~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

1.亜空間での戦い(1)

「これはどういうことだ、などと野暮は今さら言わん!
貴様らの姑息(こそく)()り口には、とっくに慣れてしまっているからな!」
漆黒の髪と琥珀(こはく)色の角を振り立て、紅い瞳を怒りに燃やし、魔族の長、黔龍(けんりゅう)王タナトスは叫んだ。

対する金髪の大天使ミカエルは、輝く二対の白い翼をこれ見よがしに広げ、不敵な笑いと共に彼を見返す。
「負け惜しみを申すな、蛇の王。
何ゆえ貴様らを、長きに渡り放置致し、気随(きずい)に振舞わせておいたのかも分からぬか。
まあ、貴様ら程度の頭脳では、到底、理解出来ぬ戦略であろうがな」

「ちいっ、それこそ、魔界の結界を突破できなかった言い訳に過ぎんわ!」
タナトスは吼えたが、天使長の灰色の眼に浮かんだ満足気な笑みは、消えることはなかった。
「いいや、これは立派な戦術よ。
安寧(あんねい)に浸らせて弱体化させ、さらに(かしら)を潰す、さすれば、後は赤子の手をひねるようなもの。
くく、今日は天界にとって最良の日……覚悟致すがよい、悪鬼どもよ」

「何を! やれるものなら、やってみろ、このくそ天使!」
「くく、未だ、おのれの置かれた立場が分かっておらぬようだな。
今一度、とくと見よ。これでも戦うと申すか?」
ミカエルは、周囲に向けて手を振って見せた。
「くっ! 雑魚(ざこ)天使ごとき、幾万いようと俺達の敵ではないわ!」
魔界の王は地団太を踏んだ。

サマエルが、不吉な予知夢を見てから、一年が経っていた。
つい最近、代表者二対二のみで会談を行いたいと天界から申し込みがあり、ようやく事態は動き始めた。
もちろん、平和的に解決出来れば言うことはない。
そう考えたタナトスとサマエルとは、指定された場所……相互連絡用にと創り出され、中立地帯とされていた亜空間……に出向いて来たのだったが。

タナトス達にとって、この状況は、お世辞にも有利とは言い難かった。
約束を一方的に破り、ミカエルの後ろには、六人の大天使を筆頭に、数万もの天使軍団が勢揃いしていたのだから。
“焔の眸”がそばにいない状態では、第二王子は紅龍になることが出来ず、残るタナトスが黔龍に変化したとしても、たった一頭で、これだけの敵を相手にするのは、やはり無理がある。

しかし、敵に囲まれ、兄が敵の大将と白熱したやり取りをしているというのに、サマエルは、それを気にかける風もなく、あくびを噛み殺していた。
無意識になでつける銀髪も、額に一本生えている真珠色の角も、いつもより一層、艶が増しているように見える。
(ああ、眠い……あの夢の後、皆で、よってたかって、私を眠らせまいとするのだもの……)
ぼやきつつも、妻との濃密な夜を思い出し、彼は頬を桜色に染めた。

それから、改めて、ののしり合いを続ける兄に眼をやる。
(……やれやれ、毎度この調子だ。この二人、前世はひょっとして、仲の悪い夫婦だったりして。
……ふふ、まさか)
その情景を想像して、彼は心の中で笑いつつ、兄の袖を引いた。
「もう、いい頃合だろう、タナトス。
そいつの高慢ちきな鼻っ柱を、へし折ってやることとしようよ」

「お、そうだな」
魔界王は、にやりとした。
「いい気になるのもここまでだ、ミカエル。
焦って見せたのは芝居に過ぎん、残念だったな、こちらも準備は怠りないわ!」
タナトスが指を二本立て、大きく縦に振ると、空間が切り裂かれ、黒いフードを目深にかぶった四人が出て来た。

それに続き、魔物の戦士達が次々に現れて、一糸乱れぬ隊列を作っていく。
「ちっ、読まれていたか!」
ミカエルは、忌々しげに舌打ちした。
あっという間に、魔族の軍団は整列を終え、一触即発の張りつめた空気が流れる中、天使と悪魔の軍団は対峙した。
どちらかに少しでも動きがあれば、瞬く間に、この場は血なまぐさい戦場と化すことだろう。

睨み合いを始めて、どのくらい経っただろうか。
兄の後ろに控えていたサマエルは、口を開いた。
「そうだ、タナトス。戦を始める前に、ちょっといいだろうか。
せっかくの機会だ、ミカエルに確認しておきたいことがあるのだが」

一同に緊張が走る……と言いたいところだったが、彼の口調は、この緊迫した場面にまったくそぐわない、のんびりしたもので、水を差された魔界王は、拳を握り締めた。
「貴様、今頃、何を悠長なことを! 気がそがれるだろうが!」
ミカエルの憤激はそれ以上で、端正な眉間(みけん)に、稲妻めいたものが走った。
「今さら命乞いとは、まったく笑止!
今度こそ、一匹残らず打ち砕き、二度と復活できぬよう、宇宙にばら撒いてくれるわ、薄汚い悪魔どもめが!」

兄王に怒鳴られ、大天使に罵倒(ばとう)されても、第二王子は眉一つ動かさない。
「弱い犬ほどよく吼える、とはよく言ったものだな。
他人のことより、自分の墓穴の心配をするがいい、愚天使よ。
私が聞きたいのは、お前の罵詈雑言(ばりぞうごん)などではない。
それに、お前は都合よく忘れているようだが、元々この場は、話し合いのために設けられたのではなかったのかな?」
からかうような口ぶりとは対極的に、眼はまったく笑っていなかった。

ミカエルは、ぎりりと歯を噛み締めたものの、自制した。
「では、何だ。冥土の土産に聞いておいてやる、言ってみるがいい!」
サマエルは、にっこりした。
「何、大したことではない、すぐに済む。訊きたいのは、私の出自(しゅつじ)のことだ」
「出自? 貴様の?」
ミカエルは、けげんそうな顔になった。

「そうだとも。
かつてお前は、私の母に横恋慕(よこれんぼ)して、ついには拉致監禁(らちかんきん)するまでに至ったそうだが……」
「な、何んだとぅ!? ちょっと待て、サマエル!」
今度はタナトスが話をさえぎった。
淡々とした表情を崩さない弟と、仇敵ミカエル、交互に視線を走らせる。
「そんな話は初耳だぞ!
大天使ともあろう者が、魔界の王妃たる母上を拉致しただと!」

両軍団からも、ざわめきが上がる。
皆の注視の中、ミカエルの顔からは血の気が引いていった。
「く、な、何を……何を今頃、言い出すのだ! そ、そんな、馬鹿なことが、あるはずなかろうが!」
「……心当たりがある顔だな」
サマエルの紅い瞳に暗い影がたゆたい、唇の端から鋭い牙が覗く。
それでも、声はあくまで静かだった。

「タナトス。
母上は、私を生む前の年に人界へ里帰りされた際、一時、行方不明になったのだそうだ。
必死の捜索が一週間ほど続くうち、自力で戻って来られたそうだ、ミカエルに捕らえられていたとね。
拉致した高位の魔族を天界に送り取引材料とする、それが神族の常套(じょうとう)手段のはず。
なのに、人界で母上を監禁していたのはなぜか……それはヤツの目的が、母上本人だったからだ」

タナトスは頭をひねった。
「……う~む。だが、それとお前の出生は関係なかろう」
「そうだろうか? 覚えているか、タナトス。宮仕えの者達の陰口を。
彼らは幼い私のことを、“取り替え子”と呼んでいた……」

魔界王は、はっと息を呑んだ。
「覚えているも何も、そんな噂をばら撒く輩を、俺みずから魔封じの塔にぶち込んでやったこともあるくらいだぞ。
だが、あの噂に、そんな経緯があったとはな……。
それでは、貴様は……やはり……?」
タナトスの口は自然と重くなり、その先を続けることが出来なくなった。

サマエルは首を横に振って見せた。
「違う……と私自身は思いたい。だから、この際、確かめようと思ってね。
どうなのだ、ミカエル。私は、お前の子……」
「や、やめよ、汚らわしい!」
そのときまで茫然自失(ぼうぜんじしつ)状態だったミカエルは、ようやく我に返り、激しく否定した。

「我は、あの女に指一本触れてはおらぬ!
いや、そもそも、魔族の女ごときに心奪われたことなぞないわ! 
つまらぬ言いがかりで、天界の結束を乱そうとするか、馬鹿めが、……」
叫んでいた大天使は、サマエルを眼にすると身震いし、否応なく声量も落ちた。

彼の紅い眼には、虚無が巣食い、闇が色濃く影を落としていた。
見る者の心を凍らせ、生きる希望すらも奪う魔眼、再びあの視線を向けられるくらいなら、激昂(げっこう)した相手に罵声(ばせい)を浴びせられる方が、遙かにましだと思わせるような。

「お前達が卑怯な振るまいをしなければ、私とて、あえて昔のことなど持ち出しはしなかったさ。
それに、たとえ私が真実お前の子だとしても、この場で認めたりはしないだろう、とも思った……。
お前の反応から、何かつかめはしないかと鎌をかけてみたのだが、収穫はあった、というところかな?」
「だ、黙れ! 覚えがないと申しておろうが!」
魔物の視線に射すくめられたまま、それでも、ミカエルは声を励まし、居丈高(いたけだか)に吼えた。

「サマエル様が、ミカエルの……?」
「噂はやはり、本当だったのか……?」
「あ、あの魔物が、天使長様の息子……?」
「いや、いくらミカエル様でも、まさか……」
またもや、魔族と天使、双方の間からざわめきが上がったのも無理はなかった。
第二王子の複雑な生い立ちも、天使長の素行(そこう)の悪さも、それぞれの種族間では有名な話だったから。

(真実とは残酷なもの……せっかく得た居場所も、なくしてしまったな……)
満場の視線を痛いほど感じながら、そうサマエルは思った。
だが、どうしても今、聞いておきたかったのだ。
後回しにしてミカエルが討ち死にでもしたら、きっと後悔すると思って。
そして、真実を知ってしまったからには、もうこの場にはいたくなかった。
妻の手を取り、逃げ出そうかとも考えたが、そんなことをすれば、この後、どちらが勝ったとしても裏切り者として捕らえられ、処刑されることとなるだろう。

(ならば、いっそ、自分で心臓をえぐり取り出し、タナトスにくれてやるか。
やはり……どうあがいても、私は、死の運命から逃れられないのか……)
泣けるものなら、泣きたかった。
しかし、それも出来ない彼の視線は、大天使を遙かに通り越し、声も虚ろとなった。

「私は、生まれぞこないと散々(ののし)られて生きて来た……大天使と魔界の王妃との不義の子と言うのもまた一興……。
たとえ私が魔物でなかったとしても、心も体もすでにどっぷりと闇に浸かり、染まっている……。
始めるとしようか、我らの命運を賭けた戦いを……。
父であろうとなかろうと、ミカエル、どの道、お前の最期は私が看取ってやる、心安んじて奈落の底に()ちるがいい……。
だが、知れば知るほど、私はこの世界が嫌になる……なぜ、こんなにも世界を憎んでしまうのだろう……。
(いと)おしく、かけがえのないものとして、抱きしめたくなる時さえ、あるというのに……」

話し続ける第二王子の顔からすべての表情が失せ、瞳に宿る(かげ)りが、さらに暗さを増してゆく。
「しっかりして、サマエル。早く戦を終わらせて、お屋敷に戻りましょう。
そして、また、皆で楽しく暮らすのよ、ね、……」
黒衣の美女が、必死の面持ちで自分に取りすがり、何とか現実に引き戻そうとしている声も徐々に遠のき始め、サマエルは、おのれだけの思いに深く沈んでいくのだった。

あんねい【安寧】

世の中が平穏無事なこと。

ばりぞうごん【罵詈雑言】

ありとあらゆる口ぎたない、ののしりの言葉。

よこれんぼ【横恋慕】

他人の配偶者、あるいは愛人に横合いから思いを寄せること。