1.亜空間での戦い(2)
その間、さらに言い募ろうとするミカエルの方も、周囲の大天使達によって、なだめられていた。
過度の挑発は紅龍の憤激を誘い、世界崩壊の危機を招く。
前回のときは、天界は手も足も出ず、何とか惨事を回避できたのは、のちにファイディー国の女王となった少女、ライラの、命を賭けた行動のお陰だった。
タナトスは、ため息をついた。
「……まったく、そんな昔の、どうもならんことを、今さらほじくり返したとて何になるのだ?
おのれが傷つくだけだろうに。
フェレスの言う通り、この戦いに勝ち、平和な地で心穏やかに暮らす……それがお前の望みなのだろうが、サマエル。
“闇の紅龍”を目覚めさせたら、それも叶わんのだぞ」
しかし、その言葉も、自分の思考に囚われたサマエルの耳には届かない。
魔界王は、大きく息を吸い込み、弟王子をどやしつけた。
「しっかりしろ!
たとえ、貴様の父親が何者であろうと、母から産まれたことには違いあるまいが!
他の大天使どもなぞ、俺一人で十分だ、ミカエルは任せたぞ、我が弟よ!
存分にやるがいい!」
「え、あ……」
サマエルは、眼を
能面のようだった顔に、かすかな笑みが浮かび、胸に手を当て、頭を下げる。
「お任せ下さい、兄上。ご武運を」
「貴様もな」
軽く肩をたたかれてサマエルは戸惑い、自分に似た、しかし髪の色、性格は天と地ほども違う、兄の顔を見つめた。
タナトスは腕を引っ込め、ぷいと横を向いた。
「必ずミカエルを八つ裂きにしろ。それで、母上も浮かばれよう。
サマエル、貴様が何度、闇に
「はい……」
まだ少しぼんやりしたまま、ともかくもサマエルはうなずき、横に立つフェレスを安堵させた。
第二王子が正気づいたことにより、胸をなで下ろしたのは魔族だけでない。
紅龍が出て来ないと知って、天使達も、明らかに落ち着きを取り戻していた。
気の抜けた雰囲気が漂う中、タナトスは口を開く。
「ああ、いい機会だ、貴様らに、俺の妻を
ニュクス、ここへ」
「はい、陛下」
王の手招きに応えて、すぐ後ろに控えていた黒衣の美女が隣へ移動し、フードを取る。
夜色の長い髪、濡れたように
同じく黒髪のタナトスと並ぶと、さながら一対の彫像めいて、さらに美しさが引き立つようだった。
「このニュクスは、魔界の至宝、“
タナトスは
彼は初め、半男半女の化身を連れて来ようとしたのだが、内気なケテルは、それを固辞した。
とっさにサマエルは、女性を妻として見せた方が、神族には通りがよいはずだと提言して兄の怒りをうまくそらし、結果、ニュクスが同行することとなったのだ。
「“黯黒の眸”だと!?」
一旦は冷静さを取り戻していたミカエルの瞳に、再び険悪な光が燃え上がった。
「思い出したぞ、あの忌々しい“焔の眸”と対になった石ころのことだな!
生き物でもないものを妃の位に据えるなど、狂気の沙汰だな、悪魔ども!」
「ふん、何とでも言うがいい。
貴様の節穴にはどう見えていようと、ニュクスは現に、こうして生きているのだからな」
言いながら、タナトスが妻の眼を覗き込むと、その頬にさっと赤みが差す。
魔界王は満足げに振り返り、続けた。
「見ろ、愚天使、操り人形のような貴様の手下どもより、よほど感情豊かだぞ。
よし、今度はサマエル、貴様らの番だ」
「はい、兄上」
完全に正気に返ったサマエルは、軽く頭を下げ、一歩進み出た。
「こちらはフェレス、私の妻だ。
さ、お前も見せておやり……その美しい姿を」
「はい、サマエル」
彼女がフードを払いのけると、期せずして、天界の兵士達の口からどよめきが起こった。
「そ、その眼は!?」
「処刑されたはずでは……!?」
「まさか……!?」
それは、彼女の美しさのためばかりではなかった。
髪と同色の赤紫をした瞳、その奥で、生き物のようにうごめき踊る黄金の炎……天界にもその名が
だが、“焔の眸”が再生されたことを知らなかった天使達は、動揺を抑えられずにいた。
魔界の伝承……汎魔殿の要石に刻まれた予言を、彼らも知っていたのだ。
“焔の眸”が消滅して魔界の戦力はかなり削がれたと、手柄顔でミカエルが
天使長は、眼を怒らせ、かつての部下に指を突きつけ、なじった。
「おのれ、シェミハザ、貴様! あの時からすでに裏切っておったな!
天界を欺き、このおぞましい汚れた石を、破壊もせずに解き放っておったとは!」
「いえ、わたくしは……」
抗弁しかけるシェミハザを手で制して、サマエルが口を開く。
「それは違うぞ、ミカエル。彼はちゃんと天使の務めを果たしていた、あの時点ではな。
私が、この手で復活させたのだ。
妻にするため、そして、我らの故郷、緑滴るウィリディスを取り戻すために。
もう二度と、お前達に、愛する者達を殺させはしない!
──フェレス、お前に賭けて!」
第二王子の眼は、自信に満ちあふれ、輝いていた。
この先、どんなことがあったとしても、兄と“焔の眸”は、味方になってくれるだろう。
そして、この戦で手柄を上げたなら、たとえ父親が、本当に
「ああ、サマエル……!」
フェレスは涙ぐみ、差し出された夫の手をしっかりと握った。
手を取り見つめ合う、魔界の第二王子と妃……その姿をまじまじと見詰める大天使の顔が、怒りとも羨望ともつかぬもので、じわじわと覆われてゆく。
「あ……愛する者だと、馬鹿馬鹿しい!
奈落の汚泥底の闇に巣くう邪悪な怪物ごときに、愛の何たるかが分かってたまるものか!」
しかし、その叫びは、ミカエル自身の耳にさえ虚しく響いた。
目の前にいる二人と、温かい眼差しでそれを見守る魔界の王……彼らを見れば、魔族が愛というものを理解していることは、誰の眼にも明らかだった。
タナトスは、笑みを消して真顔になり、言葉を継いだ。
「いよいよ
さあ、出でよ! “朱の貴公子“リオン、“碧の貴婦人”シュネ!」
合図と同時に、小柄なローブ姿の二人が進み出て、フードを払い、軽く頭を下げた。
一人は明るい栗色の髪に同色の眼を持つ青年、もう一人は、燃え立つ金髪に眼は緑色の女性……一見すると、彼らはごく普通の人間のようだった。
「見ろ、この二人こそ、伝説の四龍のうち、朱龍と碧龍だ!」
「ふん、何事かと思えば。ただの人間ではないか。
先ほどの
自分のことは棚に上げ、自信満々な魔界の王の台詞を、天使長は鼻で笑った。
「ハッタリだと思うか、愚天使。
たしかに見かけは人間に近いが、それは、彼らがサマエルと最初の妻、ジルとの子孫だからだ。
牙を交えてから、彼らを軽んじたことを後悔するがいい!」
「そう、ぼくらは魔族です。
だから、ねえ、サマエル父さん。あなたが魔族じゃないっていうんなら、ぼくらは一体、何なんですか?」
リオンが尋ねた。
「そうですよ! それに、お父さんは、こんな極悪天使に似てません、性格も、顔だって、全然!」
シュネも声を張り上げ、ミカエルを指差す。
彼らは、さっきから抗議したくて仕方がなかったのだが、紹介が済むまでは、口を利いたりしないようにと厳命されていたのだ。
「だ、誰が、極悪天使だ!」
ミカエルが顔を紅潮させて怒鳴ったとき、後ろから声が飛んで来た。
「サマエル様は、れっきとした魔族です!
敵の血なんか引いていたら、“紅龍”になれるわけがありませんよ!
サマエル様は偉大なる紅龍、我らの希望です!」
振り返ると、ライオンの顔を持つ少年が拳を振り回していた。
グーシオン家のヴァピュラだった。
それを皮切りにして、魔族の兵士達も、口々にサマエルを
「ヴァピュラ様の仰る通り!」
「にっくき仇どもを倒すため、紅龍様は降臨なされたのだ!」
「そうだ、そうだ!」
「サマエル様、万歳!」
意外な成り行きに、サマエルは、心が温かいものに包まれるのを感じた。
その彼に、フェレスが微笑みかける。
「ええい、まったく馬鹿馬鹿しい!
先ほどから申しておる通り、そこな悪魔は、我と何の
その二匹とて、他の悪魔どもと大して差異がないではないか!」
大天使は、周りの
魔界の王は、またもニヤリとした。
「慌てずとも、すぐに真の恐怖を味わわせてやるから、待っているがいい。
ついに年貢の納め時だな、ミカエル! 神を
──さあ、魔族達よ、
我、黔龍と弟、紅龍を併わせ、“伝説の四龍”と“双の眸”が揃い、我らの勝利は、確実のものとなった!」
タナトスが声高らかに宣言すると、魔族達は一斉に鬨の声を上げた。
「おお──っ!」
すると、天界の兵士達は浮き足立ち、ミカエルの後ろに並んだ大天使達でさえ、少しひるんだ。
「も、もうよい、茶番はそこまでだ!
薄汚れた悪鬼どもめ、我を陥れようとて無駄なことぞ!
──さあ、天使達よ、聖なる力を以て、邪悪なる者どもを……!」
大天使ミカエルの号令一下、ついに天使と魔族の壮絶な戦いの火蓋が切って落とされようとしたその刹那、またもや邪魔が入った。
「あいやしばらく! お待ち下さい、天使長ミカエル様!」
よく通る声が、天使長の台詞をさえぎったのだ。
出鼻をくじかれたミカエルは、ばっと振り返り、より一層険しい顔になった。
「セラフィ、またお前か!
これ以上我の妨げをする気なら、いかにガブリエルの口添えがあったとて、もはや
だが、とがめられた当の本人は、まったくひるむ様子も見せず、
「恐れながら、この際、わたくしめからも、申し上げたき儀がございまして。
お聞き届け願えましょうか」
容姿は、他の天使達と何ら変わりはない。
それでも、整然と並んだ天使集団の最前列にいることでも分かるように、彼は
そして、彼の様子には、どこか、ただならぬものがあった。
ミカエルは、何かあるたび恐れもなく直言して来る、少々煙たいこの部下を探るように見た。
「一体、いかがしたというのだ?
お前には、この緊迫した事態が分からぬのか。報告ならば後にせよ」
「いいえ、後回しにはできません。
これこそが最重要、最優先の事柄でございます。
何しろ、わたくし……いえ、我らは、天界に反逆致すことにしたのでございますから。
なれど、長年お世話になりました義理もございますゆえ、こうして正式に宣戦布告させて頂くことと致しました。
我らは容赦致しません。ゆえにあなた様方も、ご遠慮は無用でございます。
正々堂々と戦い、我らは実力で、新たなる地位を勝ち取る所存でおります!」
シェミハザは、声高らかに宣した。
DIES IRAE(ディエス・イレー)
「最後の審判の日」。
怒りの日(いかりのひ、ディエス・イレ、Dies irae)とは終末思想の一つで、キリスト教終末論において世界の終末、キリストが過去を含めた全ての人間を地上に復活させ、その生前の行いを審判し、神の主催する天国に住まわせ永遠の命を授ける者と地獄で永劫の責め苦を加えられる者に選別するとの教義、思想。または、それが行われる日。
その様子については新約最後の書、幻視者ヨハネによる『ヨハネの黙示録』(アポカリプス)に詳述されている。 (ウィキペディアより抜粋)
ふいちょう【吹聴】
言いふらすこと。言い広めること。
ざんげん【讒言】
他人を陥れようとして、事実をまげ、いつわって悪(あ)しざまに告げ口をすること。
しんしゃく【斟酌】
《水や酒をくみ分ける意から》
1 相手の事情や心情をくみとること。また、くみとって手加減すること。
こしょくそうぜん【古色蒼然】
ひどく古びたさま。いかにも古めかしいさま。
いんしゅう【因習・因襲】
1昔から続いてきているしきたり。主によくない意味に使う。