~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

16.処刑場の貴石(6)

次の瞬間、魔界王は、深い青色に輝く、大きな二つの眼を覗き込んでいた。
銀で縁取られ、晴れ渡った空のように澄んだその青は、生前、母親が好んで着けていた、サファイアの指輪を思い起こさせた。
あれは今、“焔の眸”の指に輝いているはず……そう思った刹那、彼は相手の正体に気づいた。
強固な結界を破壊し、首だけをコロッセウムの中に差し入れて、半死半生の彼を見下ろしていたのは、全身に紅い鱗をまとった巨大な龍だったのだ。

「紅龍……いや、まさか……」
タナトスは頭を振った。
“よくご覧、幻などではないよ”
龍の念話が頭の中で反響し、彼は、これが現実だと知った。
「本当にサマエルか。……正気とは恐れ入ったな」
彼は再び、澄んだ青い眼を見返した。
以前の紅龍は、狂気に彩られた紅い瞳をしていた……ライラの捨て身の行動によって、正気を取り戻した後でさえも。

“『紅龍の書』がいきなり現れて困惑していたら、ケテルが教えてくれたのさ、光の呪文を読む資格が出来たからだと。
それでも、変身がうまくいくかは心配だったけれど、間に合ってよかったよ”
「されど、いかようにして魔界に?
位相はかなりずれておる、妨害されぬようにと、その期を狙ったのだが」
ケテルは、巨大な龍の顔を仰ぎ見た。

“生憎と、以前にも、叔母上やベルゼブル陛下のお力を借りて、転移したことがあるものでね。
あのとき以上に、ずれは大きかったけれど、楽々移動して来られたよ。
まったく、紅龍の力はすごいねぇ”
他人事のように、サマエルは言った。

「だが、よく、俺達がここにいると……危機に陥っていると分かったな」
“それのお陰だよ”
紅龍が指差すと、タナトスのマントの陰から、蛇がひょっこり顔を出し、舌をひらひらさせた。
『マッタク、困リモノノ王ダ。間ニ合ッタカラ、ヨカッタヨウナモノノ』

「生意気なことを。しかし、こやつ、いつの間に?」
“お前がここへ移動するとき、飛びつかせたのさ。
普通、強力な結界内から念話は送れないが、それは私の一部だからね”
『話はそこまで。治療を急がねば』
紅龍の肩から黄金のライオンが飛び降りて来て、二人を癒し始める。

そのとき、タナトスは、辺りが静まり返っていることに気づいた。
見回すと、人々は皆、折り重なるようにして倒れている。
「これは一体……」
“私が眠らせたのさ。この姿を見せたら、パニックを起こすだろう?
皆、いい夢を見ているよ、私特製のね……ふふ”
嫌な笑い方だったが、タナトスの体力はまだ完全とはいえず、詮索するのも億劫(おっくう)だった。

“さて、私もそこへ行くよ。『焔の眸』が離れていると、長時間は正気を保てないらしい”
サマエルが羽ばたくと、すさまじい風が起きた。
銀の翼を広げて舞い降りる紅龍は、輝きながら徐々に縮んでいき、地上に着く頃には、黒い翼を持つ、いつもの人型に戻っていた。

「礼を言わねばならんな」
弟が目の前に来ると、タナトスは言った。
サマエルは肩をすくめた。
「ダイアデムに言ってくれ。泣いてすがられてしまって、渋々来たのだ。
まあ、見殺しにしたら夢見が悪いし、私も王になるのはご免だからね」
「ふん、礼くらい素直に受け取ったらどうだ」
タナトスは、ふくれっ面になる。

彼以上に不機嫌な顔で、サマエルは答えた。
「何を言っている。あれほど私に愛しているだの、妃にしたかっただの言っておきながら、その舌の根も乾かないうちに、ケテルに求愛しておいて。
ケテル、本当にこんなヤツでいいのかい、一度振っておいて何だが、私の方がお前を幸せに……」
「たわけ! 殺されたいか、貴様!」
タナトスは、猛然と弟につかみかかった。

慌てずサマエルは、彼の首に両腕を回し、微笑んだ。
「それだけ元気なら、もう大丈夫だな。ねぇ、お兄様?」
「この、離せ!」
「せっかく再会したのに。楽しもうよ」
もがく彼の唇に、サマエルはキスする。

「貴様、いい加減にしろ!」
怒り心頭に発したタナトスは、弟を殴り倒した。
サマエルは、乱れた髪の間から、(えん)ずるように彼を見上げた。
「……酷いな。せっかく助けたのに。やはり、愛の言葉など嘘、か……」

「うるさい! 俺のものに手を出すな!」
怒りに任せてタナトスは、弟を足蹴(あしげ)にし始めた。
「あ、ああ……!」
(なまめ)かしく、銀の髪を振り乱してサマエルは身悶えする。
『やめよ、サタナエル』
「左様、恩人ではないか」
シンハとケテルが、二人の間に割って入った。

「ふん、どう見ても、喜んでいる顔だろうが!」
タナトスは、鼻息も荒く言い捨てる。
「お前が私を憎んでいて、玩具としか思っていないことなど分かっているさ……でも、血縁はお前だけ……」
倒れたままで、サマエルは、この上もなく悲しげな表情をした。

「子供の頃、自分は幽霊なのだと思っていた……。
だから、皆には見えず、たまに見えても、ベルゼブル陛下のように嫌な顔をするのだと……。
もう死んでしまっているのに、天国の母上のところへは行けない……。
私に関わってくれたのはお前だけ……ああ、また幽霊に逆戻り、か……」
うるんだ瞳で、第二王子は天を仰いだ。

タナトスは、うんざりした顔になる。
「おい、シンハ、こいつをどうにかしろ」
だが、シンハが口を開くより先に、ケテルがサマエルの手を取った。
「ルキフェ……いや、サマエル。
聞くがいい、我は、おぬしの兄を奪うつもりはない、というより、兄弟と伴侶とは違うのだ。
何があったとて、兄弟のつながりは切れぬのだぞ」
言いながら、彼はサマエルを助け起こした。

「その通りだ。大体、貴様には、“焔の眸”という伴侶がいるだろうが。
最近はつくづく、お前をくびり殺さなくてよかったと思う。
お前の命を奪っていたら、その後も気に食わんヤツを殺し続け、結果、予言通りの残虐な王になっていたかも知れんからな。
済まなかった、そして、お前が生まれて来てくれたことをうれしく思うぞ。
お前が俺の弟で、本当によかった」
タナトスは、ケテルの小さな手ごと、弟の手を握った。

「兄上! ああ……いい事が続き過ぎて怖いよ……!」
サマエルは、小さな子供のように、彼に抱きついた。
「ふん、たまには素直に喜べ、面倒な」
タナトスは鼻を鳴らす。
『それほどに、ルキフェルの心の傷は深いのだ。
されど、徐々に同化は進んでおる。幼少時人格との統合も、時間の問題であろうよ』
ライオンは重々しく請合った。

「そう願いたいが、な。さてと、この後どうするか、だが……」
「心配ないよ、魔界の住人、全員に夢を見せているから。
目覚めた後には皆、諸手(もろて)を揚げて、二人の結婚に賛成することになるだろう」
そこまで言うと、サマエルは彼から離れ、極上の笑みを浮かべた。
「そうそう、お前には悪役になってもらったからね」
「何だと、俺が悪役だ!?」
タナトスは眼を剥いた。

「して、いかなる夢か?」
心配そうなケテルに、サマエルは微笑みかけた。
「まずは、どうしてテネブレという闇の人格が生まれたか、ケテル、お前の過去を見せた。
なぜ、人界との戦争が起きたか、説明するために。
そして、お前は償いのため、自分の処刑を望んだ……そこまでは、事実のままだ。
その後の、タナトスが処刑を阻止した理由を捏造(ねつぞう)してみたのさ」
サマエルは、にやりとした。

「夢でのタナトスの台詞は、こうだ。
『俺が、こいつを本気で愛しているとでも? たわけ! 妃にしたからには、俺がこいつに何をしようと自由だ、毎晩、責め(さいな)んで、体で償いをさせてやる』と……」
「おい、貴様! 言うに事欠いて!」
タナトスは青筋を立て、弟に詰め寄る。

けろりとして、サマエルは続けた。
「いいではないか、結婚してしまえばこっちのものだ。
寝所に近づく者がいても、“黯黒の眸”が拷問を受けて泣いているのか、それとも喜んでいるのかなど分かるまいさ。
そして、人々は、泣き虫のケテルが涙ぐむたびに、辛い生活を強いられているのだと思い、同情が集まって暮らしやすくなるはずだよ、おめでとう」

その言葉通り、二人の婚姻に反対する者は一人もおらず、とんとん拍子に話は進んで、一月半後、婚礼が()り行われることに決まった。

自室で、ケテルと二人きりになったタナトスは、つぶやいた。
「……静かだな。今までの騒ぎが嘘のようだ」
「されど……まこと、これでよいのであろうか?」
ケテルは、自信なさげに彼を見上げる。
「何だ、俺の妃になるのが嫌なのか?」

ケテルは首を横に振った。
「いや、左様なことは……されど、あまりに何もかもが順調で、少し怖いのだ……」
「サマエルと同じことを言うのだな。ならば、裸になってみろ」
「え……」
ケテルは、びくりとし、思わず服を押さえる。

「心配するな、婚礼が終わるまで手は出さん、約束する。
もう一度、体を見たいだけだ。嫌なら強制はせんが。
ああ、ここでは誰か来るかも知れんし、隣に行くか?」
「わ、分かった……」
寝室へ入ると、ケテルは、震える手で衣装を脱いだ。
少年とも少女ともつかぬ体は小さく、顔立ちも幼いが、口調は大人びており、時折老成した表情も見せる、魔界の至宝の化身。

魔界の王は、伴侶に選んだ相手の体をじっくりと鑑賞し、やがて口を開いた。
「……ふうむ。見事に男女双方の特徴を(そな)えているな」
「こんなものを見たら、我が嫌にならぬか?」
ケテルは涙ぐんだ。
「本当によく泣くのだな、お前は。
知っているか、ケテル。人界には、錬金術というものがあってな。
鉛を金に変える魔法体系のようなものと一般には思われているが、その真の目的は、『完全な人間』になること、だそうだ」
「……完全な人間?」

「錬金術を極めた人間は、男で女、若くも年寄りにも見え、不老不死なのだと。
これはまさに、お前のことではないのか?
そいつらがお前を知ったら、神も同然に(あが)められるだろうさ。
だから、おのれを恥じる必要などないぞ、自信を持て、ケテル。
お前は俺の、すなわち、魔界王の妃にふさわしい存在だ」

「ああ、タナトス……!」
ケテルは彼に抱きつく。
タナトスは、華奢な体を一旦は受け止めたものの、すぐに放した。
「さあ、服を着ろ。約束を守る自信がなくなる」
「分かった」
服を拾おうとしたケテルは手を止め、何かを決意したかのように顔を上げると、いきなり彼に体当たりを食らわせた。
「うわ!?」
不意を突かれ、タナトスは、後ろにあったベッドに倒れ込む。

「な、何をする!?」
その彼に馬乗りになり、ケテルはにっこりした。
「おぬしは、我に手を出さぬと申した。
されど、我はおぬしに、左様な約束はしてはおらぬぞ」
「何だと!?」
「タナトス、おぬしは我のものだ」
何が起きているのか把握できず、眼を白黒している彼に、ケテルは口づけた。

怒(いか)り心頭(しんとう)に発・する

激しく怒る。
◆文化庁が発表した平成17年度「国語に関する世論調査」では、本来の言い方である「怒り心頭に発する」を使う人が14.0%、間違った言い方「怒り心頭に達する」を使う人が74.2%という逆転した結果が出ている。

えんずる【怨ずる】

うらみ言をいう。うらむ。