~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

2.因縁の対決(1)

紅龍の魔眼に見据えられたミカエルの体は硬直し、ぴくりとも動けなかった。
だが、彼は、そのことよりも、邪悪なはずの怪物から伝わって来る、深い悲嘆の感情に戸惑っていた。
“我らは戦いなど望まない……緑なすウィリディスを返して欲しいだけだ……幾星霜(いくせいそう)待ちわびた……故郷への帰還を叶えて欲しい、ただそれだけ……”
「だ、黙れ、天界は、我々神族のものだ!」
肌に張り付くように、じわじわと侵食して来る、紅龍の哀しみの呪縛……必死の思いでそれを破り、天使長は叫んだ。

「見よ、我は神の慈悲を得、貴様の邪視に対抗する術を身に付けたのだ!
──皆の者、敵襲だ! この古き毒蛇を倒せ!」
しかし、ミカエルの叫びに応じたのは大天使達だけで、紅龍の存在に気づいた途端、残りの者達は我先にと逃げ始めた。
「く、くそ……だが、まだ奥の手がある!」
天使の長は、エルピダを閉じ込めた魔封具を遠くに放り投げると、虚空に向かって呼びかけた。
「──主、そして信仰に賢き王よ、神を(おそ)れぬ者どもに、死の鉄槌(てっつい)を!」

『ルキフェル、ここにおったか、単独行動は危険ぞ!』
それとほぼ時を同じくして、シンハが龍の右肩へ駆け登って来た。
“ああ、シンハ、済まない、ちょっと急ぎでね”
その間に、紅龍は魔封具を拾い上げ、いともたやすく封印を解いた。
“さ、エルピダ、お帰り。もう捕まっては駄目だよ”
『面目ない』
紫の蛇は頭を下げ、自陣に戻っていく。

直後、空間が切り裂かれ、光があふれて声が響いた。
「おぞましいこと。闇に()(けが)れた蛇が、清浄な日の下へ這い出て来るなんて!」
シンハは、険しい顔で唸った。
『汝らこそが、我らを呼びつけたのではないか、騙し討ちの意図を以て』
「まあ、綺麗ごとで戦に勝てると思って?」
言いながら裂け目から出て来た女性、その顔を見たサマエルは、自分の眼を疑った。
“マ、マトゥタ!? まさか、自殺したはずでは……”

(あけぼの)の女神は、二つ名の由来となった輝かしい黄金の髪を後ろに振りやり、金の瞳を傲慢に光らせ、肩をそびやかした。
「軽々しく名を呼ばないで。誰が自害などするものですか。
さ、おいでサリエル。よくご覧、これがあなたの父親ですよ、今は龍の姿ですけどね」
「はい、母上」
細身の青年が進み出ると、サマエルの驚きは最高潮に達した。
“ええ!? ち、父親……私が!?”

「出産率の低下、人口の減少……新しい世代の誕生が急務とされていたにも関わらず、人族との混血は成功せず、わたくしに白羽の矢が立ったのよ。
魔物と交わるなんて、おぞましい限りだったけれど」
マトゥタは肩をすくめる。
かつて恋人だった女性の、あまりの変わりように、サマエルは声も出ない。

その狼狽ぶりを楽しむように、女神は、氷の炎と言った感じの笑みを唇に刻み、さらに刺のある言葉を投げつける。
「馬鹿ね。誇り高き天界の女神が、お前ごとき化け物を、本気で相手にするとでも思って?」
「くく、悪魔よ。貴様も他人のことをとやかく言えぬな。
さて、我は軍の指揮を取らねば。後はお任せ致しましたぞ、女神」
ミカエルは嘲笑を残し、姿を消した。

『何たる悪辣非道(あくらつひどう)奸計(かんけい)であろう! ルキフェル、気に病むでないぞ!』
シンハの瞳とたてがみの炎が、怒りに激しく燃え上がる。
その熱さに現実に引き戻され、サマエルは歯を食い縛った。
“くっ、例え親子だろうと、敵とあらば容赦はしない!
だが、無論、味方となれば話は違う……サリエル……だったね、こちらへおいで……”
紅龍の眼が、妖しい輝きを帯びる。

「あの……魔眼は、僕には、通じません、よ……。
だって、僕も、その……」
伏し目がちのサリエルの答えは、かすれて途切れがちだった。
弱々しげに震える、うるんだ大きな瞳は魔族の紅、対照的に、後ろできちんと束ねた髪は、母親譲りの色を持つ。
どこかアンバランスな印象を受けるのは、二つの世界に引き裂かれた外見をしているからだろうか。

「どうしたの、胸をお張りなさい、サリエル。あなたは特別なのよ」
『たしかに特異な存在であろう、女よ。
なれど、我にはその者が、みずからを恥じているようにしか見えぬぞ』
シンハが口を挟むと、マトゥタは柳眉(りゅうび)を逆立て、すらりとした足を踏み鳴らした。
「何ですって! たかが石ごときに、神々の何が分かるというの!」

その刹那、紅龍の眼から青白い光線が発射された。
「危ない、母上!」
爆発で地面が大きくえぐれる。
サリエルが、とっさにかばわなければ、女神は黒焦げになっていたことだろう。
「何をするの、この悪魔!」
“我が妻を侮辱することは許さない、偽りの愛を語る者よ!
私は、神と魔の垣根を越えて、真実、あなたという存在を愛したのに……!”

「汚らわしい、魔物ごときに、“愛”を口にする資格はないわ!
わたくしは女である前に女神、そして、穢れた魔物を消し去るために、神の存在はある!
さあ、サリエル! この古き蛇と邪悪な獣を滅しておしまい!」
女神マトゥタは、勢いよく紅龍に指を突きつけた。

「はい、母上」
青年は従順に翼を広げ、飛び立つ。
その翼は魔族とは違い、コウモリ状でこそないものの、色は真っ黒だった。
忌み嫌われる魔眼と黒鳥の翼……母親が女神という位にあっても、天界では歓迎されない立場にいたことは明白だった。

『哀れな……。何と言う存在を、神族は創り出したものか……。
ルキフェルよ、ここは我に任せてはもらえまいか、汝も辛かろう』
シンハが悲しげに切り出すと、怒りも消えた紅龍は、沈んだ調子で答えた。
“……そう、だね。本来なら、私が始末をつけるべきなのだろうが……。
なるべく苦しまないよう、一思いに葬ってやっておくれ……手数をかけて済まない、シンハ”
『心得ておる』
シンハが輝き出すと同時に、紅龍は姿を消した。

サリエルは空中で急停止した。
「やっぱ親子だな、眼の辺りとか、よく似てら」
彼の目の前に浮いていたのは、人間で言えば十二歳くらいの少年だった。
可愛らしい顔立ちは少女のよう、透き通るような肌、頬にはそばかす、紅い瞳の中で金の炎が燃え立つ。
紅い髪を後ろで結い、袖なしの短い上着を羽織り、肌が透けるふくらんだズボンに、つま先が反った絹の靴を履いている。

「誰だ、お前は!?」
戸惑うサリエルに、マトゥタが声をかける。
「サリエル、油断しないで!
見かけに騙されては駄目、それは“焔の眸”、魔界の邪悪な宝石の化身、さっきのライオンの変化した姿よ!」
「そうか、こいつが!」
サリエルは、さっと身構えた。

「そ。このオレが“焔の眸”さ。今は、サマエルの奥方って呼ばれることの方が多いけどな」
「お、奥方だと?」
またもサリエルが面食らうと、少年はこっくりうなずいた。
「うん。あぁ、つまりお前にゃ、義理の母親ってコトになんのか?
よろしくな、息子」
紅い髪をくるくると指に巻き付けながら、化身は、人懐こく微笑みかける。

「は、母親……?」
サリエルは毒気を抜かれてぽかんと口を開け、いたずら好きの妖精めいた少年を見つめた。
「サリエル、何をしているの、早く壊しておしまい!
“それ”は石に宿る邪悪な霊、男でも女でもなく、生き物でさえないの!
闇の力によって産み出された、実体がない悪霊なのよ!」
焦れったげに女神が叫ぶ。
しかし、サリエルの眼は、赤々と燃え上がる化身の瞳に吸いつけられたままだった。

ダイアデムは歌うように続けた。
「ひっで~言い草だなぁ、女神ぃ。たしかにオレは、生きちゃいね~さぁ。
けど、サマエルは言ってくれたんだよぉ。たとえ石でも、心を持ってれば~生き物とおんなじだ、って~。
ンなコト言われて、嫁になる気になっちまったのさ~。
たしかに、初めは、からかってるんだって思った。次にゃ、罪滅ぼしをさせようとしてんだって思いもしたよ。
けど、違ってた。あいつは本気で、オレを愛してくれたんだ~」

化身が言葉を発するたびに、くるくるとよく動く瞳が、紅から紫や青や(みどり)や黄、ときには薄墨(うすずみ)色にと、千変万化(せんぺんばんか)に色を変えていく。
サリエルは、話の内容よりも、妖しく移りゆく輝きに魅せられているようで、ただうっとりと彼を見つめ続けていた。

(よし、いける!)
長年、自分の輝きに(とりこ)になる者を見て来たダイアデムは、手ごたえを感じて、ここぞとばかり、まくし立てた。
「けど、あいつ、お前のおふくろのことも、忘れてなかったんだぜ。
自分のせいで死なせたと自責の念に駆られて、妻帯したのも何千年も経ってからだった。なのに……。
血も涙も心もねーよなぁ、神族って。
なあ、サリエル、お前は幸せだったか? 優しくしてもらえたのか?
その眼、翼……お前は魔族だ。魔界に来いよ、こっちだって色々あるけど、皆、歓迎してくれるぜ」

魅惑的な輝きを伴う化身の言葉は、青年の心に染み入り、目蓋が徐々に閉じられていく。
不意に現れた息子……厳しいことを言ってはいても、味方に出来たなら、サマエルは喜ぶに違いない。
ダイアデムが、成功を確信したそのとき、輝く光輪が彼に襲いかかった。
「サリエルから離れなさい、このけだもの!」
「へ~んだ、当たらねーよ、くそババア!」
ひらりと身をかわして悪態をつき、化身はすばやく頭を巡らした。

(ちっ、せっかくうまくいってたのに!
けど、ここで母親を殺ったりしたら、それこそ寝た子を起こすよーなもんだ……魔族の王子と女神の混血の力なんて、想像したくもねーや。
しっかし、頭くるぜ。こいつがしゃしゃり出て来なけりゃ、思い出も綺麗なままだったってのに!
インキュバスに似合わず、純なサマエルの心をもてあそびやがって!
やっぱ、すっぱり殺るしかねーな!)

「正気に戻りなさい、サリエル!」
母親に強く揺さぶられても、サリエルの眼の焦点は合わない。
「あ……あ、母上……邪魔、しないで……とても、いい、気持ち……」
「しっかりなさい、魔物の血を引く者は、あの輝きに囚えられてしまうのよ!
ちゃんと自我を保って!」
カッとなった女神は、息子の頬を張り飛ばした。

「あ……母上?」
ようやく、サリエルは我に返る。
「あれは敵なのよ! しゃんとしなさい!」
「は、はい……」
青年は頭を振るが、先ほどの陶酔が忘れられない様子で、ともすれば化身の輝きを眼で追おうとしてしまう。
「何てこと……!」
女神は唇を噛んだ。

その間に、“焔の眸”は、攻撃形態シンハへと再び変化していた。
『マトゥタ、もはや覚悟せよ。
曙の輝きも刻と共に衰え、いずれ闇に沈む』
「女神たるわたくしは倒せても、このサリエルはどうかしら?
サマエルの子なのよ?」
攻撃されるわけがないと高をくくってか、女神は、笑みさえ浮かべて息子の肩を抱く。

『我が子を盾とするか、女よ。されど、()うに処刑許可は下りた。
親子共々、原初の混沌へと還るがいい!』
言うが早いか、シンハは高温の炎を吐いた。
「えっ!?」
「うわっ!」
不意を突かれた女神達は、避ける間もなく炎の直撃を受け、すさまじい高熱に体は蒸発して消え失せた。
辺りに漂う肉が焦げる臭いだけが、そこに有機物が存在したという証だった。

あくらつ【悪辣】

非常にたちが悪いさま。やり方があくどいさま。

ひどう【非道】

1 人としてのあり方や生き方にはずれていること。また、そのさま。

かんけい【奸計/姦計】

悪いはかりごと。悪だくみ。