~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

2.因縁の対決(3)

「それでは、早速取りかからせて頂いてよろしいですかな、サマエル様」
プロケルの確認する声に、第二王子は(まばた)きし、物思いから覚めた。
“あ……ああ、そうだね。
今決めた通り、なるべく生け捕りにして欲しい、後で、まとめて魔界へ連行する。
各部隊にもその旨を伝達し、徹底させてくれ。
その間に、私とシンハは、積年の恨みを晴らす!”
紅龍は、拳を握り締めた。

「お任せ下されい、かような蚊トンボの群れなど、老いたりと申せどこのプロケル、(またた)く間に蹴散らしてご覧に入れましょうぞ!」
老公爵は胸をたたいたが、サマエルの視線に合うと、咳払いした。
「……おほん。まあ、ほどほどに致しておきますかな。
数十匹も足腰立たぬように致せば、抵抗もやみましょうし」
“そうしてくれ。さあ行こう、シンハ。宿敵を滅しにね!”
ライオンを肩に乗せ、紅龍はその場を飛び立つ。

いくらも行かないうちに、二人は天使の長を見つけた。
荒野に仁王(におう)立ちしているミカエルの、彼らを見上げる眼差しは、傲慢に近い自信に満ちあふれていた。
「ようやく来おったか、紅い悪魔め! 待ちかねたぞ、この時を!」

“待ちわびたのは、こちらも同じこと!
天使の長よ、お前の罪を、血肉をもって(あがな)うのだ!
先立っての戦いで、(むさぼ)ったお前の純白の翼、(すす)った生き血……今一度、我がものとしてくれよう!”
紅龍の青い瞳には、抑え切れない興奮が紅色となって混じり込み、紫を帯び始めていた。

「やれるものならやってみよ、我は以前とは違うと言ったはずだ!
愛玩物をそばに置かねば戦うことも出来ぬのか、腰抜け! 魔界の王子が聞いてあきれるわ!」
大天使は、いかにも憎々しげに答えた。
“心配するな、彼は、この戦いには加勢しない。お前と私、一対一の勝負だ!”
サマエルは断言し、シンハは、彼の背中から滑り降りて距離を取る。

しかし、ミカエルは懐疑的な姿勢を崩さず、尊大な口調で言い放った。
「ほう、悪魔の分際で、卑怯な真似はせぬとでも申すか!」
その刹那、揺れ動きつつも青が優勢だった紅龍の眼が、紅一色となった。
“我らがいつ、お前達のような卑劣な真似をしたと言うのだ!
お前の与太(よた)話など、もう聞きたくもない!
話し合いの時はとうに過ぎた、今こそ、戦いの時!”
その語調の鋭さは、シンハの毛を逆立てさせたが、紅龍の瞳はすぐ青に戻り、彼はほっと力を抜いた。

「元よりそのつもりだ! いくぞ、悪魔め!」
何も気づかぬミカエルは、紅龍に向かい、呪文を唱えた。
「──闇を(はら)う聖なる焔よ、光を生み(いだ)す輝やかしき者よ、汝の熱き力を以て、この邪悪なる蛇を焼き尽くせ!
──ゼストス!」
“……!”
紅龍は避ける間もなく、唸りを上げて襲い来る業火に飲み込まれた。

炎は天まで届く勢いで燃え盛り、激しく黒煙を上げ、龍の巨体そのものが、松明と化したかのようだった。
「ふん、何が最強の龍か、たわいない。
この火炎は岩をも溶かすのだ、骨も残さず蒸発してしまうがよいぞ!」
ミカエルは、熱気にほてった顔に満足げな笑みを浮かべ、みずからが作り出した火柱を見上げた。
『ルキフェル!』
シンハの呼びかけにも答えはない。

やがて、勢いを誇った炎も消え、ようやく煙も晴れた。
そうして現れた光景に、大天使は眼を疑った。
「そ、そんな馬鹿な!?」
“何だったのかな、今のは。少々、体が温まった感じはするが”
焦熱地獄にも等しい猛火の中で燃え尽きたはずの龍は、火傷の痕一つなく、ミカエルを冷たく見下ろしていたのだ。

『愚かなる者、ミカエルよ。
()の龍の身体が、何ゆえ紅に染まっておるのか、考える頭もないのか、汝には』
我がことのように胸を張るシンハの声が、誇らしげに響く。

「お、おのれ、悪魔め……いや、貴様の体が属性を表していることなど、先刻お見通しよ!
さあ、今度こそ最後だぞ!
──ウエルテクス!」
すぐにミカエルは気を取り直し、新たな呪文を唱えた。
虚空から現れた大量の水が渦を巻き、龍に襲いかかる。
「どうだ、熱せられた直後に冷やされれば、どれほど貴様の鱗が硬かろうと、一たまりもあるまい!」

“やれやれ、それは岩や金属の話だろう。
まあ、お陰で助かったよ。
さっきの火、熱はさほどでもなかったが、煙が出たから、喉が少々、えがらっぽくてね”
サマエルはそう言って、水流が自分の体に触れる前に、すべて飲み尽くしてしまった。

「ま、まだまだ!
──ヒョノスィエラ!」
大天使は、さらに攻撃を続行した。
凍える風が巻き起こり、雪を伴って龍の巨体に叩きつける。
「ああ、涼しいな、ちょうどいい風だ」
すさまじい吹雪をその身に受けても、サマエルは平気な顔だった。

「く、ならば──ケラヴノス!」
空一杯に稲妻が走り、轟音(ごうおん)を立てて龍の角に落雷する。
“おや、ちょっとちくりとしたぞ……ふふ、少し眩しいだけで、これもあまり用をなさないようだな”
紅龍は、のんきに額をなでた。

「くっ、くそっ、ば、化け物めが!」
歯噛みしながらも、ミカエルは攻撃の手を緩めず、果敢(かかん)に攻め立て続けた。
様々な属性の呪文を、矢継ぎ早に唱える。
だが、サマエルには、何の効果も及ぼさないのだった。

“残念だったな、ミカエル。紅龍は、流転(るてん)する世界の(そう)(つかさど)る。
風、地震、等々……しかも水は、力を強めてくれもする。
それと、知っての通り、神族が得意の聖魔法も、私には無効だ。
さて、そろそろこちらの番だな。まずは炎か──イグニス!”

「ぐわっ!」
火だるまになった大天使に、さらに追い討ちをかける。
“次は水だな──アクア!”
「うわっ!」
“どうかな? 熱した後に冷やされる気分は?
次が氷だったか──グラキエース!”
「うわああっ……」
“あとは雷撃──トニトルス!”

同じ呪文でも、桁違いに強力な魔法が発動し、さらには、尾や拳や蹴りなどの攻撃も威力が高く、見る間にミカエルは追い詰められていく。
闇に囚らわれそうになったのは最初だけで、その後のサマエルは冷静だった。
一方的となった戦いを、シンハは落ち着いて見守ることが出来た。

やがて、ミカエルはついに力尽き、倒れた。
“ミカエル、お前は天使長の名に恥じず、立派に戦った。
言い残すことはないか”
サマエルが声をかけると、大天使はうっすらと眼を開け、切れた唇を開いた。
「……貴様、は……まだ……出自の、ことを、知りたい、のか……?」

紅龍は肩をすくめた。
“いや、別に。今となっては、どうでもいいことだ。
私が取り替え子と呼ばれたのは、魔界の王子でありながら、魔法が使えなかったせいだからな。
それによく考えれば、私の姿……黒い翼や角は魔族のものだ。
母上は人族だし、お前とは、やはり、血縁関係はないのだろうな”

「そう、か……。だが……アイシスの、名誉のため、にも、言っておくぞ……。
彼女には、何も、しては、おらぬ……。
我は、ただ……妻に……迎えたかった、のだ……大天使、のみ……婚姻が、許されて、いたゆえ……。
彼女が、あろうことか……魔族……ベルゼ、ブルと恋に落ち……魔界に行っ、てしまう前から……我は、ずっと……。
彼女は、王妃となり……諦めた、はず、だった……。
されど……偶然、人界にて……再会した、折……またもや、心が燃え上がり……。
当然……彼女は、我を、拒んだ……触れたら……自害する、とまで……。
それでも……我は、彼女を、手放せなかった……だが、一週間が、経ち……さすがに、頭も冷えて……。
それゆえ……わざと、逃がした、のだ……ああ……彼女には、悪いことを、した……」

かすれた息を振り絞り、そこまで言うと、天使は再び眼を閉じた。
傷だらけで呼吸は浅く、顔色は土気色をし、捨てて置いても長くはないと思われた。

今際(いまわ)のきわの告白か。まことと考えてよかろう、ルキフェル』
シンハは、サマエルの背中に登り、その顔を見上げた。
“……そう、かな。(あけぼの)の女神といい、あまりにも偽りが多過ぎる……”
彼を見返す紅龍の眼は青かったが、心の声は暗かった。
『汝の心持ちも分かる。偽りと強制で固めた神族の言動に、最も翻弄されたは汝ゆえ。
されど、聞け、ルキフェル。汝が魔界王家の血を引く確証を、我が兄弟、“黯黒の眸”が、ついに見出したぞ』

“か、確証!? まさか……!”
すがるような紅龍の眼差しに、黄金の獅子は、燃え上がる瞳で応えた。
『汝、右生え際に、紫水晶色の髪が一筋(ひとふさ)生えておろう、それが証だ。
汝が父祖にして女神アナテの息子、モトの頭髪にも、それがあったという。
何十世代かおきに、魔界王家の直系のみに現れる遺伝的形質とのことだ。
通常、幼少時のみにて消えるが、成人後も残る場合がある、汝のごとくに。
すなわち……』

“こ、これが証だって? 本当に?”
思わずサマエルは、自分の髪……今は紅龍になっているためたてがみ……の、アメジスト色に輝く部分を、前足でつまみ上げた。

『左様。汝の母堂、アイシスは人族、ゆえに汝の頭髪は、魔族の血を通じ、伝わりしものと断言出来る』
沈んでいた紅龍の表情が、ぱっと明るくなった。
“ありがとう、シンハ。
お前はいつも、私の心を明るく照らしてくれるのだね……ああ、無論、『黯黒(あんこく)(ひとみ)
にも礼を言っておくれ”

すると、地面に横たわっていたミカエルが言った。
「……納得、したか……? とどめを……刺せ、サマエル……。
それとも、お前の、闇の中に……再び……我を、引き込むか……あの、恐怖の中、に……?」
サマエルは、大天使の眼を覗き込んだ。
その眼には、怯えも怒りさえも今はなく、ただ、静かな覚悟が浮かんでいた。

“やめておこう。お前の中にはもはや、恐怖の()み着く余地はないようだ。
闇を恐れぬ者に、闇は真の強さを発揮出来ない……。
生まれ変わるがいい、そして、今度は間違うな、ミカエル。
──デス・クリエイト!”
大きな爆発音だけを残し、天使長の肉体は消え失せた。

“……タナトス、始末はついたぞ。ミカエルは消滅した”
サマエルは、沈んだ心話で兄に報告した。
“何だ、詰らん、消してしまったのか。
俺だけでなく、皆もあやつの死体を見たかったと思うぞ。
にっくき神族の天使長、ミカエルの惨めな姿をな!”

“それでは、神族と同じレベルになってしまうよ。
あいつは私の父親ではなかったが、神族を代表する戦士だ、さらし者にするのは忍びない”
“ふん、戦の最中だぞ、今は”
タナトスは鼻を鳴らしたが、少し口調を柔らげた。
“だがまあ、よくやった、サマエル。
俺が戦ったとしても、バラバラにしたあげく、消し去ったかも知れん。
恨み骨髄に達する宿敵だからな”

“……それより、タナトス、そちらはどうだ? 情勢は”
“あらかた片づいた。これからプロケルの加勢にいく”
“では私も。シンハ、行くよ”
『心得た』
彼らは再び移動し、敵軍の真っただ中に現れた。

“ミカエルは死んだ! 武器を捨てて投降しろ! 命は保障する!”
タナトスはすでに到着し、敵に降伏を呼びかけていた。
龍に囲まれ、ミカエル天使長の死を知ったことで、天界の兵士達は戦意を喪失して、次々と武装解除され、捕虜になっていった。