~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

2.因縁の対決(2)

「お、おのれ、この不浄のけだもの!」
「よくも、曙の女神様を!」
怒り心頭に発した六大天使達が、黄金のライオンめがけて殺到しようとしたそのとき、三頭の龍が現れて、彼らの行く手をさえぎった。

“よくやったな、シンハ。
さあ、天使ども、覚悟しろ。貴様らの相手は俺達だ”
加勢に駆けつけて来た黔龍(けんりゅう)が、牙をむき出し威嚇(いかく)する。
天使達はひるみ、さすがに逃げ出しはしなかったが、後ずさった。
いくら女神を殺されたからと言って、巨大な敵目がけて突っ込んでいくのは、無分別というものだった。

“魔界の王子を種馬扱いするとは、まったく、いい度胸だ!
貴様らの下劣な浅知恵には、あきれ返って物も言えん!
そんな下らん企てを試みたことを、今すぐ後悔させてくれるわ!”
タナトスの念話は怒気を(はら)み、鼻息も荒かった。

「お、お前達の(しゅ)の保存にもなるのだぞ、それだのに、高貴なる女神のお命を奪うとは……」
一人の天使が、勇を(ふる)って反論しようとするが、殺気でぎらつく黔龍(けんりゅう)の瞳に睨みつけられて縮み上がり、それ以上、抗議は続けられない。
“ふん! 子種を得るためと称し、誰彼構わず寝る雌犬の、どこが高貴だと!?
サッキュバスと、どう違うのだ!”

“やっぱり女神だけが大事で、サリエル、って子はどうでもよかったんだね、可哀想に。
女神の方はまあ、しょうがないけど、サリエルの方は……。
そうね、あたし達からすれば、兄弟みたいな感じ? だったんでしょ?
シンハ、何とかならなかったの?”
碧龍シュネが尋ねた。

シンハが返答する前に、碧龍よりやや大きい朱龍、リオンが口を挟んだ。
“無理言っちゃいけないよ、シュネ。お母さんを殺されたりしたら、味方になるわけないだろ。
それに、あの子だって、ぼくらを敵と思ってたはずだよ。そう教えられて育ったに決まってる”
“でも、二人一緒になら、味方に出来たかも知れないじゃない”
シュネは口を尖らせる。

“うーん、それはもっと無理だと思うけど。だって女神なんだし、説得は難しいよ。
それに、もし、味方に出来たとしたって、サリエルの方は特に、二つの世界の間で苦しむことになったかも知れない……。
ぼくらはまだいいさ、人間と魔族は、今は、敵対してる訳じゃないもの。でも、……”
“け、けど、だからって、殺しちゃうのは……”
“だったら、シンハの立場はどうなるのさ。昔の恋人がいきなり出て来て、子供までいるなんて”

“あっ、ご、ごめんなさい、シンハ”
シュネは慌てて、頭を下げた。
“あ、あたし、そ、そういうつもり、じゃなくて。
た、ただ、ど、どんないきさつが、あ、あったにしても、せ、せっかく生まれて来て、あ、あたし達と、ち、血のつながりも、あるんだし、な、何より、サマエル父さんの子供、なんだし……。
よ、よく話し合えば、わ、分かり合えたかも、って思って……”
焦るあまり、彼女はついつい、どもってしまう。

ライオンは、ぶるぶるとたてがみを振るわせた。
『気に病むでない、ベリル。委細承知しておる。汝は優しき心持ちゆえ、左様に考えるのであろう。
我もルキフェルも迷った。なれど、如何(いかん)せん、ここは戦場。敵に情けは禁物ぞ、ベリル』
“……うん。仕方ないんだね……”
少し悲しそうに、シュネはうなずく。

タナトスが、彼らの議論にとどめを刺した。
“シュネ、過去を蒸し返すのはやめろ。いくら悔やんだとて取り戻せんぞ。
俺達は、おのれの未来のために戦っているのだ、過去に受けた行為への復讐ではなくな。
それにサマエルのことだ、なまじ女神が生きていては、情を移し、うじうじ言い出すに決まっている、さっさと消して正解だったのだ。
さ、シンハ、早くヤツの後を追え。あいつが我を忘れ、世界を崩壊させたりしては元も子もない、頼んだぞ。”
『心得た。武運を祈るぞ、黔龍王』
黄金のライオンは思念に導かれ、夫の下へと向かった。

一方、先行したサマエルは、天使達に十重二十重(とえはたえ)に取り囲まれ、宿敵ミカエルの行方を探すこともままならないでいた。
意外にも、この短時間のうちに、敵の援軍が到着していたのだ。
以前、ミカエルは手痛い敗北を喫しため、自分との直接対決を避けようとしているのだろう。
攻守の要である天界の将、大天使ミカエルを失っては、神族の勝ち目は薄くなる。
それは当然の策と言えたが、彼の苛立ちは募るばかりだった。

そのとき、折りよくシンハが彼を見つけ、肩に飛び乗って来た。
『ルキフェル、手を焼いておるようだな』
“ああ、シンハ。私は、どうしてもミカエルと戦わなければならない。
今度こそ決着をつけるのだ!
あいつを倒さなければ、私は真の魔族になれない、そんな気がするのだよ!”
サマエルはあえて、女神達のことは尋ねなかった。
『相分かった、こちらも援軍を呼び、雑魚どもの始末を任せるとしよう』
ライオンは思い切り跳躍し、黄金色の稲妻のように空間を切り裂く。

その裂け目から、男が一人、飛び出してきた。
豪華な銀の(よろい)をまとい、はためくマントは漆黒、雪白の髪に尖った耳を持ち、鋭く輝く琥珀色の瞳、虹彩(こうさい)は、猫のように細長い。
年に似合わぬ身のこなしで、二人の前にひざまずいたのは、公爵位を息子に譲り、引退したはずのプロケルだった。
「シンハ閣下、サマエル殿下!
わたくしめにもお手伝いさせて頂きたく、老体に鞭打って参上(つかまつ)りました!」

“ああ、プロケルか、よく来てくれた。でも、無理は禁物だよ”
ほっとしたように、紅龍は歓迎の意を述べた。
「は。これは、ベルゼブル様のご命でもございます。
いかな年を重ねましょうとも、かつて氷剣公と呼ばれしこのプロケル、まだまだお役に立てますぞ」
元公爵は、元気よく立ち上がり、冷たい輝きの剣を抜き放ち、さっと振った。
「──さあ、皆の者! 魔界王家のおんために、存分に働くがよい!」
それを合図に、次元の裂け目を通り抜け、魔族の兵士が次々飛び出して来ては、戦列に加わってゆく。

後を任せて飛び立とうとした紅龍は、急に動きを止め、魔界公を振り返った。
“そうだ、プロケル。敵はなるべく、殺さずに捕らえて欲しいのだが”
「それはまた……何ゆえでございますかな」
プロケルは不審そうに尋ねた。

“今、思いついたのだけれどね。
勝利の後、敵を全員、魔界に封じ込めてやったらどうだろうか。
生きる極限の過酷な環境で、祖先が仕出かしたこと、自分らがして来たこと……それらを改めて考えさせてやるのさ。
我らが、どれほど苦しんで来たかを、じっくりと分からせてやろう。
憎しみに駆られて神族を根絶やしにするのはたやすい、けれどそれでは、敵と同じところまで堕ちてしまうだけだろう?”

それを聞いたシンハは、眼をキラリと光らせた。
『かつて神を僭称(せんしょう)せし者どもが、汝らの父祖に致したごとく、きゃつらを魔界に封じるとは、痛快至極なる案』
老公爵も深くうなずいた。
「さすがはサマエル様、深遠なお考えでございますな。このプロケル、感服仕りましたぞ」
“そう言ってもらえてうれしいよ。
タナトスも賛成してくれるといいのだが……あまり、殺生(せっしょう)などしたくないからね”

サマエルの提案を聞いた刹那、黔龍は大きな口を開けてのけぞり、大笑いを始めた。
龍は声は出せない。それは笑いと言うより、咆哮(ほうこう)に近かった。
ひとしきり笑った後、涙をぬぐいながらタナトスは答えた。
“いい! そいつは実にいいぞ、サマエル!
肥え太った尊大な豚どもが、魔界に放り込まれてどんな顔をするか、ぜひとも見てみたいものだ!
くっくっく……貴様、よくそんなことを考えついたな。
さすが、魔界一の策士と呼ばれるだけのことはある”

紅龍は、軽く肩をすくめた。
“大した考えではないさ。
それに、私はよく策士と呼ばれるが、そんな大層なこと、さほどやった覚えはないのだがねぇ”
“ふ、謙遜せんでもいい。
今回に限らず、俺は常々、貴様の立てる作戦は見事だと思っているのだからな。
よし、皆殺しにしても飽き足らんヤツらだが、俺とて連中ほど極悪非道ではない。
承諾してやるから、さっさとミカエルを食ってしまえ!
ヤツさえいなくなれば、敵も総崩れになるはず、そこを追い立てて捕らえ、魔界に放り込んでやれ!”
“ご賛同痛み入るよ、タナトス”

サマエルは兄との念話を打ち切り、言った。
“許可が下りたよ。魔界王の命として、皆にも伝えよう。まずは……”
「留守を守って頂いているベルゼブル様に、お伝えを?」
老公爵が、彼の答えを先取りした。
“そうだな。お前から伝えてくれるか”
彼は、前魔界王と直接話はしたくなかった。
「御意」
プロケルは、かつての主に念話でその旨を伝えた。

「ベルゼブル様は、サマエル様のご提案を大層お喜びでございます。
前魔界王として、そういう王子を持てたことを誇りに思う、そうお伝えするようにとの仰せでございました」
サマエルはうなずいたが、心は冷ややかな思いで満ちていた。
(ちやほやすれば力を出すと……あるいは裏切らないとでも思っているのか。
この戦でいくら功を立てても、平和な地に私の居場所はない……戦が終われば“紅龍”は用済み、つまり、私もお払い箱なのだから)

そして、彼は思い出した、戦の準備が始まった頃、ベルゼブルの病床に呼び出されたことを。
会議の合間に時間を作り、会いに行ったのだが、前魔界王は口を開きかけては躊躇(ちゅうちょ)し、結局、何の話もなかった。

次に、イシュタルが迎えに来たときは、彼が断るより先に、タナトスが怒り出した。
「叔母上、いい加減にしろ、今は大事なときなのだぞ!
暇人には付き合っていられんと、くそ親父に言っておけ!」
「まあ、酷い! あの方はご病気で、気が弱くなっておられるのよ、それを!」
「待って。怒鳴り合いでは、何も解決しませんよ」
言い合う二人の間に、サマエルは割って入った。

「ああ、サマエル……」
「叔母上、陛下にはこうお伝え下さい。
あなた様が話すのをためらわれるほどの内容……それを、私が聞いて、正気でいられるのでしょうか?
私が狂えば、この宇宙は崩壊します。
そこまでいかずとも、私が動揺し、全力を出せなくなっては、戦に不利なのでは? 
生きて勝利を迎えた暁に、ゆっくりお話を伺います。
もし、今回の戦で、武運つたなく(たお)れたならば、その話は、私には縁がなかったのでしょう、と」

「そんな……あのね、サマエル、兄上は……」
懸命に訴えようとする叔母に、彼は微笑みかけた。
「では、叔母上、私が狂ってしまったら、あなたが殺して下さるのですか?」
「う……」
イシュタルは唇を噛み、青金色の瞳が涙でうるんだ。

サマエルは眼を伏せた。
「済みません……ですが今は、戦も始まろうかという切羽詰った状況……深刻な話を、冷静に受け止める精神的余裕は、正直……」
「分かったわ……そう伝えておくから……」
叔母は、よろめくようにして去っていった。

そのときのことを思い返し、サマエルはライオンの喉をなでながら、他の龍達に視線を送る。
(親などいないと思って今日まで来たのに、今さら、父親はベルフェゴールだ、などと聞きたくもない。
まあいいさ、今の私には家族がいるし。
タナトスも、私を弟と認めてくれた、後は、この戦に勝つだけ……)

せんしょう【僭称】

身分を越えた称号を勝手に名乗ること。また、その称号。