~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

3.堕天の恋(3)

「タナトス様、シェミハザは!? こちらに戻って来てはおりませんか?」
ゴモリーは、あいさつも忘れて尋ねた。
しかし、タナトスは、いつも以上に不機嫌な顔で、彼女をじろりと見たただけだった。
そんな兄を見かね、サマエルが答える。
「彼なら、つい今し方、帰ったよ。何かあったのかい、そんなに慌てて」
「は、はい、実は……」
ゴモリーは、口ごもりながら、事の経緯を説明した。

「というわけで……急いでシェミハザを捜さなければいけないのです……陛下、どうぞ、お力添えを……」
目頭を押さえる吟詠公爵を、いつも以上に冷ややかに黔龍(けんりゅう)王は見ていた。
勝利の興奮も消えた今、後始末に追われる彼の苛立ちを静めてくれる妻は、かたわらにはなかった。
魔界に帰ってしまっていたのだ。

“黯黒の眸”は、魔界全土を覆う結界の強化に不可欠な存在である。
この貴石が結界の要であることは、幸いにもまだ敵には知られていなかったが、留守の間に神族に攻め込まれたりしては、結界の保持も危うい。
今回も、すぐに戻って守備に当たる必要があった。

それでも、タナトスは、妻を戦闘形態であるカーラに変化させてそばに置きたがったのだが、サマエルはそれに反対した。
また、留守居(るすい)役のはずのプロケルまでが出て来てしまったことで、魔界の防備が手薄になったのも事実だった。
タナトスは仕方なく、当初の予定通り妻を送り返したものの、やはり機嫌はよくなりようがなかった。

「──もうたくさんだ!
まったく、この大切な時に、どいつもこいつも、仕様もない!
色恋沙汰でもいい加減うんざりだと言うのに、今度は自害だと!?
たわけめが、もうすでに、大勢死人が出ているのだぞ、死にたければ勝手に死ね!」
おまけに、ゴモリーが口を滑らせ、“陛下”と呼んでしまったことで、彼は溜ついに、まっていたうっぷんを爆発させてしまった。

「タ、タナトス様……!」
ゴモリーは、頭の中が真っ白になる思いだったが、このまま引き下がることは出来なかった。
どれほど罵倒されようと、力を借りた方が、いち早く発見できるはずだった。
彼女は、泣き崩れそうになるのをこらえ、懸命に訴えた。

「ご、ご無礼を承知で申し上げます、お聞き下さいませ、タナトス様……!
シェミハザは、先程申しておりました、タナトス様はお心の広い方だと……。
天使達の心情を理解して下さり、魔界に受け入れて下さったと感激して……。
仲間に生きる希望を与えるため、あえて天界を裏切ったシェミハザを見殺しになさらないで下さいませ!
わたしはどんな罰でも受けます、彼を捜し出し、お救い下さい!
タナトス陛下、どうか、どうか、お慈悲を……!」

「ふん……!」
タナトスが、けんもほろろに断ろうとしたそのとき、サマエルが口を開いた。
「駄目だよ、ゴモリー。これ以上、兄上の手を(わずら)わせてはいけない、キミ一人の力で捜しなさい」
「えっ……!?」
ゴモリーが絶句したのはもちろんだが、魔界王も、面食らって弟を見た。
「貴様……いつもなら、真っ先に俺を(いさ)めるくせに。
女に甘い貴様は、一体どこに行ったのだ?」

二人の驚きにも構わず、サマエルは、吟詠公爵の瞳を覗き込んだ。
「ねぇ、ゴモリー。
なぜ、アザゼルが、大事な戦友であるシェミハザの過去……それも、第三者には絶対に知られたくないであろう、秘めたる事……を、キミに話してしまったか、分かるかい?」
「え、いえ……」
「簡単なことさ、貴族だからだよ、キミが」
「あ……!」
思わずゴモリーは眼を見開き、口を押さえた。

「知っているようだが、あえて言わせてもらおうか。
天使は、生まれた瞬間から、高位の者に絶対服従させられて来たのだ。
堕天し、今はもう、誰に対しても盲目的に従う必要はないと、頭では分かっていても、染み付いた習慣はすぐに抜けはしない。
だから、アザゼルも、キミが公爵だと知らなければ、話すことはなかったはず。
……賢明なキミなら、この意味が分かるだろう?」
「は、はい……これはすべて、わたくしの責任です……」
ゴモリーは眼に涙を溜め、うつむいた。

しかし、追い討ちをかけるように、サマエルは続けた。
「それに、キミは、なぜシェミハザを捜したいのだろうか?
自分のせいで死なれたら気分が悪いから、とりあえず謝っておこう……などと、自己保身のために捜し回っているのなら、やめておくのだね。
いや、謝ること自体は構わないさ、それで、キミの気が済むのなら。
けれど、その後は、シェミハザの自由にさせてやるがいい。
もう生きていたくないと彼が言うなら……」

「──いいえ!」
顔を上げたゴモリーの眼差しは、強いものになっていた。
「死なせません!
わたくしの詰らない好奇心で、彼を死なせてしまうようなことがあったら、わたくしも生きてはいられませんわ。
では、急ぎますので、失礼致します!」
吟詠公爵は、礼もそこそこに黒い翼を広げ、飛び立っていった。

「……一体どうしたというのだ、ゴモリーは。
妙なのは貴様もだな。いつも女には大甘なくせに」
意外だという表情を崩さないまま、タナトスは弟を見る。
サマエルは、彼女が消えたのとは別の方角へ視線を彷徨わせ、つぶやくように答えた。
「……幸せになってもらいたいからさ、シェミハザも、もちろんゴモリーにも。
それに、我々まで出て行ったら、事が大きくなって、彼が戻り辛くなってしまうだろうしね」
タナトスは顔をしかめた。
「幸せになってもらいたい、だと? どういうことだ、さっぱり分からんな」

「バッカだなぁ。相変わらず鈍いぜ、お前」
そう口を挟んだのは、魔界の至宝の片割れ、ダイアデムだった。
彼は、いつの間にかそばに寄って来て、サマエルの陰から顔を出していた。
「貴様!」
怒る魔界王に、紅毛の少年は人差し指を振って見せる。
「ちっちっ、ンなもん、考えなくたって分かっだろーが。
サッキュバスが、眼の色変えてヤロー捜し回る理由なんて、一つしかねーだろ」

魔界王はあんぐりと口を開けた。
「ま、まさか……あの……兄二人を殺されて以来、復讐鬼と化し、天使と見るや、殺戮(さつりく)を繰り返していたゴモリーがか!?
それも、よりによって、天使だった男に()れたと!?」
「そ、そのまさかさ。シェミハザは、天界裏切った堕天使だし、それにまあ、色々と特殊だしな。
他の天使と、何もかもすっかりおんなじだってーのに、まるで……ええっと、何て言やいーのかな、うーんと……」

考えあぐねているダイアデムに、サマエルが助け舟を出した。
「そうだね……たくさんの人形の中に、生きた天使がたった一人、混じっているよう……とでも形容したらいいだろうか。
じっとしていても、人形と生身とでは見間違えようがない……そんな感じかな」
「なーる……。けど、何で、あんなに違うんだろな?」
宝石の化身は、首をひねった。
「おそらく、彼の生い立ちがそうさせるのだろう……それとも恋、かな」

「ふうん、ゴモリーみたいなべっぴんに聞かれたら、舌噛んで死んじまいたくなるよーな過去か……」
「ふん。ヤツの過去は、それほど深刻だというのか?」
タナトスは腕組をする。
「聞かぬが花、というところだろうね。
誰しも人に知られたくないことの一つや二つ、持っているものだし」
「天使ってのは、オレと似たような立場だったみたいだもんな……いや、サマエルの方か? 
どっちにしろ、想像ついちまうよな……なあ、タナトス?」

わざとらしく上目遣いに見られた魔界王は、咳払いをした。
「……う、くそ、その話はもういいだろう。
それよりも、貴様らの予想が仮に当たっていて、ゴモリーがシェミハザに惚れていたとしてもだ。
ヤツが自害してしまったら元も子もないぞ、斥候を放つなりして、捜さんでいいのか」

サマエルは、再び顔を上げて遠くを見、答えた。
「それは大丈夫、エルピダをやったから。
あまり時間も経っていないし、そんなに遠くには行っていないはず……ああ、今、見つけたよ。
この分では、すぐにゴモリーも……ああ、着いたよ、彼女も。
さすがは、恋する女性の勘、あなどれないね……」

「へー、どれどれ」
ダイアデムは、エルピダが送って来ている映像を見ようと、サマエルの左手を握る。
「……まったく、世話が焼けるたわけ共めが」
ぶつぶつ言いながら、タナトスもまた、弟の手を取った。

上空を旋回していた魔界の女公爵は、何かに導かれるように飛翔して、さほど捜し回ることもなく、所在なげに一人でたたずんでいる堕天使を見つけ出した。
(見つけたわ!
……でも、何て声をかけたらいいかしら……)
彼女にも一目で区別がつくほど、シェミハザは、他の天使達とは明らかに違う、強いオーラのような輝きを放っていた。

(彼は、どんなにか不快に思い、立腹していることでしょう……でも仕方ないわ、わたくしが悪いのだから。
誠心誠意、謝れば、きっと分かってもらえるはず……)
ゴモリーは、音も立てずに地上へと下り、立ち尽くす天使に向かって歩いていった。

「あの、シェミハザ……? お話があるのだけれど……」
吟詠公爵は静かに声をかけた。
途端に、シェミハザは飛び上がり、彼女に気づくとあとずさった。
「こ、公爵様……!?」
「ごめんなさい、謝りに来たの。許して下さる?
わたしの詰らない好奇心から、あなたを傷つけてしまったことを……」

シェミハザは首を横に振り、手の中でもてあそんでいた、紅く燃え上がる短剣を差し出した。
「いいえ……謝罪しなければならないのは……断罪されなければならないのは、わたしの方です……。
もう何も、思い残すことはございません、どうぞ、これで、わたしを殺して下さいませ……」
「えっ、どういうこと? 危ないわ、そんなもの、しまって」
もちろん、ゴモリーは、受け取ろうとはしなかった。

すると、シェミハザは、剣を握り締めたまま、食い縛るように言った。
「あなたには、これが必要になるはずです……。
なぜなら……わたしは、あなたの仇……双子の兄君を(あや)めたのは、このわたし、なのですから……」
「ええっ!?」
思いもよらない告白に、ゴモリーは口に手を当てた。

「先ほど、あなたのお顔を拝見したとき、とても懐かしい心持ちが致しました。
その美しい御髪(おぐし)にも、どこか見覚えがございました。
兄君様達も、そっくりの髪色をしておられましたね……」
そう話すシェミハザの瞳は、濡れていた。

ゴモリーの脳裏に、忌まわしい記憶が蘇る。
忘れもしないあの日……人界の公爵の別邸で突如天使達に襲われて、兄達を始め、家臣達までが皆殺しにされ、彼女一人が助かったのだった……。
「あ、あ……! お前が、あの時の天使……!」
彼女は震える手で、シェミハザを指差す。

「思い出して頂けましたか。
あのお二人は、わたくしが最初に(あや)めた魔族です……。
あれは、天使の成人試験のようなものでした……」
堕天使はうなだれた。

何とはなく気にかかり、どこか懐かしささえ感じると思っていた……その理由が……ずっと捜し求めていた仇だったから、だとは……。
ゴモリーの眼から、とめどなく涙が流れ落ちていった。