~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

16.処刑場の貴石(5)

タナトスは、縛められた手をテネブレの首の後ろにかけて引き寄せると、抵抗する間も与えず、その唇を奪った。
「っ……!?」
固まってしまった化身に向けて、彼はさらに畳みかける。
“俺は、心底お前に()れている。
(ケテル)だろうが(テネブレ)だろうが構わん、どちらも同じ、お前という存在の表と裏だ!
俺と共に生きてくれ、頼む!”
彼は全身全霊を込めてそう訴え、次いで、テネブレをベッドで愛しているところを思い浮かべた……ケテルではなく。

「や、やめよ! いけしゃあしゃあと、よくも左様な妄想を!」
テネブレは顔を真っ赤にし、もがいて彼の腕から逃れた。
「うっ、ごほ、お、俺は本気だぞ……くそ、こんなもの!」
タナトスは喉を押さえながら起き上がり、周囲に山と積まれた石に、魔封具を繰り返し打ちつけて壊し、ようやく完全に自由の身となった。

「ようし、聞け、“黯黒の眸”!」
そして、つぶてと怒号の中、魔界の王にふさわしい威厳を声を込め、化身を説得にかかる。
「お前とサマエルが同じような人生を歩んで来たなどと、俺は今、初めて知ったのだぞ!
生き方が似ているから愛したなどということはない、俺は何も知らんうちから、お前に惹かれていたのだ!
もう、こんな茶番はやめて、俺の妃になってくれ!」

それを聞いても、テネブレは、拒否するように激しく首を横に振った。
「いいや、我は愛など信じぬ!
かつて、双親は愛し合うていると思うておった、されど、父には過去に女がおり、母もまた、不義密通……。
その父も赤の他人……(あまつさ)え、前の女に産ませた子を世継ぎとなすがために、我は幽閉され、命まで落とすこととなったのだぞ!
もはや我は、金輪際(こんりんざい)、生物の感情ごときに振り回される気なぞないわ!」

「たしかに、俺達の心は変化する、だからといって、必ず不幸になるとは限るまい!
手に入れられるはずの幸福を、みすみす逃すことになってもいいのか!?」
「笑止! 幸福などという観念そのものが、誤謬(ごびゅう)なのだ!」
ぴしゃりとテネブレは言い、それから、沈鬱(ちんうつ)な表情になる。

「……おぬしの本心、たしかに受け取った。
されど、おぬしもいずれ変心致すことであろう、どの女子(おなご)か、はたまた(おのこ)かは知らぬが、な」
「俺を見くびるな、心変わりなどせん!」
「つい今し方まで……おのれのものであったはずの愛が、去ってゆく……その後ろ姿を、孤独のままに見送らねばならぬ者の心持ちが、おぬしに分かろうわけもない……」

「だから、俺は、他のヤツに心を移すことなど……」
タナトスが、一歩踏み出したそのとき。
矢のように飛んで来た石が、彼のこめかみに命中した。
「ぐわっ!」
「サタナエル!」
化身の腕に、魔界の王は倒れ込んだ。
どくどくと流れ出す血が、彼の襟元を(あけ)に染めてゆく。
「血……あのときと同じ……我が(しい)した……ああ、父上……!」

テネブレは全身を震わせ、ローブの端を裂くと、必死の形相で傷口を押さえた。
「もはや、死は見とうない、ことに、おぬしの死は!
死なないでくれ、サタナエル!」
その声に眼を開けたタナトスは、笑みを浮かべ、テネブレの頬をなでた。
「……ふ、やはり、俺を(した)っていてくれたのだな、お前……」
「ああ、我はもはや、おのれを騙せぬ!」
叫びと同時に、闇の化身が輝き始める。

光の王子、ケテルが現れても、周りを囲み石を投げ続ける集団は、それに気づいた様子もない。
「ケテル……お前なら、連中を正気づかせることが出来るだろう、早く……」
タナトスの声は弱々しかった。
ここ一ヶ月間、眠り続けていたために体力は落ち、さらに、軽微とはいえ傷を受け続け、そして、とどめに今の石が、致命傷ではないにしろ、かなりの痛手を彼に与えたのだ。

「済まぬ……無理だ」
ケテルは眼に涙を溜め、うなだれた。
「彼らは、すでに我が支配を離れ、この領域に充満する負のエネルギーそのものによって操られておるゆえ……もはや、我には如何(いかん)ともし難い。
彼らを正気に戻すには、外部より結界を壊すほかにない……内側より破壊するは不可能……紅龍ほども力があれば、ともかく……。
相済まぬ、サタナエル……我らはやはり、結ばれぬ定め……我が身を以っておぬしを守り、後は、おぬしの心の中にて生き続けよう……」

光の化身はタナトスに口づけた。
熱い涙が、彼の顔に落ちる。
その間にも、嵐のように降り注ぐ投石が、ケテルの命を削ってゆく。
タナトスは焦り、もがいて唇を外した。
「もう、俺は大丈夫だ! そこをどけ、死んでしまうぞ!」
「いいや、おぬしを守って死なせてくれ……それが、我にとっての至福……」
化身は、息も絶え絶えに答える。

「何が至福だ、お前こそ勘違いをしている。
幸福とは、何かを得て終わりではない、その得た何かを、守り、育ててゆくことだ。
それにだ、死ぬ方が楽で簡単だが、それで本当に(つぐな)いになるのか?
辛いだろうが、生きて魔族のために働くのが、真の償いなのではないか?」
「されど、見よ、我へ向けられる彼らの怨嗟(えんさ)の念を……」
狂気に囚われた人々へ、ケテルは弱々しく手を動かす。

「それは、お前が、連中の負の思念を増幅したからだろう。
どんな者にも影の部分がある、光だけでは生きられん……闇、夜がなければ眠ることも出来んようにな。
ケテル、もう、逃げるのはやめろ。運命を受け入れ、生きて償え。
辛いときは俺の胸に逃げて来い。少し休み、それからまた、償えばいいのだ。
お前が真摯(しんし)に向き合えば、皆、きっと、分かってくれるはずだ」
タナトスは懇々(こんこん)と諭す。

ケテルは、やつれた頬に、かすかな笑みを浮かべた。
「……もっと早くに、かように語り合えばよかったな、サタナエル。
お前と話していると、もしやと希望が湧いて来る……もはや手遅れなのだが、な」
「そんなことはない!」
タナトスは苛立たしげに叫ぶ。

しかし、化身の言う通りだった。
民衆が投げて来る石は、一つ一つはさほど大きくはなかったが、それでも数万人分である。
それらが、ケテルの体中に傷を作り、しかも、周囲や背中や手足にまで積もってゆく……その重みだけで、化身と、その下にいるタナトスの体を押し潰すに充分なほどになってきつつあった。

その中でケテルは、もう体を起こしていることも出来ず、彼の胸に顔をつけて眼を閉じ、やっと息をしている状態だった。
本体である“黯黒の眸”は、力の大部分を吸収されていて、タナトス以上に弱っていたのだから。

「も、もはや死が近い……さ、さらばだ、サタ、ナエル……」
「弱音を吐くな、ケテル! それに、俺は、真の名で呼ばれるのは好かん。
それは“敵対する者”という意味だ、俺は、お前と敵対などしたくない!」
「されど、“タナトス”の意味は“死”であろう……?
左様か、おぬしが、我にとっての死なのだな……これでようやく、真の死を死ぬことが出来よう……かつて、テネブレとして、セリンを操っておったとき、おぬしが言ったように……」

「真の死……?」
その言葉で、タナトスは、さらわれたジルを助けるため、セリンと闘ったときのことを思い出した。
「ああ、そういえば、そんなことを言ったな……。
だが、あの時と今では、まったく状況が違う!
はっきり言っておくぞ、お前は、死を乗り越えて俺の許へ来た、俺の花嫁……そう、“死の花嫁”なのだ!」

「死の、花嫁……?」
「そうだ、お前は、死を恐れる必要がない、一度死んでいるのだしな。
死んだ気になって生きよ、“死の王”たる俺と共に!
──いくぞ!」
気合と同時にタナトスは、ケテルを抱いたまま歯を食い縛って起き上がり、闘技場の内部に逃げ込もうと走り出した。

しかし、執拗(しつように)続く投石に行く手を阻まれて、衰弱していた彼は、たどり着く前に倒れてしまう。
「く……くそ、体が言うことを聞かん……!」
「サタ……いや、タナトス……逃げよ……我を置いて……」
彼の腕の中で、ケテルがささやく。
「で、出来るか、そんなこと!」

「彼らの目当ては、“黯黒の眸”だ。我さえ、ここに残れれば、おぬしは……」
「何を言う、ケテル。この場を満たしている闇の力を吸い取り、傷を癒せ。
それに、この力を全部吸収すれば、連中も正気に戻せるのではないのか?」
タナトスは、周囲の観客に向かって腕を振って見せた。

「我は、もはや、闇の力など、欲してはおらぬ……何より、テネブレが左様に思うておる……。
不気味さを、多少なりとも緩和出来たからこそ、おぬしも、我が第二形態を、さほど毛嫌いすることもなくなったのであろうから……闇の力は、制御が困難……我が望みとは裏腹に、おぬしに害を与えることともなろう……」

「闇の力、か。そうだ、ならば、俺が黔龍になればどうだ?
紅龍ほどではないが、龍になれば、こんな結界の一つや二つ……」
「馬鹿な、その弱った体で変化などすれば、命に関わるぞ。
それに、龍となったとて、結界を破壊出来るとは限らぬ」
「手をこまぬいて死を待つより、わずかでも可能性があるのなら、俺はそれに賭ける!」
「よ、よせ……!」

タナトスは、止めようとする化身を振り切って、立ち上がる。
気がかりは、手元に呪文の書がないことだった。
変化が解けると同時に、本もどこかへ消えてしまったのだ。
「心配するな」
優しく言うと、彼は呪文を暗誦(あんしょう)し始めた。
「──夜を(まと)いし暗黒の魂よ、(くら)き闇に眠り、光を知らぬ者よ、目覚め、()く来たりて
我に力を与えよ!
我が真の名はサタナエル・アサンスクリタ、その名の許に、“(けん)龍の封印”を解く!
──グヴァ・チネス!」

「タナトス……!」
ケテルが、蒼白な顔で彼の名を呼ぶ。
しかし、幸か不幸か、何も起こらない。
魔力が足りないせいか、呪文の書がないためか、あるいは、この強力な結界の中で変身すること自体が、不可能なのか。
これらすべてが当てはまるのかも知れなかったが、ともかく、タナトスは、龍に変身することは出来なかった。

「く、くそ、駄目か……!」
さすがの魔界の王も気力が尽き、ついに膝をついてしまう。
「タナトス!」
すがりついて来る“黯黒の眸”を、彼は抱き寄せた。
「済まん、な。大きな口をたたいておきながら、お前一人、助けられんとは。
添い遂げたかったが……」

化身は否定の身振りをした。
「いいや、むしろ、我が謝罪せねばなるまい。
我がために、おぬしが、あたら若き命を散らすことになってしまうとは……」
「お前とは、もっと色々と話したかったが……テネブレともな。
いや、俺としたことが、何を気弱なことを言っているのだか!
くそ、諦めてたまるか……ちいっ、どうすればいいのだ!」
彼が必死に考えを巡らしていたとき、突如、すさまじい音が頭上で鳴り響いた。
はっとして見上げる視線の先で、空が紅に染まり、真っ二つに裂けた。

あまつさえ【剰え】

[1] そればかりか。そのうえに。 [2] 事もあろうに。あろうことか。

ごびゅう【誤謬】

まちがえること。また、そのまちがい。

こんりんざい【金輪際】

(あとに打消しの語を伴って用いる)
1 強い決意をもって否定する意を表す語。絶対に。断じて。
2 極限まで。どこまでも。とことんまで。

あたら【可惜/惜】

惜しくも。残念なことに。あったら。