~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

3.堕天の恋(1)

「タナトス様がお呼びだぞ。お前の話を聞いた上で、考えて下さるそうだ。
ここはわたしに任せて、行って来るといい」
戻ったシェミハザがそう告げると、心配顔で待っていたアザゼルは、飛びつくような勢いで、彼の手を握った。
「あ、ありがとう、シェミハザ!
お前には、幾度礼を言っても足りないくらいだ!」
彼そっくりの青い眼が、明るく輝いていた。

シェミハザは、思わずにっこりしたものの、すぐに真顔になった。
「わたしは何もしていないさ。それより、これからが正念場だぞ。
彼女は、まだ敵の立場だ、お前の嘆願が認められなければ、最悪、処刑もあり得るんだからな」
アザゼルは青くなった。
「そ、そんなことはさせない、わたしの命に代えても!」

「その意気だ、頑張れよ。
さ、もう行った方がいい、タナトス様は気の短いお方だからな」
「わ、分かった、行って来る、彼女を頼む──ムーヴ!」
慌しく、アザゼルは呪文を唱え、姿を消した。
同僚を見送り、シェミハザは、ほっと息をつく。
うまくいってくれればいい、彼は心からそう思った。

「あんなに思ってもらえるなんて、幸せですわね、この天使」
不意に聞こえて来た声に振り返ると、全身を黒いローブに包んだ人物がいた。
「あ、あなたは?」
「わたくし、看護をお手伝いしておりましたの。捕虜とはいえ、ケガ人ですものね」
相手は、簡易ベッドに横たわるガブリエルを手で示した。
声や仕草、袖口から覗く華奢な指からすると女性なのだろう。

先ほどの彼との戦いで、満身創痍(まんしんそうい)となった大天使は、包帯を巻かれ、ぐったりと眼を閉じていた。
全身に回った毒のせいか、顔は土気色だったものの、呼吸は落ち着いている。

「これは失礼しました」
彼は軽く、会釈(えしゃく)をした。
「申し遅れましたが、わたしはシェミハザ、ご覧の通りの堕天使です」
女性はうなずいた。
「存じております。わたくしはゴモリー、こう見えても公爵ですわ。
兄が二人おりましたが、かなり前に天使に殺されてしまったので、わたくしが爵位を継いだのです」

「おお、あなた様が、吟詠(ぎんえい)公爵ゴモリー閣下……お噂は、かねがね聞き及んでおります。
公爵様ともあろうお方に、けが人の介抱などして頂きまして誠に申し訳なく、平にご容赦願います。
後は、わたくしが致しますので、どうぞお休み下さい」
今度は口調もうやうやしく、シェミハザは胸に手を当て、優雅に頭を下げる。

「急に態度がお変わりになりましたのねぇ、わたくしが貴族だと知った途端に。
それとも、身内が天使に殺された話をしたから、かしら?」
ゴモリーは皮肉っぽく言った。

シェミハザは、はっと顔を上げ、そして眼を伏せた。
「軽蔑して下さって結構です……寝返り、(こび)を売る追従者(ついしょうもの)、と……。
弁解させて頂けるなら、天界では、高位者に無礼な態度を取る者は重い処罰を受け、時には処刑さえもされて来ました……そのため、身分の高い方への、こうした態度は習い(しょう)になっております。
お気に障りましたら、お許しを」
堕天使は再び、完璧な作法で礼をする。

魔界の女公爵は、フードをかぶったままでうなずいた。
「……そうでしたの。
魔界でも、身分制度は厳格ですけれど、下位の者が少々行儀の悪いことをしても、手打ちなんてしませんわねぇ。
そう……たとえ、タナトス様の御前で粗相(そそう)をしたとしても、怒鳴りつけられる程度でしょうね。
まあ、虫の居所がお悪ければ、殴られてしまうかも知れませんけれど、お仕置きはそれで終わりですわ」

「陛下は、心の広いお方でございますから」
「えっ、そうかしら? お小さい頃は、やんちゃで、それは大変だったと聞き及んでいますわよ。
そして、今も、大して、お変わりになられていないようですけれどね」
ゴモリーの声は笑いを含んでいた。

シェミハザは、首を横に振って見せた。
「……全然違いますね、やはり……。
天界では、悲しいかな、密告が奨励されておりましたので、仲間内でさえも、上位者を批判することは叶いませんでした」
それを聞いた女公爵は、驚きを声に出した。
「まあ、密告を奨励ですって? 魔界では考えられませんわ。
それに、タナトス様のご性分では、密告した者の方を処罰なさりそうですもの。
あの方は、卑劣な振る舞いがお嫌いだから」

「……天界とは、真逆ですね」
彼がつぶやくように言うと、ゴモリーの声が急に熱を帯びた。
「ええ。それに魔界では、王を批判して不興(ふきょう)を買ったとしても、処刑なんてされませんわよ。
実際、タナトス様に面と向かって、苦言を呈する者もいますしね。
そして、ちゃんと改善して頂けますわ」

「……なるほど。色々お教え頂き、お礼の言葉もございません。
しかし、これ以上、お引き留めしてはご迷惑で……」
「別に構いませんわ。
ここでの戦いは決着がつきましたし、残務整理は家臣がやります。
わたくしは今、することがありませんもの」
ゴモリーは、深々とかぶっていたフードを跳ね上げ、彼に笑いかけた。

彼女を始め多くの魔族は、彼ら堕天使のことを、所詮は裏切り者であり、何かあれば、再度寝返るのではないかと疑ってかかっていた。
それで、顔を見せようともしなかったゴモリーが心を変えたのは、謙虚なシェミハザの態度のお陰だったのだろう。
加えて彼は、天使の中でも飛び抜けて美しいとされる、熾天使だった。
太陽の輝きを集めたかのような黄金の髪、憂いを秘めたアクアマリンの瞳、優しげな唇からは、その外見に見合った涼やかな声が発せられる……誠実さを絵に描いたような彼に接しているうちに、疑心が氷解していくのは、ある意味、当然のことだった。

シェミハザもまた、どぎまぎしていた。
フードを脱いだゴモリーは、息を呑むような美女だったのだ。
星を散りばめた夜空のような、瑠璃色の大きな瞳、長いまつげ、鮮やかな薔薇色をした唇は、透き通るような肌に一際映えている。
これほど心を揺さぶられる女性に会ったのは初めてで、今後も出会うことはないだろう、そんな奇妙な確信が彼の心に(きざ)していた。

「……どうなさいましたの。わたくしの顔に何かついていて?」
ゴモリーは、優雅に小首をかしげる。
さらりとした長い髪をかき上げる仕草は、魅惑的としか言いようがない。
人間の赤毛に近い、オレンジ色の髪が、これ以上ないほど似合っているとシェミハザは思った。
「い、いえ、何も……ただ、これほどお美しい方とは露知らず……あ、いえ、失礼致しました!」
思わず口を突いて出た本音に、彼は真っ赤になって頭を下げた。

「……お上手ね。ま、どなたにでも、そう仰っているのでしょうけれど」
ゴモリーは艶然(えんぜん)と微笑んだ。
顔を上げようとしてそれを眼にした彼の心臓の鼓動はますます早くなり、慌てて彼はまた下を向き、首を横に振った。
「と、とんでもございません!
わたしは今、生まれて初めて、上司以外の女性と親しく口を利いたのですから!
わたし達は、妻帯はおろか恋愛さえも禁じられ、ときには女性と話しただけで、処罰の対象となり……」

ゴモリーは眼を丸くした。
「まあ! あなた方が堕天したのは、それも理由の一つなのね!
愛する心まで縛られるなんて、信じられない。それでは、造反するのも当然だわ……。
さあ、もう、(おもて)をお上げになって」

「は、はい……」
吟詠公爵の名に恥じぬ、快い声の響きに魅了されていたシェミハザは、幾度も深呼吸を繰り返し、どうにか心を落ち着けてから、顔を上げた。
「……わたし達は常に、使い捨ての駒として扱われて来ました。
それを端的に現しているのが、この肉体です。
大天使を除き、同じ階級の天使の姿は、同一です……とっくにご存知でしょうが」
彼は自分の胸に手を当てた。

「ええ。初めは、区別がつきませんでしたけれど。
こうしてお話してみると、発せられる“気”が違うこともあって、さっきの……アザゼルでしたか、彼とあなたも、全然別な存在だということが分かりますわ」
「わたし達は、ホムンクルスなのです、それで……」
「え? でも、それって、これくらいの小さなものでしょう?
寿命も短くて、ほんの一時の使い魔としての用途しか……」
ゴモリーは、二本の指を使って、小人の大きさを表して見せた。

「いえ、魔界の方がご存知のものとは、ちょっと違うようですね。
天界では、特殊な技術により、元の生物から複製されて創り出された者を、“ホムンクルス”と呼んでいるのですよ。
ただ、姿形はそっくりでも、遺伝子は多少異なるのです。
弱点などが同じでは、いっときに倒されてしまう危険性があるという理由で、家畜のように、その時々で、遺伝子を操作されて来ましたから……」

「まあ……」
ゴモリーは濃紺の眼を見開き、二の句が継げないと言った感じだった。
「さりとて、わたし達にも心はあります。
それを認め、同志として受け入れて下さったのが、賢明なる黔龍王タナトス陛下です。
勝利の暁には、わたし達にも、魔族同様の権利を与える、と約束して頂きました。
本当に、ありがたいことです……」
堕天使は、しみじみと言った。

魔界の公爵は、深くうなずいた。
「『陛下は、お心の広いお方』……その意味が、やっと理解出来ましたわ。
たしかにそうですわね。
陛下は家臣に、あまりうるさく指図をなさいません。
それをいいことにわたくし達は、あれこれ文句ばかり言ってきましたけれど、改めて考えてみると、ありがたいことですわね」

「はい。うらやましい限りです……」
シェミハザはまたも赤くなり、ためらいがちに続けた。
「わたしも、魔族に生まれていたなら……女性に交際を申し込む勇気を持てたかも知れませんが……」
「え?」

「いや、無い物ねだりはよしましょう……。
今は戦時下ですし、わたしには、女性に愛を語る資格がないことを忘れておりました……」
首を横に振る彼の声には、力がなかった。
「なぜですの? 今はもうあなたは堕天して……」
ゴモリーが尋ねかけたとき、不意にアザゼルが現れた。

「シェミハザ! やったぞ、許可が下りた!
彼女は保護観察処分になり、助命はもちろん、妻にしていいとさえ、仰って頂けた!」
「ああ、それはよかったな……アザゼル……」
シェミハザは、眼も虚ろに、のろのろと答えた。

だが、有頂天になっているアザゼルは、彼の異変にはまるで気がつかない。
「本当にありがとう、お前のお陰だ。
そちらの女性、あなたにも厚くお礼を言います。
後は、わたしが()ますので、お引き取り願って結構ですよ。
あ、そうだ、シェミハザ。今度はm,お前に用があるから来るようにと、仰っていたぞ」

「分かった。
それより、アザゼル、粗相(そそう)のないようにしろよ、こちらのお方は、吟詠公爵ゴモリー閣下だ。
それでは、ゴモリー様、失礼致します……」
「え……ええ、公爵様!? あ、おい、シェミハザ!」
「陛下がお呼びなのだろう、すぐに行かなくては」
シェミハザは、物問いたげなゴモリーの視線を振り切り、姿を消した。

そそう【粗相/麁相】

1 不注意や軽率さから過ちを犯すこと。また、その過ち。