きらめ)いた。
「でも、お客様の手を(わずら)わせては……」

サマエルは微笑んだ。
「構わないよ、手伝ってもらいなさい、タィフィン」
「はい。では、お言葉に甘えさせて頂きます、どうぞこちらへ」
主人のお墨付きをもらった使い魔は、二人を先導し、うきうきと厨房(ちゅうぼう)に向かった。

にぎやかな声が遠ざかると、サマエルは額に手をやり、深く息をついた。
ダイアデムは、肩ごしに顔を覗き込んだ。
「どうした?」
「いや、何でもないよ」
サマエルは、無理に微笑んで見せる。
ダイアデムは心配そうな顔から一転、いたずらっぽい表情になった。
「ふーん、お前って、間近で見ると……」
「見ると……何?」
紅い瞳が不安げに揺れ、それを隠すようにサマエルは銀の髪をかき上げる。

「いやあ、見れば見るほど、べっぴんだな」
「えっ……」
意外な台詞に、王子は、顔が熱くなるのを感じた。
「へへー、紅くなったー」
「私をからかって、楽しいかい……?」
「別にからかってねーさ、ホントのことだもん。
でも、何か辛そーで、具合悪そーだない。どっか苦しいのか、頭でも痛てーのか?」
ダイアデムは、彼の額にそっと手を触れた。

「そうではなくて、うれしいのだよ。
良い行いなど何一つしていないのに、これほど優しくしてもらえる……。まるで、夢のようだ……」
目頭が熱くなり、サマエルは眼を閉じた。
涙を流せるものなら、幼子のように泣きじゃくっていたかも知れない。

「昔、苦労した分、今幸せになってんだよ」
ダイアデムは、夫の手を取り、自分の胸に当てた。
「ほら、オレはここにいる、夢じゃねーだろ」
「……うん」
第二王子は、幸福そのものといった笑みを浮かべ、こっくりとうなずいた。

「へへ、なんか、昔を思い出すぜ。ガキの頃、泣き虫だったもんな、お前。
あ、そっか、飢えて、感情が抑えられなくなってんだな。
なんだ、早く言えよ、すぐくれてやるのに」
「ほんのちょっとや、一口だけじゃ足りないよ。知っているくせに」
サマエルは、子供のように口を尖らせた。

魔界の至宝はそんな王子に向けて、誘うような流し眼をくれた。
「今なら、た~っぷり時間があるぜ。欲しいんだろ……?」
「ああ、もう、我慢できない……!」
サマエルは素早く妻を抱き寄せ、二人はソファに倒れ込んだ。

詮議(せんぎ)

2 罪人を取り調べること。また、罪人を捜索すること。