~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

2.因縁の対決(4)

もう一つの戦いがあった。
かつて熾天使だったシェミハザと、六大天使の一人、ガブリエルとの。
二人の魔法力は、ほぼ互角のはずだったが、前者が圧倒的優位に立っていた。
天界を離れて動くことが少ない大天使より、常に最前線にいる熾天使の方が、自然と鍛えられ、強くはなる。

だが、それでは説明がつかないほど、力の差があるように思える。
試しに、シェミハザは、レベルの低い魔法を放ってみた。
上級天使ならば簡単に避けられる、あるいは相殺(そうさい)出来るはずのそれもまた、見事に命中し、彼は声を上げた。
「やはり! ガブリエル様、あなたはわざと!? 一体どうして……」

「何を、言ってるの、うっ……!」
荒い息をし、ふらついていた大天使は、ついに膝をついた。
「ガブリエル様!」
「寄らないで!」
駆け寄り差し出すシェミハザの手を、大天使は激しく振り払う。
「ど、同情なんて、いらない! と、とどめを刺しなさい、早く!
今、殺さなければ、後悔することに、なるわよ!」

「……もう、降参して下さい、恩義あるあなた様のお命、欲しいとは思いません……」
「くっ、軟弱者……お前など、助けるのではなかった……!」
傷だらけの体で、ガブリエルは声を振り絞る。
「何とでも仰って下さい。
死ぬことは美徳ではない、アザゼルに教わって、わたしは目が覚めたのです」

「いいわ、もう、お前には頼まない!
──カンジュア!」
手の中に、鋭い輝きが(きらめ)き出る。
「おやめ下さい!」
「わたくしも、誇り高き大天使、敵の情けは受けない!」
歯を食いしばり、大天使が短剣を喉に押し当てた次の瞬間。
刃は音を立てて砕け散っていた。

「な、何……!?」
柄だけになってしまった短剣を、ガブリエルはぽかんと見つめる。
いつの間にか、別の天使が現れていた。
シェミハザと寸分違わぬ姿をし、翼は漆黒……彼女の命を救ったのは、一人の堕天使だった。
「早まってはいけません、ガブリエル様」

「お前……アザゼルね、なぜこんな……?」
戸惑うガブリエルを尻目に、堕天使はいきなり、シェミハザに向かって頭を下げた。
「頼む! 彼女は、わたしに任せてくれ!」
「……どういうことだ、一体……?」
シェミハザも面食らい、自分と同じ立場、すなわち堕天使の指導者の一人に問いかけた。

顔を上げたアザゼルは、沈んだ口調で言った。
「彼女は、初めから死ぬつもりで、お前に勝負を挑んだんだよ」
「ああ……道理で。しかし、なぜ、そんなことを?」
「ミカエルが死ぬと分かっていたからさ。
紅龍となったサマエル様に、勝てる者などいないだろう?」
シェミハザも、沈痛な面持ちになった。
「……ミカエルに(じゅん)ずるなど、愚かな……」

「何が愚かなの!
お前達のような堕天使に、天使長様の偉大さが分かるはずがないわ!」
たまりかねたように、ガブリエルが二人の話に割り込む。
「偉大……ですか。
いや、ガブリエル様、あなたはミカエルを愛しておられるのでしょう?
天使間の恋愛は禁忌(きんき)とされている、だから思いを抑えて来た、そうなのでしょう?」
問われた大天使の頬が、紅葉を散らしたように赤くなり、アザゼルの言葉を裏づけた。

「ち、違う、わたくしは、あの方を……そう、尊敬している、それだけよ!」
必死に言い訳する大天使を、アザゼルは痛ましげに見やった。
「シェミハザ、話してなかったが、彼女、本当は賛同してくれてたんだよ。
そして、密告もせずにいてくれた。
あのとき、彼女は、心情は分かるが立場上、加担は出来ないと言った。
でも、本当はミカエル……あいつがいたから……。
そして、紅龍との因縁の対決……ミカエルに勝ち目がないと悟った彼女は、お前を挑発し、後を追おうと思った……違いますか、ガブリエル様」

大天使は、キッと彼を睨んだ。
「分かっているなら、邪魔しないで!
あの方のいない世界など、生きていても仕方ないわ!」
「そんなことはありません、冷静になればお心も変わられるでしょう。
あなたを死なせるには忍びない、分かって下さい」
「変わらないわ、何があろうと!
お前に何の権利があって……うっ!」
さらに言い募ろうとする、ガブリエルの頭にアザゼルが触れると、急にぐったりとなった。

「あ、何を!」
「大丈夫、気絶させただけだよ。暴れるとケガがひどくなるからな。
……済みませんね、ガブリエル様」
後の方は大天使にささやき、アザゼルはその体を優しく抱き上げた。
シェミハザは、すべて分かったような気がした。
「アザゼル、お前……」
「ああ。わたしが堕天したのは、彼女を妻に出来るかも知れなかったから、だよ」

「そうか……天使間では、婚姻もご法度(はっと)だものな。
分かった。わたしが先に報告に行く。介抱が済んだら、お前も来るといい」
「済まん、恩に着る!」
アザゼルは深々と頭を下げた。

シェミハザは微笑んだ。
「いや、わたしも、死なせたくないと思っていたから。
彼女の体から毒が抜け、動けるようになるまではずいぶんかかるだろう。
その間に心をつかみ、ミカエルのことなど忘れさせてしまえ」
「ありがとう! よろしく頼む」
頬を染めたアザゼルの声に送られ、シェミハザは魔法で移動した。

タナトスの許へ着いてみると、戦いはすべて終結しており、後処理が着々と進行しているところだった。
捕虜の処分方法を聞き、シェミハザは思わずほっとする。
「……左様でございますか、魔界に封じることに……」

人型に戻っていた魔界の王は、眉をしかめた。
「何だ、貴様。そんなに心配だったか、同胞が?」
「い、いえ、決して、そのような……」
「ふん、また寝返りたくなった、などと言い出すのではあるまいな、もしそうなら、俺が直々に……」

「おやめ、タナトス」
サマエルが、物柔らかに兄をさえぎる。
彼もまた、龍の変化を解き、いつものローブ姿に戻っていた。
「シェミハザがいてくれたからこそ、これほど楽に決着がついたのだからね。
それに、彼が心配していたのは下級兵達の処遇さ、そうだろう?
彼らは自発的に、戦に参加していたわけではないものね?」
「は、その通りで……」

「ちっちっ、遊んでんだから、相手にすんな、サマエル」
そのときダイアデムが、指を振りながら口を出した。
「シェミハザもほっとけよ。こいつの遊びにつき合う必要なんざ、ねーから」
「くっ、貴様、何をほざく。少しはわきまえろ、このガキめ」
いつものことだと分かっていても、タナトスはむっとする。

紅毛の少年は舌を出し、負けじと言い返した。
「べー、オレのが思いっきし年上じゃん! 年上を(うやま)え、バーカ!」
「馬鹿だとっ! 貴様、いい度胸だな! 魔界の王たる俺に向かって!」

「いい加減にしないか、二人とも。シェミハザがあきれているぞ」
二人の間に割り込んで引き離し、サマエルは、ため息をついた。
「済まないね、驚いたろう、シェミハザ。
血なまぐさい戦いの後だし、緊張をほぐすために、じゃれ合っているとでも思ってくれ」

「何でオレが、こんなバカと!」
「誰が、じゃれ合っているのだ!」
二人は同時に叫び、シェミハザの眼は、ますます丸くなった。
彼はしばし、ぽかんと口を開け、魔界の最高権力者と、その弟の妻……と言っても、少年の姿をしている……の、掛け合い漫才めいたやりとりを見ていた。

それから、彼は、当初の目的を思い出し、声をかけた。
「あ、陛下……お取り込み中、誠に申し訳ございませんが、少しばかりご報告致したいことが……」
しかし、目の前の二人は、言い合いに夢中で気づかない。
笑いをこらえながら、サマエルが言う。
「放っておきなさい。私が聞くよ」

シェミハザは戸惑った表情のまま、うなずいた。
「は、はい……。
実は……タナトス陛下には、また裏切るつもりかと、疑われてしまいそうなのでございますが……。
わたくし、ガブリエルにとどめを刺せませんで……」
勢いよくタナトスが振り向いたのは、そのときだった。
「何だと!? もう一度言ってみろ!」

シェミハザの心臓は飛び出しそうになり、反射的に突っ伏した。
「も、申し訳もございません!
ガブリエルとは戦いましたが、殺すことはできませんでした!」
「まさか貴様、ヤツに同情して、逃がしたなどと抜かすのではあるまいな!
それで裏切っておらんなどとほざいても、まったく真実味はないぞ!」
タナトスは、堕天使に指を突きつけた。

シェミハザは、這いつくばったまま頭を振った。
「いえいえ、逃がしてなどおりません。毒とケガでかなり弱っておりますので、今、アザゼルが監視を兼ねて治療致しております。
実は、助命を願い出たのは、そのアザゼルなのでございます」

「……アザゼル? ああ、たしか、五人いる指揮官の一人だったな。
ガブリエルに恨みでもあるのか? そやつは」
「いいえ、その反対でございます。
お許し頂けるならば、妻にしたいと考えているようでして……」

「妻だと!?」
タナトスは、眼を剥いた。
「……ふん、ガブリエルはやはり女だったか。
しかし、最後まで抵抗した天使をたやすく許し、妻になどと……!
皆に示しがつかんわ!」
冷たく言い捨てる。

シェミハザは必死に訴えた。
「そ、そこを曲げてお願い致します、陛下!
彼女は、わたくし達の考えに賛同していてくれたのです。
しかし、天界を捨てることは出来ず……。
いえ、ありていに申せば、彼女はミカエルを愛しており、裏切ることが出来なかったのです!」

タナトスは眉をしかめ、腕組みをした。
「……むう、あの、ミカエルをか?
タデ食う虫も好き好きと言うが、余計にまずかろう。
恋しい男を殺すのを手伝った裏切り者に、愛情など感じるわけがあるまい」

「いいえ、お言葉を返すようで恐縮致しますが、わたくしはそうは思いません。
ミカエルは卑劣な男。彼女にも、それは分かっていたはず。
他方、アザゼルは皆に慕われており……」
「ふん、男に好かれても、女に好かれるとは限らんわ!」
「ですが!」

「待てよ、ンなトコで言い合ってても仕方ねーだろ」
いつまでも続きそうな押し問答に、ダイアデムが割って入った。
(らち)が明かねーな。どうする? サマエル」
「女心は複雑だからね、どちらの言い分にも一理ある。
しかし、案外、この手は使えるかも知れないな……」
考え込みながら、サマエルは答えた。

タナトスは弟をじろりと見た。
「どういう意味だ?」
「魔界に封じるのは、男だけにしたらどうかな。
我らはともかく、神族の男に子供は産めまい。ただ老衰し、死にゆくのみだ。
女は混血児を産み、その子、孫と続くうち、魔族と同化していく……」

「ふむ。封じ込めても、時が経てば、力をつけて盛り返す恐れがある、俺達のようにな。
それを未然に防ぐ、というわけか」
「そう。ゆえに、これも、その一例と考えられなくもない……アザゼルは魔族ではないが。
とにかく、一度話を聞いてみたらどうかな、タナトス」
「ああ。他にもせねばならんことが山積みだ、とっとと、そいつを連れて来い、シェミハザ」
「御意。ただ今すぐに!」
シェミハザは立ち上がると一礼をし、呪文を唱えた。