3.堕天の恋(2)
「し、失礼致しました、公爵様、知らぬことは言え、ご無礼の段、平にご容赦を……」
シェミハザが去った後、残されたアザゼルは平謝りし、ゴモリーは苦笑した。
「構わないわ、どうせ暇だったもの。それより、訊いてもいいかしら?」
「は、何なりと」
「あなたは本気で、この
眠り続けるガブリエルを、ゴモリーは手で示す。
顔を上げたアザゼルの返事には、何のためらいもなかった。
「はい。
最初は受け入れてもらえないでしょうが、いつか必ず、わたしの心を分かってもらえるときが来る、そう信じています」
「そう……うらやましいわね」
「これは異なことを。公爵様はお若く、しかもお美しい。
愛をささやく殿方が、いくらでもいらっしゃるでしょう」
「いらないわ、そんな人」
少しすねたようにゴモリーは口を尖らせ、続けた。
「わたし、兄達が好きだったから。他の男達なんて、全然目に入らなかったわ。
二人の兄と、毎晩のように寝ていたのよ、ふふ」
「えっ、は、あ、あの……」
天界の住人にとっては、到底信じられない話だったのだ。
ゴモリーは遠い眼になった。
「でも、その最愛の兄達も死んでしまった……殺されたのよ、天使に。
そのとき、階級ごとに天使の姿が同じなのを初めて知った……だから、わたくし……さっきの戦いの間中、あなた達にそっくりの……つまり、熾天使を選んで殺していたわ。
目蓋の裏に今も焼き付いて離れない、愛する兄を二人共、殺した仇をね……」
思わず、アザゼルは身を固くした。
かつて熾天使として、多くの魔族を殺して来た……自分が仇なのかも知れなかった。
もし、そうなら。
元熾天使の顔に、激しい苦悩と絶望がよぎる。
命が惜しいわけではなかったが、自分が死んだ後、ガブリエルはどうなってしまうのだろうか。
「こ、公爵様、……」
言いかけるアザゼルを身振りで制し、ゴモリーは静かに首を振った。
「誰が仇だろうと、もういいのよ。わたくし、復讐はやめることにしたの。
いくら殺したって、苦しくなるだけ……二人は帰って来ないもの。
それより、もう一つ聞きたいの。
シェミハザが言ったのよ。自分は女性を愛する資格がないって。
どういう意味なのかしら?」
矛先が変わったことにほっとして、アザゼルは答えた。
「我らはホムンクルス……複製なのですよ。
女性に恋するなど、身に過ぎたことだと思っているのでしょう」
「ホムンクルスのことは、さっき彼に聞いたわ。
でも、あなたは結婚する気でいるし、彼だって、女性を愛せないわけではないのでしょう?」
「ええ、もちろん、女性は嫌いではない……はずですが。
ただ、天使間の恋愛は
「そう、なのかしら?」
ゴモリーは首をかしげ、さらさらの赤毛をかき上げる。
「……まあ、彼には、色気がありますからねぇ……」
魔界の公爵の色っぽい仕草に、アザゼルは、意味ありげな視線を送った。
「茶化さないで! わたくしは別に、彼に気があるわけではないわ!
気になって仕方がないのは、あなたに話を中断されたからよ!」
ゴモリーは
「申し訳ございません。茶化してなどおりませんよ、公爵様。
ですが、なぜ、それほどお知りになりたいのですか……?」
「んー、どうしてかしら。
そうね……多分、あなた達が、わたくしが今まで持っていた天使のイメージとかけ離れているから、かしらね。
もっと、あなた達のことを知りたいの、お願い、教えて。ね?」
「……まあ、たしかに天使は、誤解されている存在かも知れませんね……。
それこまで仰るなら……」
身分の高い美女に
「ええと……なぜ彼が女性を愛する資格がないと言ったか、というご質問でしたね。
先ほど、天使の恋愛は、御法度と申し上げました。
しかし、禁止されても、やはり、その、男ですからねぇ……我慢出来ないときには……当然、男同士で……となってしまいます……。
そして……独特の雰囲気を備えている彼は、上司に好かれると言うか……ああ、つまり彼は、大天使達に、夜の相手を強要されていたのですよ、毎晩……。
無論、彼は心底嫌がっておりましたが、拒否すれば、死ぬよりももっと
「………!」
ゴモリーは蒼白になり、言葉を失った。
「それでも、他の大天使達は、彼を優しく扱ってくれたようなのですが。
ミカエルの仕打ちは目に余るほどで……彼以外で、相手をさせられた者の中には、ショックのあまり、死を選んだ者もいたくらいで。
しかし、自殺などもっての外。いえ、倫理的な問題ではないのです。
自殺した者は、蘇生されられ、地下深くでの重労働……あげく、人体実験の材料として、生きたまま肉体を切り刻まれるのですから……。
そこで、ミカエルの相手は、彼が進んで務めていたのですが……慣れているからと。
しかし、いつも酷い扱いを受け、ヤツの寝室から傷やアザだらけで戻って来ては、虚ろな眼をして言っていました、これが自分の運命なのだろうか、と……。
それでも、彼は、至極真面目に働いていたのです、天界のために……あの時までは……。
魔族との小競り合いの最中、危機に陥ったミカエルを助けた彼を……待機命令を無視したとして、ヤツが処刑を決めた、あの時までは!」
アザゼルは拳を握り締め、その眼には危険な光が宿ったが、それも一瞬のことだった。
彼は、ふっと息をつき、体の力を抜いた。
「……しかし、さすがに、味方を……それも、天使長を助けて死罪、というのは無理がありました。
シェミハザは人望もありましたし、他の大天使やガブリエルの計らいもあって、一月後、彼は、晴れて無罪放免となりました。
けれど……戻ったとき、彼は、別人のようにやつれ果ててしまっていました……。
日の光も差さない冷たい地下の牢獄、腐りかけた食物に、いつ下るとも知れない処刑命令……。
死の恐怖に
どうせなら、一思いに処刑された方がよかった……彼はそう言い、その日から高熱を出して生死の境をさ迷いました……。
公爵様、あなたはさっき、私や彼が持っていたイメージと違うと仰いましたね。
あなたはきっと、天使のことを、命も惜しまず向かって来る、感情のない兵隊、そう感じられていたのでしょう。
それも当然ですよ。
愛することは禁じられ、待遇は改善される見込みもなく、自殺することも許されず……残るはただ、戦いの中で果てるだけ……。
ですが、戦死することさえも、熾天使、すなわち、第一位の天使である魔力の強い彼は、出来ませんでした。
いや、二、三度か、それ以上、心臓が止まったことはあるはずですが、そのたびすぐに蘇生されて……。
身分の低い者なら、そのまま放置されるか、安楽死させられるのですが……。
……こんな風だったのですから、彼が反逆を決めたときには、さもありなんと思い、わたしも喜んで同志になりました。
失うものは何もなく、このガブリエルのことにしても、あのまま天界にいては、どうにもならず……」
ついつい自分の話にのめり込んでしまっていたアザゼルは、ふと、ゴモリーの藍色の瞳に涙が浮かんでいるのに気づいた。
「あ……も、申し訳ありません、公爵様。こんな下世話な話を、お耳に入れてしまいまして……!」
ゴモリーは首を横に振り、目頭を押さえた。
「いいえ……だから、彼は……ああ言ったのね……」
「はい……仕方なかったとは言え、彼は、自分を恥じているのでしょう……」
「そんな! 恥じる必要など、ないでしょう!?」
顔を上げ、ゴモリーは叫んだ。
「そうかも知れませんが、あれは、男にとって、酷く屈辱的な経験ですからね……」
「えっ、まさか、あなた……」
アザゼルは、彼女からすっと眼を逸らした。
「ええ、わたしも相手をさせられていました、ミカエルにもね。
彼ほど
当然、ガブリエルはこのことを知ってます。わざわざ話す必要がないのは、本当にありがたいです……。
もし、他の誰かを愛したとしても、わたしだったら話す気にはなれませんよ。
男の慰みものになっていたなどとは……」
「──アザゼル! お前は!」
「あ、……!」
「話したのか、あんなことを!」
凍りつくようなその瞬間、当のシェミハザ本人が、唇を噛み締めて立っていた。
「す、済まない……!」
「お前!」
シェミハザは、アザゼルの胸倉をつかみ腕を振り上げた。
だが、すぐに彼を解放し、
「お前を殴ったところで仕方ないか、本当のことだものな……。
それより、タナトス陛下は、お前達のことを気遣っておられたぞ、早く子供でも作ってしまえと。
そうすれば、子供可愛さに、ガブリエルも気が和らぐのではないかと仰っておられた。
彼女を、必ず幸せにしてやれよ」
「ごめんなさい、シェミハザ、怒らないであげて。
つまらない好奇心から、根掘り葉掘り聞いてしまったわたくしが悪いのよ」
ゴモリーは指を組み合わせ、哀願するように言った。
「……怒ってなどおりませんよ、すべて本当のことですから……。
取り乱し、お恥ずかしい限りです……。
もう一度だけ、お話が出来ればと思ったのですが……愚かでした。
わたしごときが、女性と話をしたいなどと……思ってはいけなかったのです……。
失礼致します、公爵様……」
シェミハザは、彼女を見ようともせずに立ち去ろうとした。
「待って、シェミハザ。わたくしの話を聞いて」
「もはや、お目汚しをすることもないと存じます、わたしのことは、もう、お忘れ下さい。
──ムーヴ!」
シェミハザは頭を下げ、ふっと消えた。
「どうしましょう、わたくし、彼を傷つけてしまったわ!
アザゼル、彼がどこに行ったか分かる? 謝らなくては」
自責の念に駆られ、ゴモリーは尋ねた。
しかし、紙のように白い顔色をしたアザゼルは、その声も耳に入っていない様子で、唇を震わせていた。
「ま、まずいことをしてしまいました。急いで彼を見つけなければ、危ないかも知れません……!」
「えっ、危ないって、どういうことなの!?」
「あの酷い経験の後、彼は、死ぬことばかり考えるようになっていたんです。
わたしは、彼を説得して来ました、死んだら負けだ、天界に反逆し、生きる場所を得ようと……!
あの様子では、最悪、今すぐ自殺してしまうか、それとも……ガブリエルと同じような行動を取るか……ああ……彼は恩人なのに、わたしは何て事を!」
アザゼルは頭を抱えた。
ゴモリーの顔も、彼に負けず劣らず蒼白だった。
「大変、急いで捜さなくては!
でも、どうやって……どこを捜せばいいの……!」
「ひょっとして、タナトス陛下のところへ戻ったのでは……。
わざと無礼な真似をして、お手打ちにされようと……いや、まさか……」
堕天使は頭を振った。
「そ、そんなことを……!? ともかく、わたくし、行きますから!」
「公爵様!」
ゴモリーは、自分でもよく分からない衝動に突き動かされ、単身、タナトスの元に向かった。