1.亜空間での戦い(3)
「……何、だと……?」
ミカエルは、にわかには話の内容が理解出来ず、ぽかんと口を開けた。
あっけにとられたのは、他の天使達も同様だった。
そんな彼らの目前で、さらに信じられない事態は続いた。
「堕天し、魔界に味方する者は、前へ!」
セラフィのかけ声と共に、数百人の堕天使達が一斉に、白いローブを脱ぎ捨てる。
それと同時に、天使の象徴である汚れない純白の翼が、漆黒に変わったのだ。
天使達の間に、今度こそ、抑えようもない衝撃が走った。
ざわめきが走り抜け、驚愕の眼差しが交錯し、隊列が乱れる。
「しょ、正気か、お前達!
ほ、本気で天界に反旗を
ここに至っても、ミカエルは、自分の眼と耳が信じられない様子だった。
闇色の翼を誇らしげに広げ、セラフィはうなずいた。
「
身分が低いとは申せ、我らも神々の血を引く者、対等に扱って頂きたいと。
ですが、それは今まで、受け入れて頂くことは出来ませんでした。
それゆえ、
「やめておけ、魔物どもに勝ち目などない。
今からでも遅くないぞ、前言を撤回しろ……と言いたいところだが、もはやこうなってはな。
再び
やはり、あの時に処刑しておくのだったな!」
我に返ったミカエルは、憎々しげに、
シェミハザは微笑み、
「それは違います。あのことがなければ、わたくしは募る不満を胸に納めたまま、まだ、あなた方に仕えていたことでしょう。
天使長様、あなたには感謝せねばなりませんね、踏ん切りをつかせて頂いた、と言う意味では」
「こ、この裏切り者め、
ミカエルは、堕落した熾天使につかみかかろうとした。
「お静まり下さいませ、ミカエル様」
その時、二人の間に天使が割って入った。
天使長の、きちんと櫛目の通った金髪が、
七大天使の一人、ガブリエルは、海の色をした瞳を
「シェミハザ。お前の気持ちも分からないではありません。
ですが……どうしても?
この戦いが終わった後、必ず待遇改善すると約束したら……」
「残念ですが」
シェミハザは、首を横に振った。
「ただ……わたくしの命乞いをして下さったあなた様と戦うのは、正直、気が引けます……我らと共に、新しい天界を築いて頂くわけには……」
「きっ、貴様──!
ガブリエルまで誘惑する気か!」
「それは出来ません。
大体、わたしが賛同しないと知っていたから、声をかけなかったのでしょう。
今、この瞬間から、わたし達は敵同士……あなたは戦いたくないと言いますが、決着は二人でつけたいですね、わたしとしては」
シェミハザは黒い翼をたたみ、小さくうなずいた。
「……致し方ございませんね」
成りゆきを見守っていた魔界王は、不敵な笑みを浮かべた。
「やはり、七大天使ともなると、引き入れるのは難しいか。
だが、よくやった、シェミハザ。勝利の暁には、約束通り、“反逆の大公”という称号をくれてやる。
くく……ガブリエル、世の中は、意外性で成り立っているとは思わんか?」
その問いかけに、大天使は無言でそっぽを向いた。
サマエルは、ここぞとばかり声を張り上げ、天界の兵士達に呼びかけた。
「見ての通りだ、天使達よ、降伏せよ!
先の見えたミカエルや、天界にしがみつく理由がどこにある?
投降した者の身の安全は保障する、魔界の第二王子の名に賭けて誓おう!」
「くうぅ……! まったく、どいつもこいつも!」
ミカエルは怒りのあまり歯ぎしりをし、握り締めた拳を天高く突き上げた。
「──戦闘開始だ!
者ども、かかれ!」
「お、おう!」
気を取り直して天使達は答え、こうして、戦いの火蓋はついに切って落とされた。
過去の対決は神族の勝利に終わっていたが、今回は、戦う前から魔族が優位に立っていた。
ミカエルと魔族の王妃との関わりも衝撃的だったが、何より、四分の一もの兵士が、魔界に寝返ったのだから。
それでも、すべての天使が味方になったわけではなく、迫り来る敵を前に、サマエルは堂々と胸を張り、唱え始めた。
「──目覚めよ、古より我が魔界王家に受け継がれ、我が体内に封じられし“カオスの力”よ!
我が真の名は、エローア・ヴァ・ダアト……生命樹の深淵の上、異なる次元に存し、
今、我は神力ゲブラーの名に於て、“紅龍の封印”を解く!
──ベネ・ハ=エロヒム!」
その呪文は、“闇の紅龍”のものとは当然違っていた。
「うああ、“紅龍”だ、悪夢の龍が目覚める!?」
「せ、世界の終わりだ!」
「ついにディエス・イレー……“怒りの日”が来たのだ……!」
紅く輝き、変貌を遂げていく魔族の第二王子を目撃した天使達の動揺は、頂点に達した。
彼らも、『“四龍”と“双眸”が揃ったとき、神族は魔族に破れる』という予言を知っていたのだ。
だが、彼らには受け入れがたい内容であり、しかも、ミカエルが自信満々に、『“焔の眸”の消滅により条件は揃わず、予言は
今、その不吉な予言が、目の前で現実になろうとしている……。
さしも
神族は、サマエルが、理性を持つ“光の紅龍”となったことを知らない。
以前、彼が“闇の紅龍”……狂気に彩られ、たった一頭でこの世界を崩壊させる力を持っている……に変化した際の恐怖が、天使達全員に
それにまた、光だろうと闇だろうと、神族への恨みの
「ひるむな! 戦え!」
「それでも天界の戦士か!」
「この戦いに勝利すれば、褒美は思いのままぞ!」
戦力の量的減少もさることながら、連鎖反応が起こるのを恐れ、大天使達は声を枯らし、兵士を鼓舞した。
すべての階級に、現行の天界への不満を持つ者がかなりいることを、彼らはよく知っていた。
そういう者は、長年培われて来た忠誠と習慣と、そして何より恐怖によって、渋々従っているのだということを。
敵の惑乱を眼にしたタナトスは大きく息を吸い、高揚感が声に出るがままに叫んだ。
「よし、俺達も行くぞ!
──夜を
我が真の名はサタナエル・アサンスクリタ、その名の許に、“
「悪夢を司る月よ、夜を支配する者よ、我は汝に帰依し、その力を以て闇を支配せん!
我が真の名はベリリアス・ブーネ、その名の許に“碧龍の封印”を解く!
──カウダ・ドラコニス!」
「狂気を司る月よ、夜を支配する者よ、我は汝に帰依し、その力を以て闇を支配せん!
我が真の名はシナバリン・マステマ、その名の許に“朱龍の封印”を解く!
──カプト・ドラコニス!」
タナトスが、次いでシュネとリオンが変化し、巨大な四頭の龍が出現すると、下級の兵士を中心に、天使達は
「お、お助けを!」
「降伏致します!」
「どうか、命ばかりは!」
「こ、こら、逃げるな!」
「あんなものは見掛け倒しだ!」
「戦え! 偉大なる天界の兵士の名が泣くぞ!」
「敵前逃亡は死罪だ、戦え!」
大天使達は、躍起となって兵士を戻そうとするが、魔族は無論、それを待つことはない。
たちまちのうちに、逃げ出す天使と手向かう天使、襲いかかる魔族と、入り乱れての大混戦となっていた。
すぐに、形勢不利を悟ったガブリエルは、天使長を振り返った。
「ミカエル閣下、何とぞ退却のご命令を!」
他の大天使達も、口々にミカエルに進言する。
「このままでは、我が軍は壊滅します!」
「閣下、ひとまず退却をお命じ下さい!」
ミカエルは顔色を変え、部下達を怒鳴りつけた。
「なにぃ、魔物どもに背を向けよと言うか、尻尾を巻いて逃げ出せと!
戦はまだ、始まったばかりと言うに!」
「体面を気にしている場合ではありません!
名を捨て、実をとることも兵法の一手です!」
「ま、待て!」
「失礼!」
止めるミカエルを振り払い、ガブリエルは、力一杯ラッパを吹いた。
「──退却だ! 退却だ!」
「逃げろ!」
響き渡るその音を合図に、天使達は、ほうほうの
“よし! 追撃だ、一気にたたきき潰してやる!”
鼻息も荒く畳みかけようとする兄を、サマエルは止めた。
“待て、タナトス。深追いは危険だ。
連中はこの後、魔界に攻め込む気でいたはず、戦の準備もとうに終えていると思っていい。
うかつに追い撃ちはかけられないよ”
“……ふん、たしかにな。
伝令! 追撃はなしだ!
各将軍には、武装したまま休憩を取り、見張りを怠るなと伝えよ!”
「──は!」
“
「み心のままに、陛下」
魔界の王の命を受けた使い魔達は、四方に散った。
“どうして追っかけないんですか! さっさと全部、やっつけちゃいいましょうよ!”
血気に
“焦るな、リオン、そのうち暴れさせてやる。
しかし、拍子抜けするほど簡単に撃退出来たな。めでたいヤツらだ。
俺達が、本当に二人だけで、のこのこやって来るとでも思ったのか”
“連中は、私達が、本気で和平を結びたがっていると思い込んでいたのだろうさ”
肩をすくめ、紅龍が答えた。
“ふん、俺達も安く見られたものだ、あんな人数で倒せると思われていたとはな”
“まあ、私だったら、相手がたった二人だろうと、絶対に手を抜いたりしないけれどね。
敵の力を見くびる……それがミカエルのいいところさ”
皮肉たっぷりに、サマエルは言った。
“ふん、獅子はウサギ一匹相手でも、全力を尽くすと言うからな”
魔界の王は、弟龍を頼もしげに見た。
“まあね。それより、連中がこのままでいるとは思えない、さっそく次の手を打たなければ。
人型に戻って、作戦会議に入ろう”
“分かった”
四頭の龍の姿は輝き、縮み始めた。
宗旨(しゅうし)を変・える
信仰する宗教・宗派を変える。転じて、今までの主義・主張・職業などを捨て、別の方面に進む。
でんぱ【伝播】
1 伝わり広まること。広く伝わること。
わくらん【惑乱】
冷静な判断ができないほど心が乱れること。また、人の心などをまどわし乱すこと。