~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

1.亜空間での戦い(4)

数時間後、追いすがる魔族を振り切ったと信じた天界の軍団は、残った兵を取りまとめ、陣を整えることとした。
「天使長閣下、報告致します。
第一部隊の死者は二千、行方不明者は千、負傷者は千二百、以上です!」
「第二部隊の死者千五百、不明者は千百、負傷者は千八百です!」
「第四部隊の死者千百、不明者は千三百、負傷者は千五百です!」
「第五部隊の……」

しかし、次々届く報告を聞くたび、ミカエルを筆頭とした大天使達の表情は、険しくなり、雰囲気も重苦しいものとなっていく。
損害は、想像以上に甚大(じんだい)だった。
ろくに戦ってもいないというのに、三万二千あった兵力は、半減してしまっていたのだ。
丸ごと寝返った第三部隊は言わずもがな、死亡が確認されていない行方不明者も、ほとんどが投降、ないしは脱走したと思われ、そのことも、大天使達の苛立ちと焦燥感を増幅させていた。

「形勢は完全に我が方に不利、一旦天界に戻り、態勢を立て直しましょう!」
「いや、それでは、追撃を受けた場合、天界が危ういですぞ!」
「そうです、むしろ、ここに増援を要請した方がよろしいかと!」
「ですが、天帝様に何と申し開きするのですか!
敵に後ろを見せたなどと、末代までの笑い物です!」
「天使長様、ご決断下さい、退却か、残留か、それとも!」
六大天使のうち、五人が口々に言い立て、ミカエルに詰め寄った。

彼らの攻勢に、天使長は口をへの字に曲げた。
怒鳴りつけてやろうかと思ったが、長たる自分が動揺すれば、さらに不安を(あお)ることになる……そう考え直し、彼は、努めて穏やかに話し始めた。
「皆、落ち着け。しばし一人で策を練りたい。
何、さほど時間は取らぬ。考えがまとまれば、すぐに知らせるゆえ、お前達はその間、休息を……」

彼の心も知らず、五人は一斉に異を唱えた。
「こんなときに休息ですと!?」
「そんな悠長な!」
「まったくです、いつ、魔物どもの追撃があるか!」
「そうです、のんびりはしておられませぬぞ、ミカエル様!!」
「すぐに対策を立てねば!」

ガブリエル一人だけが、冷静だった。
「まあまあ、皆様。落ち着いて。
お一人にして差し上げましょう、わたくし達が周りで騒ぎ立てたら、お考えもまとまりませんよ」
同僚達をなだめ、それからミカエルに礼をし、去っていく。
渋々、他の大天使達もその場を後にした。

部下達が四方に散ると、彼は、ほっと息を吐き出した。
常に自信にあふれている天使の長が、こんな風にため息を漏らすなど、前代未聞のことだった。

伝説の龍の登場、さらには八千もの兵が寝返ったこともあり、天界の兵士達の間には、厭戦(えんせん)気分が蔓延(まんえん)していた。
そこかしこにたむろし、ひそひそと不安げに話し込んでいる者達はまだましな方で、完全に戦意喪失し、虚ろな眼を見開いてうずくまる者や、血のにじむ傷を押さえ、うめき声を上げている者、果ては、地面に横たわり、ぴくりとも動かない者までもが、否応なく天使長の眼に入って来る。

天使は治癒能力に優れ、傷を受けても、すぐに戦線復帰できるはずだった。
だが、新しく出現した四頭の龍との戦いでは、まったく勝手が違った。
傷は、治るどころか腫れ上がって熱を持ち、神族の薬や魔法では治療が困難だった。
龍達は、爪や牙に、特殊な毒を持っていたのだ。
敵の武器にもその毒は塗られており、少しかすっただけでもひどい苦痛をもたらして、士気の低下に拍車をかけていた。

(何という屈辱! これが、無敵を誇った天界の猛者(もさ)軍団だというのか! 
魔物ごときに歯が立たぬどころか、このままでは士気崩壊に陥り、軍が霧散しかねんではないかっ!)
天使の長のプライドはズタズタだった。
固く握った拳が震える。

(いや、興奮するな、頭を冷やせ)
ミカエルは大きく息を吸い、首を振った。
(戦況を好転させるには……やはり、ひとまず天界に戻り、兵の交代や補充を行わねばな。
さすれば、戦意も高揚し、無様な醜態をさらすことはもはやあるまい、今度こそ、魔物どもを駆逐(くちく)してくれよう。
外聞の悪さなど構ってはおられぬ。天帝様のご叱責(しっせき)も甘んじて受けよう、他に方策はないのだからな……!)
分かっていてもやはり口惜(くちお)しく、天使の長はしばらく、憤まんやるかたない表情で唇を噛み締めていた。

(永劫とも思える長き年月、星の海をさすらい、ようやく安住の地を見出した偉大なる先祖……その子孫である我らが、魔物ごときに敗北を(きっ)するなど、許されるわけもない。
神族の名誉と、何よりその存続を賭けて、必ず勝たねばならぬ!
退却と言っても、逃げるのではない。戦術的後退だ、まだ手はある!)
そう自分に言い聞かせ、ようやく心の整理をつけて顔を上げた、そのとき。

陣地からかなり離れたところに、ぽつんと一人でいる天使に、ミカエルは気づいた。
あんなところで何をしているのかと、天使の視線をたどる。
すると、岩陰にいる一匹の蛇に行き当たった。
ここは人工的に作られた亜空間、荒涼とした平原が広がっているばかりで、生き物などいるはずもない。

(ほう、敵の斥候(せっこう)を捕らえる気か。
あやつが手柄を立てれば、士気も多少は上がるやも……ん?)
感心しかけたミカエルは、首をかしげた。
敵を捕獲するつもりにしては、天使の立ち居振る舞いは奇妙だった。
武器を手にするでもなく、異常なほど人目を気にし、きょろきょろしている。
不審の念を抱いた天使長は、透明化する魔法をみずからにかけ、密かに近づいてみることにした。

蛇の体色が鮮やかな紫で、コウモリのような翼があると分かるところまで来たとき、天界の兵士が、蛇に何事かささやきかけるのが見えた。
逃げようとした蛇は空中で止まり、振り返る。
再び兵士が何か言うと、蛇はゆっくりとその手に止まり、ちろちろと舌を出して、それに答えた。

(うぬ! あやつめ、敵方に通じた間諜(かんちょう)か!)
ミカエルはかっとなり、一気に近づいて蛇をつかむと共に、兵士を羽交い絞めにした。
「あっ!?」
「捕らえたぞ、この裏切り者め!」
「ち、違います、ミカエル様、わ、わたくしは……!」

「申し開きは、陣に戻ってからにしろ!
──カルケル!
──ペッカートル!」
天使の長は魔法を唱え、蛇を鳥かごのような魔封具に閉じ込めるのと、天使を縄で縛り上げるのを、同時に行った。

『しまった!』
地面に転がった魔封具の中で、蛇は暴れたが、時すでに遅し。
それには眼もくれず、ミカエルは、倒れ込んだ天使の顔を、憎々しげに足で踏みつけた。
「この間諜め、見せしめにたっぷりと拷問して、すべて吐かせてくれるわ!」
「お、お許しを……」
がんじがらめに縛られた天使は、弱々しくもがく。

その顔を覗き込んだミカエルは、はっと息を呑んだ。
「貴様、熾天使か!
……くそ、残った熾天使も全員、謀反の疑いありとして取り調べねばな!
──フラッゲラム!」
鞭を取り出した彼は、陣地に連れ帰るのも忘れ、動けない天使に容赦なく振り下ろした。

「あうっ! お許しを、あっ、あっ、お、お許しをっ……!」
「ならば吐け! すべてを!」
「知りません、何も知りません! お助けを!」
「黙れ、裏切り者! そんな詭弁(きべん)が通じると思うか!」

大天使を除き、天使は階級ごとに、ほぼ同じ姿形をしている。
運悪く、この天使は裏切ったシェミハザと同じ熾天使で、そっくりな顔をしていたことが怒りに油を注ぎ、天使長は、滅茶苦茶に鞭を振るった。
「お許しを……」
悲鳴を上げ転げ回っていた天使は、その一言を残し、気を失った。

「くそ、まったく、しぶとい……!」
肩で息をしながら、ミカエルは天使を仰向けにした。
途端に、青い瞳が異様な光を帯び、ミカエルは天使の長にまったくそぐわない邪悪な笑みを浮かべ、舌なめずりをした。
縄を外し、血にまみれた純白のローブを引き裂いて、天使の全身を露出させる。
「くく……やはりシェミハザそっくりだな、体も……」
ミカエルが、今にも、意識がない天使に覆いかぶさろうとしたとき。

『その辺でやめておけ、愚天使。陣から離れているとはいえ、丸見えだぞ、恥ずかしくないのか。
それに、その天使は本当に何も知らない。さっきは、今からでも投降出来るか、と……』
あきれたような蛇の言葉を、大天使は、ぴしりと鞭を振り下ろすことで、さえぎった。
「黙れ! 神々は我ら天使にとって親も同然、それを裏切るとは、万死に値するわ!」

『……愛してもくれない親兄弟など、いない方がましさ。赤の他人なら、諦めもつくけれどね』
淡々とした口調で、紫の蛇は答えた。
「くっ、貴様、あの忌々しいサマエルの使い魔だな!?」
ミカエルは鞭の先で、魔封具に封じた蛇を指す。

蛇は、サマエルに似た紅い眼を細めた。
『はずれ。私の使い魔ではないよ。
私の一部を使って創られたから、こうして会話が出来るというだけさ』
「何ぃ、どういうことだ!?」
思わず、大天使は魔封具を拾い上げた。
蛇は、カゴの鳥さながら、枠越しにミカエルを見返した。
『分からないか? 私本人が、この蛇を通じて話しているのだよ』

「き、貴様か!」
『それにしても、天使の長ともあろう者が、場所柄もわきまえず、公衆の面前で破廉恥(はれんち)な行為に及ぼうとするとはね。
淫魔の王であるタナトスでさえ、そこまではしないというのに。
さすがに示しがつかないだろうと……ああ、放っておけばよかったか、士気がさらに下がって、こちらには好都合だったな。
だが、その天使が不憫(ふびん)でね。(はずかし)めを受けるところを、皆に見られるなんて……』

「……く、裏切り者には、そんな生ぬるい仕置きでは足りぬわ!」
顔を紅潮させ、魔封具ごと蛇を燃やしてやろうとしたミカエルは、いや待て、これは使えるぞと思い直した。
「……そんなことより、貴様、こやつを取り戻したくはないか?
一人で来る度胸があるなら、返してやってもよいぞ」
紫の蛇は、首を横に振った。
『そんな手が二度も通用すると……いや、“紅龍”で行けばいいか。
あれは、ほぼ不死身だしな』

ミカエルは眉を寄せた。
「何だ、その、“ほぼ不死身”というのは」
『紅龍を倒す手段はある……だが、お前には教えない。
それに、特別な資格を持った魔族にしか、紅龍を殺すことは出来ないのさ。
残念だったな』
蛇は、べーっと舌を出した。

「……むう」
ミカエルは少し考え、それからにやりとした。
「ならば、この我が、真実、貴様の父親だと言ったら?
貴様の母を拉致した折、我は思いを遂げ……その結果、貴様が生まれたのだ、と」
衝撃的な言葉に、蛇は息を呑み、身を固くした。
眼の輝きが失せ、ガラス玉のように虚ろになる。

が、蛇はすぐに緊張を解き、笑みまで浮かべた。
『お前は私の父親ではない。皆がそう言い、私を信じてくれた……妻だけでなく。
だから、お前が何と言おうと、私は』
“──魔族なのさ!”
その念話が頭の中に響き渡ると同時に、紅い龍が、ミカエルの前に現れた。

ふんまん【憤懣/忿懣】

怒りが発散できずいらいらすること。腹が立ってどうにもがまんできない気持ち。

かんちょう【間諜】

ひそかに敵のようすを探って味方に報告する者。間者。スパイ。