~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

3.堕天の恋(5)

ゴモリーの震えと、胸に滴る熱いものに気づいたシェミハザは、彼女の顔を見ようとした。
「公爵様……先ほどから一体、どうなさったのです?
なぜ、仇を取ろうとなさらないのですか……この体勢でなら、簡単にわたしを殺せますよ」
「な、何を聞いていたのよ、生きて(つぐな)いなさいと言ってるのに!」
急いで、彼女は涙をぬぐい、心の遮蔽(しゃへい)を確認した。
本当は、自分の思いの(たけ)を、彼にぶつけてしまいたかったのだが。

「ともかく、少し落ち着いて……」
肘をついて起き上がりかける彼の体を、ゴモリーは押さえた。
「駄目よ」
「逃げませんから。あなたの眼を見て、お話したいだけです」
半身を起こしたシェミハザは、服に手を伸ばしかけたが、相手の表情を見て諦め、公爵と向き合った。
「わたしの過去を気にしないと仰って頂けたことは、うれしい限りです、でも……」

やはり駄目だったかと、うなだれた彼女の顔を覗き込み、堕天使は自分の胸に手を当てた。
「しつこいようですが、本当に、わたしを殺さなくてよろしいのですか?
亡くなられた兄上様方は、お怒りになるような気が致しますが……」
ほっとして、ゴモリーは(かぶり)を振った。
「わたくしの中では、すでに仇討ちは終わっているのよ、お前が仇だと知る前にね。
もし、今、兄様達とお話が出来たら、きっと、賛成して下さると思うわ……」

「そう、でしょうか……?」
シェミハザは首をかしげた。
こちらの気持ちに気づいてもいない、その鈍さに少し苛立ち、ゴモリーは、彼の胸に指を突きつけた。
「何でもいいわ、ともかく、今からお前はわたくしの下僕よ、いいわね!」
「は、はい、……」

「最初に言っておくけれど、わたくし……つまり、サッキュバスを満足させるのは、並大抵のことではないのよ!
死んだ方がましと思うくらい大変かも知れない、でも、死んではいけないの!」
またも、彼女は、シェミハザに口づけた。

触れ合う肌を通じて、彼の思いが伝わって来る。
天にも昇る心地に浸りつつも、彼は、手放しで喜んでいるわけではなかった。
なぜ、彼女は仇討ちをやめたのだろう……捜しあぐねて一時は諦めたとしても、仇を見つけたなら、討とうとするのが当たり前ではないのか?
……等々、いくつもの疑問が、心に渦巻いていたのだ。

それでも、愛しい人を(いだ)くことが出来たシェミハザの顔は、至福に満ちていた。
“ああ……ゴモリー様。
天使達が、わたしに()かれ、群がって来たわけが、たった今、分かりましたよ……。
絶望しかない彼らの中にあって、わたし一人だけが希望を持ち、どんな時にも、それを決して手放さずにいたから、だったのでしょう……。
ミカエルの(ねた)みを買った原因も、おそらくそこに……なぜなら、あいつは、皆の絶望に付け込んで、支配していたのですから……”

“やめてよ、こんなときに。
あの似非(えせ)天使ときたら、あんな程度で、技巧派を気取って、笑いをこらえるのに苦労したわ。
いいから、早く、わたくしを幸せにしてちょうだい!”
ゴモリーは、シェミハザの頭を抱えるようにして、再び地面に押し倒した。

彼は眼を白黒させてもがき、どうにか唇を外した。
「お、おやめ下さい、ゴモリー様……!
だ、第一、幸せにするとは、一体……。わ、わたしには、さっぱり……」
「まだ分からないの!? 女と男が裸で抱き合って、他に何をすると言うのよ!」

「ええ!?」
シェミハザは、顔だけでなく、胸から上を全部、真っ赤にした。
「あ、いや、ですが、わたしにも心の準備というものが……い、いえ、いけません、公爵様ともあろうお方が、わ、わたしごとき、堕天使と……!
そ、それに、こんなところで……!? だ、誰かに見られでもしたら……」
慌てふためいて起き上がろうとする堕天使を、魔界の公爵は押さえつけた。
「逃げないと言ったでしょう、いい加減、観念なさい!」

その騒ぎで遮蔽が少し甘くなり、ゴモリーの心が、彼にも垣間見えた。
シェミハザは動きを止め、眼を丸くして、女公爵を見上げた。
「……あ、あなたは……まさか、わたしのことを……!?」
「だ、駄目よ、わたくしの心を読んでは! 失礼だわ!」
今度は、ゴモリーが顔を紅潮させる番だった。

「……ずるいですよ、ゴモリー様。わたしのを読むのはよくて、あなたのは駄目なんて」
「うるさいわね、駄目なものは駄目なの!」
紅くなったまま、ゴモリーは、つんと横を向いた。
「なら、せめて、口に出して下さい。でないと、せっかくのお気持ちも伝わりませんよ」
意を決したシェミハザは、体を入れ替えてゴモリーの上になった。
そして、今度こそ自分の意思で、愛する人を抱き締め、口づけた。
“ああ、シェミハザ……”
理性が溶けてなくなる直前、ゴモリーは指を鳴らし、どうにか周囲に結界を張った。

“おいで、エルピダ”
二人の姿が見えなくなると、サマエルは蛇を呼び戻した。
「ご苦労だったね、お前は本当に役に立つ。もう行っていいよ」
現れた紫の蛇は、うれしそうに舌をちろちろと出し、小さは翼を羽ばたかせ、飛んでいった。

ダイアデムは、やれやれと言いたげに頭を振った。
「はん、情けねーの。シェミハザのヤツ、あれでもオスか。
メスに挑まれてビビッて逃げ出す気かって、あきれかけたぜ」
タナトスは眉をしかめた。
「そこまで軟弱なら、俺がみずからが首を()ねているところだ。
……にしても、女の一念とは恐ろしいものだな。
そもそも、兄弟の仇に抱かれたがる神経というのが、俺には分からん。
(はら)んだりしたら、どうする気だ」

「しっ、声が大きい」
「ふん、大きいのは生まれつきだ」
周囲の人々は忙しそうに動き回って、騒がしくもあり、誰も彼らの会話を聞いている様子はなかったが、サマエルは兄をたしなめた上、心の声に切り替えて話を続けた。

“シェミハザを『男』として見るか、それとも『仇』として見るか……彼女も悩んだのだろうが、結局、前者を取ったのだね。
子供が出来ても問題ないよ、結婚という手がある。
そうなったら、二人共、秘密は墓場まで持って行くだろう……言うまでもないことだが、彼らの因縁話は他言無用だよ、タナトス”
魔界王は鼻にしわを寄せた。
「俺だとて、言っていいことと悪いことの区別くらい出来るわ、たわけ」

サマエルは、兄から視線をそらした。
“まあ、ゴモリーは、イシュタル叔母上やリリスと並んで、三大サッキュバスの一人だからね。
前にアビゴールが、二人がかりでも、妹を満足させるのは大変だ……などと、こぼしていたから、では、一晩だけでも私のところに寄越すのはどうかな、と言ったら、青くなって断られてしまったけれど”
アビゴールは、ゴモリーの長兄の名である。

“そりゃそーだ。お前に慣れたら、公爵家に戻って来なくなっちまうもんな”
ダイアデムも彼に合わせ、念話で言った。
「ああ、たしかにな」
タナトスも真顔で同意する。

サマエルは肩をすくめた。
“……そんなものかねぇ。
そうだ、タナトス、もう一つ言っておくが、もし……このままうまくいって、彼らが結婚したいと申し出ても、すんなり承諾しては駄目だよ。
まずは、にべもなく跳ねつけておいて、散々懇願されてから、渋々許可するようにしないと”
魔界では、貴族の婚姻には、魔界王の許可が必要である。

“えー、何でだよ。さっきは、二人共幸せになって欲しい、って言ってたじゃねーか”
ダイアデムは、可愛らしく唇を尖らした。
“だからこそ、だよ。
考えてもご覧、女性経験のない元天使が、いきなりサッキュバスと結ばれて、相手を満足させられると思うかい……それも毎晩?”
“あー、そりゃ無理だな、絶対”
紅毛の少年は、こくこくとうなずく。

“そう、初めは物珍しさもあって、ゴモリーも多少のことには眼をつぶるかも知れない……が、そのうち物足りなくなって、遊び歩くようになってしまうだろう。
シェミハザの方も、仕方がないと頭では分かっていても、あまりに度重なったりしたら、やはり……。
だから、シェミハザには、万が一にもゴモリーに捨てられるようなことがあれば、お前を処刑する、と、前もって宣告し、その覚悟があるなら、結婚を認めてやってもいい等と、脅しておくのだね”
「何ぃ、女の浮気で男を処刑だと!? 悪いのは女の方だろうが!」
思い切り不服そうに、タナトスは指を振り立てる。
彼はあくまでも、念話を使う気はないようだった。

“だって、もし、そんな事態になれば、あのシェミハザのことだ、妻に逃げられましたと、馬鹿正直に出頭して来るに決まっているだろう?
それが狙いさ。お前が堂々と、夫婦の問題に介入出来るからね。
ゴモリーを探し出し、夫の首を刎ねるぞと叱りつければ、根は優しい彼女のことだ、自分の行いを反省もするだろう。
異種族間の婚姻は、色々と難しい……。
せっかく、自由の身になった堕天使が、妻の浮気に悩んで眠れない夜を過ごした挙句、絶望して、ひっそりと首など吊って人生の幕を閉じることとなったりしたら、哀れだからね……”

“そーだな。何ヶ月も経って、みっちり腐った死体がぶらーん……うへぇ”
思わずダイアデムは、鼻をつまむ。
“そこまで腐ったら、ぶら下がっていないと思うよ”
“あ、そっか。腐れた首が体の重さ支えられねーで、床に落ちるな、きっと”
“そう、腐乱死体は床の上さ、こう……ぐちゃりと、内臓やら肉片やらを周囲に飛び散らせて、ね”

「……う、いや、待て、貴様ら」
弟夫婦の、妙に冷静で具体的な描写に、タナトスが幾分慌てて割り込む。
「かた……いや、障害を乗り越えて結ばれた相手だぞ、そんなにたやすく別れるだの死ぬだのという事態にはならんのではないか?
それに、案外、あやつが精力絶倫ということもあり得るぞ……サッキュバスは、そういうことには鼻が利くからな」
“そーいや、シェミハザって、あのド変態ミカエルに、夜の相手させられてたんだよな……仕込まれてたりして、色々”

「まあ、私の杞憂(きゆう)なら、それに越したことはないさ。ただ……」
普通の会話に戻ったサマエルの目線が、ふっと遠くなる。
「ただ、何だ?」
兄の問いかけに、彼は首を横に振った。
「いや……何でもない。魔族と天使は、意外に相性がいいかも知れない……と思っただけさ」

そのとき、不意に少年の体が輝き、黄金のライオンが現れた。
『光と闇は車の両輪、互いなくして存在し得ぬ。
光の強さが闇を濃くし、闇の深さが光の輝きを増すのだ。魅かれ合うのも当然というもの。
二つの種族が混じり合い、一つとなりし刻、呪いは解けるのであろうな』
託宣を告げるように、シンハは重々しく言った。

「あの予言……『“四龍”と“双の眸”が揃いし刻、魔界は勝利し、魔族にかけられし呪いは解ける』は、そういう意味だというのか?」
尋ねる魔界王に、ライオンは、重厚な仕草でうなずいて見せる。

サマエルは、たゆたう炎のたてがみをうっとりと見やり、黄金色の毛並みに指を這わせた。
「何にせよ、ここからが正念場だな、タナトス。
予言がどうだろうと、我らは最善を尽くすだけ、結果は後から付いてくる」
「ふん、貴様も、たまにはいいことを言う」
タナトスはにやりとし、それから全員に聞こえるよう、念話に切り替えた。

“──皆、聞け! 準備が出来次第、ここを引き上げる!
魔界に戻り、本格的な戦闘に備えるぞ!
正真正銘の最終決戦が始まる、恨み重なる神族を滅ぼし、故郷ウィリディスに、我らフェレスの王国を復活させるのだ!
性根を据えてかかれ!”
“──は!”
“かしこまりました!”
“直ちに!”
主だった者達からの返答があり、彼らの周囲はさらに慌しくなった。

えせ【似非/似而非】

1 似てはいるが本物ではない、にせものである、の意を表す。
2 つまらない、とるにたりない、質の悪い、の意を表す。