3.堕天の恋(4)
「どうして……どうして、今になって……。
敵討ちなんて意味がない、もうやめよう、そう決めた後に……」
ゴモリーは涙をぬぐい、深いため息と共に眼を閉じると、首を横に振った。
「申し訳ございませんでした!」
シェミハザは、ばっと平伏した。
「わたしが堕天したのも、魔界に
戦が終わったら、必ずあなたを見つけ出し、謝罪するつもりでおりました、タナトス様への義理と、共に堕天した仲間達に対する責任を果たしたその後に。
決して逃げ隠れするつもりは……何とぞ、ご容赦下さい!」
地面に頭をすりつける彼を見下ろす、ゴモリーの表情は複雑だった。
「お前達の不意打ちで、深手を負った兄上達は、わたくしに術をかけて隠したわ、一人だけでも助かるようにと。
あのとき、わたくしはなすすべもなく、お二人が殺されていくのを見ているしかなかったのよ」
「……いくらお詫びしても、
シェミハザは
「これは、炎のミセリコルデ……肉体を焼き尽くし、再生も蘇生も不可能にする短剣です。
殺して下さい、公爵様、今すぐに。
わたしは、ずっと待っていたのです、あなたに殺して頂ける日を。
あなたにお会いさえすれば、すべてが終わる……そう思うと、苦行も同然な天界での生活にも、耐え忍んでこれたのです。
なのに、すぐには、あなたが分かりませんでした、ここで独りになったとき、ようやく……。
何と愚かな……さっき気づいていれば、アザゼルが口を滑らす前に、告げることが出来たのに……そう思うと、我ながら情けなく、口惜しく……いっそのこと、今ここで、命を絶とうかとさえ……」
短剣を握り締める手は震え、シェミハザのアクアマリン色の瞳は、もはや何物をも映さず、その口調は、ひたすら暗かった。
しかし、ゴモリーは、武器には目もくれず、訊いた。
「それより、どうして、お前は兄上達を殺したの?
隠れて聞いた天使達の話では、わたくし達を、生け捕りるよう命じられていたようだったのに。
たとえ、一時、
「そ、それは……」
言いよどんだ堕天使は、意を決したように話し始めた。
「わたしは……狂戦士、とでも申しましょうか……戦っているうち訳が分からなくなって、気づくと相手を殺してしまっているのです……。
あの作戦は……初めて指揮官として部隊を率いるよう命じられたもので、わたしも、気負っていたところもあったのでしょうが……。
それに、悪鬼は一匹残らず駆逐するよう教育されて来ていて……今さら生け捕りなど笑止だとも思っておりまして……」
「……狂戦士?」
ゴモリーは眼を丸くした。
この堕天使が、ガブリエルと対峙していた場所の近くに、彼女もいたのだ。
あのとき、シェミハザは、闘いに陶酔するどころか相手を気遣い、なるべく傷つけないようにしているようにしか見えなかった。
相手が恩人の場合に限って、理性的に闘えるとでもいうのだろうか。
拳を握り締めて、彼女はさらに尋ねた。
「……では、もう一つ訊くわ。
さっき、交際を申し込みたいと言っていたのは、わたくしに、だったのよね?」
彼女に顔を覗き込まれたシェミハザは、さらに深く頭を伏せ、答えた。
「はい、仰せの通りです……断られることは覚悟の上で……。
先ほど、美しいお顔を間近で拝見して、胸が高鳴り……すべてを思い出してからも、それは続きました……。
あの日から、あなたのことばかり、考えていたのですから……。
お会いしたくて、ひたすらお会いしたくて、ようやく、こうして再会出来たというのに、胸が苦しくて……。
こんな思いは初めてで、どうしたらいいのか分かりません……」
「お前……」
天使達の誠実そうな見た目に
「……本当にそう思っているのかしらね。顔を上げて、わたくしを見なさい」
「偽りなど、申し上げてはおりませんが……」
ゆっくりともたげたシェミハザの額に、ゴモリーは指を二本、素早く当てた。
はっとして身を引くまでの一瞬に、彼女は相手の記憶を読み取っていた。
八千年前……あの日、訓練の総仕上げとして、魔物の
そして、侵入した館の居間に飾られた、似通った面差しの三人の肖像画……おそらく兄妹だろう……を見てしまったことで、彼の
創り出された当初こそ、使命感に燃える忠実な
捕らえた魔物が美しければ、男でも慰み者にし、さらに、女性は妊娠させて、その胎児までも人体実験に使う……などといった、あまりに酷い捕虜の処遇は、お世辞にも人道的とは言えない。
いくら悪鬼とはいえ、抵抗も出来ない相手に対して、そんな倫理にもとる行為が許されるものだろうか。
捕虜は、重要な情報などと引き換えに、釈放される決まりになってはいたが、過酷な拷問や実験により、解放される前に命を落とす者、また、発狂したり、みずから死を選んだりする者も少なくなかった。
中には、死亡したと偽られ、
今回の獲物……何をしたわけでもない、この美しい男女もまた、神族に敵対する種族と言うだけで捕らえられ、そんな扱いを受けることになる……。
ならば、いっそ、殺してやった方が、情けと言うものではないのか。
それでも、男はともかく、無邪気な笑みを浮かべた可愛らしい少女の命までもを奪うことを考えると、シェミハザの心は痛んだ。
しかし、わざと逃がしたとなれば、自分はもちろん、作戦に加わった部下達も全員、連帯責任で処分されてしまうのは目に見えていた。
迷いつつも、絵に描かれた男の一人の命を奪い、二人目を床に押し倒して剣を振り上げたとき、シェミハザの心を読んだゴモリーの長兄は抵抗をやめ、念話でこう告げた。
“さあ、殺すがいい。隠れてこれを見ている妹が、いつか、必ず仇を討つだろう。
それが、弟とわたしを殺すお前に対する復讐であり、同時に礼でもある……お前の魂が自由になれるよう、祈っている”と。
館から撤収した後、シェミハザは、部下と口裏を合わせて、魔物の激しい抵抗にあったため、やむなく皆殺しにするしかなかったと報告した。
覚悟を決めていた彼だったが、大した
当時、大天使の中からも、滅ぼすべき魔族を生かして捕らえることを疑問視する声が上がっており、彼の上司もその一人だったのだ。
「……知らなかったわ。あのとき、そんなやりとりがあったなんて」
我に返ったゴモリーは、つぶやいた。
「何があったとしても、わたしが仇であることには違いありません、公爵様。
どうぞ、わたしの命で、その罪を
またも差し出された短剣を、今度は取り上げ、彼女は言った。
「お立ちなさい、シェミハザ」
「はい……」
立ち上がった堕天使のローブを、彼女は素早く引き剥がす。
「あ、何を……!? お、おやめ下さい!」
その下に着ていた軽量の
「ゴ、ゴモリー様!?」
「お前は殺さないわ、死ぬなんて許さない。
死ぬくらいなら、
ずっと、わたくしと共にいて、生きてわたくしを愛し続ける、それがお前に科せられた罰よ!」
言うなり、ゴモリーもまた衣を脱ぎ捨て、彼に抱きついた。
「む、無理です! お忘れですか、わたしは仇、なのですよ!?
それに、お聞きになったでしょう、わたしはミカエルに……」
シェミハザは慌てふためいて女公爵を引き離そうとしたが、ゴモリーはさらにきつく、彼にしがみついた。
「ええ、聞いたわ、でも、それがどうかして?
天界では、もっての
わたくしだって、恋人は兄達だった……あの後、淋しさを紛らわすためだけに、次々、男と寝ていたしね」
ゴモリーは事もなげに言ってのけた。
「……!」
シェミハザは絶句したが、彼女は意に介さず続けた。
「神族は汚らわしいと軽蔑するけれど、そもそも、わたくし達がこんな風になったのは、お前達が、先祖を封じ込めたせいではないの。
魔界では、出生率も生存率も極端に低かったから、子孫を絶やさないために、子供を作れる男女は、すべて夫婦とみなすしかなかった。
でも、貞操だの純潔だのにかまけていたら、わたくし達は滅びていたに決まっているわ!」
一気に言い終えてから、相手が魔族でないことに思い至って、彼女は濃紺の瞳を
(分かってる……こんなやり方では駄目、愛想を
でも、わたくしはサッキュバス……いくら今、取り
そうよ、もう、こうなったら、行くところまで行くしかないわ!)
「分かった? わたくしは、女神のように
ゴモリーは彼に口づけ、思い切り体重をかけて押し倒し、馬乗りになった。
下敷きになった堕天使はもがいた。
「ゴ、ゴモリー様、落ち着いて下さい、服を着て、それから話を……」
「嫌よ、放さないわ! お前はもう、わたくしのものなのだから!
わたくしのことが嫌なの? さっき、あんなことを言ったくせに!」
彼女はシェミハザを押さえつけたが、彼が本気になれば、簡単に自分を跳ねのけ、去っていくことが出来ると知っていた。
尊大な態度を取ってはいても、体の震えを抑えられない。
(行かないで、お願い……!
どれほど天使を殺しても、たくさんの男に抱かれても、心は空っぽのまま……それを埋めることが出来るのは、ただ一人……それに気づいてしまったから、もう後戻り出来ないのよ。
それでも、いつもなら、もっとうまく誘うことが出来るのに……。
男を誘惑する術なら、いくつも知っているのに……。
世界を敵に回してでも手に入れたい男には、こんな
実のところ、彼女もずっと忘れられずにいたのだ……兄達の仇であると共に、
命の恩人とも言えるこの男を。
拒絶されたら、兄達の後を追おう、そう彼女は決心していた。
冥界にいる二人は、仇を取れなかったことを怒るだろうか。
いや、彼らなら、狙った獲物に逃げられるとは何事だと怒るだろう、魔界の貴族として失格だ、と。
あがなう【贖う】
罪の償いをする。
ミセリコルデ
スティレット (ドイツ語: Stilett)は短剣の一種で、中世記後半、チェインメイル(鎖帷子=くさりかたびら)が普及し、それまでの剣等ではなかなか相手にダメージを与えられなくなった時代に発明されたと言われる武器。
瀕死の重傷を負った騎士にとどめを刺すために用いられたということから、「慈悲」(ラテン語: misericordia、英語: mercy)の一撃を与えるという意味でミセリコルデ(英語: misericorde)と呼ばれることもある。
Wikipediaより