16.処刑場の貴石(4)
生あるうちには得られなかった第二形態を手に入れ、“黯黒の眸”の化身となったケテルは、その力で、薄い紙でも破るかのようにやすやすと結界を破り、自由を手に入れた。
そして、自分を死に追いやった憎い三人に次々と襲いかかり、その生首を手土産に、玉座の間へと
警備の兵士達をたやすく打ち倒し、巨大な広間にずかずかと入っていく。
煌びやかな玉座に腰かけた人影に、彼は声をかけた。
「魔界王陛下にはご機嫌
その声は、薄気味悪く、不吉な響きを帯びていた。
「何奴じゃ、名乗れ! 無礼であろう!」
ケテルとは気づかず、魔界王は彼に指を突きつけた。
光の王子と
「……我を知らぬと?
言うなり彼は、手にしていた生首を放り投げた。
三つの首はごろごろと転がり、玉座の周囲を血まみれにした。
「何じゃ!?」
思わず王は立ち上がる。
「よくご覧になるのですな、ご存知の面々のはずですぞ」
言いながら、ケテルはさらに歩を進める。
恨みを呑んで白目を
「やや、この者達は……!」
「そやつらが、我を殺したのでございますよ」
「何!?」
王は顔を上げ、近づいていく彼の金眼銀眼……そのときはまだ、
「そ、そちは……もしや、ケテルなのか!?」
「お久しゅうございます、魔界王陛下」
彼は、返り血で真紅に染まった
「くく、さぞや驚かれておいででしょうな。
殺害を命じ、すでにこの世の者でなくなったはずの我が、こうして目の前におるのですから」
「な、何じゃと、そちを殺害!? わ、わしは左様な命など、出した覚えはないぞ!?
そもそも、そちは何ゆえ……さながら暗黒の化身でもあるかのごとき、
王は声を上ずらせ、後ずさる。
「この
ケテルの眼差しは冷ややかだった。
「め、女神に誓うて、まことの話じゃ!
わしは、たしかにそちを、密かに魔封じの塔へ連れ出せと命じた。
されど、今日とて、訳も分からず封ぜられたそちが、食事も喉を通らぬようになったと聞かされ、医師を手配するよう、申しつけたばかりなのじゃぞ!
そ、それを、息の根を止めよなどと命じるわけがない!」
魔界王は、彼の視線を真正面から捉え、懸命に訴える。
その真剣な表情に、偽りがあるとも思えない。
不意にケテルは、貴石の言葉を思い出した。
「ふむ……“黯黒の眸”は、王が
「何じゃと!?」
みるみる王は青ざめ、三つの首へ向けて手を振った。
「こ、この者どもが、わしの言いつけをよいことに、左様な
して、“黯黒の眸”が、そちを救ったと申すか」
ケテルは眼を伏せた。
「陛下……我が肉体はすでに、冷たき
そうして、これは……我が望みし第二形態……生きて成長しておれば得ることが出来たやも知れぬ姿、なのでございますよ……」
震える指で、彼は自分を示す。
魔界王は、気が遠くなりそうな眼をした。
「な、何……そちは、もはや死しておるじゃと……!?」
「……御意。食事も水も与えられず、看取る者もなく息絶えましてございます。
今や我は、“黯黒の眸”の化身に成り果て……もはや、生きておるとは申せませぬ……」
彼はうなだれた。金と銀との瞳が、抑えようもなくうるんでいく。
「おお……おお、これは何としたこと……ケテルよ、
じゃが、女神にかけて、わしは、そちを殺そうなどと……」
王も涙ながらに、彼に手を差し伸べた。
迷いつつも、ケテルがその手を取ろうとしたとき、玉座の間に、一人の青年が飛び込んで来た。
「父上、ご無事で!? 警備の兵士達が殺されておりますぞ!
おのれ、何奴!? 陛下から離れよ!」
はっと振り向くケテルの視界の隅に、王がばつが悪そうな顔をしているのが映った。
「……陛下。あの者は何ゆえ、父上などと……?」
彼は、疑惑に満ちた眼差しを王に向けた。
すると、魔界の君主は、渋々話し始めた。
「……あれは……そちの、異母兄なのじゃよ、ケテル。名はフェガリ」
「えっ、異母兄!?」
「そちの母を……妃を
子まで
それが、最近になり、フェガリが現れた……母親が死の間際に書いたという手紙を持ち……それゆえ、わしは……」
「男か女か、おのれの子かさえも分からぬ者などより、自分の子と確証が持てる者を次期の王に、と?
……なるほど、それがために、我を幽閉したのか……」
ケテルの目つきは、入って来たときよりも険しくなっていた。
「致し方なかったのじゃ……。
なぜなら、ケテルよ……わしに昔、女と子までおったと知ると、そちの母はな……、あろうことか、腹いせに不貞を働きおったのじゃ……。
ゆえに、ソノアは、わしの血を引かぬと、妃は白状致した……」
「えええっ!?」
ケテルは、殴られたようにのけぞった。
「ま、まことなのでございますか、それは!? こともあろうに、母上が、ふ、不貞……!?
は、母上は
必死の思いで詰め寄るが、王の答えはさらに彼を驚愕させた。
「もはや遅い……そちの母は、わしがこの手で
前の女とは手が切れた上で迎え、王妃にふさわしき待遇を心がけて参ったと申すに、この裏切り……許せるわけがなかろう」
「……母上を、成敗……!? そ、そんな……」
とうとう、ケテルは、立っていることも出来なくなり、がくりと膝を折った。
「父上! こ、この有様は一体……!?」
その間に駆け寄って来た青年は、血まみれの惨状に声を上げる。
「おう、フェガリ。
話せば長くなるのじゃが、まずは、これがケテル……そちの弟“だった”者じゃ……」
「えっ、で、でも、前に見た彼とは全然違いますが……?」
青年は眼を見開いた。
その瞳は、左右揃って父親似の鮮紅色であり、顔形もまた王に似通っている……それを知った瞬間、ケテルの心の中に、どす黒い感情が噴き出して来た。
「くうぅ……! 貴様のせいだ、何もかも!」
想像もしていなかった話の連続、そして、突然の異母兄の登場に、ケテルの理性はついに吹き飛んだ。
三人をずたずたに引き裂いた鋭い爪を、フェガリの心臓目がけ、思い切り突き出す。
「──死ね!」
手ごたえはあった。
だが。
「ち、父上……!?」
彼の爪が貫いていたのは、憎悪の対象である異母兄ではなく、その楯となった魔界王の胸だった。
「す、済まぬ、許せ、ケテル……憎むならば、わしを憎め……兄に、罪はない……フェ、ガリまでもが、し、死ねば、お、王家の血は、絶えてしまう……。
妃は……ただ一度の、過ちゆえ、そちは、わしの子だと、申した……。
そ、それを、信じておれば……いや、妃を……許して、やってさえ、おれば……そちも……死なさずに、済んだ、のじゃな……。
ああ……わしは……何と……愚かであった、ことか……!」
後悔の言葉を残し、魔界の君主は彼の腕に倒れ込んだ。
「うわあああ、父上、父上!」
ケテルは王の体を抱きかかえ、泣き叫ぶ。
「何てことを! 父上、しっかりなさって下さい!」
「触るな!」
彼は、王にすがろうとするフェガリの手を振り払い、睨みつけた。
「ケテル、落ち着け、早く傷を治さねば、お命に関わる!」
「黙れ、その名で呼ぶな! 我は、もはやケテルではない、闇の化身、そう、テネブレだ!
あああ……もはや何も見たくない、その顔も、その眼も、父上が亡くなるところも……!
──うわあああ!」
ケテルは、王の血に濡れた爪で、自分の眼球を双方共、えぐって捨てた。
空洞となった
熱い涙が顔にかかり、タナトスは我に返った。
ずいぶん長い時間が経ったように感じたが、実際は、ほんの数分ほどだった。
「憎い……憎い……憎い……! おぬしは、あの、にっくき兄の子孫!
あやつさえ現れなんだら、我も母も、いや、両親共、平和に……!」
彼の首を締めつけながら、テネブレは、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
それらは、タナトスの頬を伝って地面に滴り落ち、黒い石へと変わってゆく。
(今のは、ケテルの過去か……。
父を殺し……腹違いの兄までいるとは……サマエルにそっくりではないか)
タナトスがそう思ったとき、彼の心を読んだように、テネブレが言った。
「我の生き様が、おぬしの弟に似ておるのではないわ。
ルキフェルの方が、我の人生になぞらえて生きるを強制されたのであろうよ」
「な、に……誰、に、だ……」
彼は必死に、声を絞り出す。
「アナテ女神に決まっておろう。長き時に渡り、女神は、紅龍となり得る者を待っておった。
我が適格者と判明致したときには、死が迫り……。
その後、要石に条件を記してみても資格者は現れず……それも無理はあるまい、紅龍の過酷な運命を思えば、な。
いたずらに時は移り、女神はついに
……まあ、これは我の推論に過ぎぬが」
「先ほど、憎いと、言ったな……俺を、好いては、くれん、のか……俺が、これほど、お前を……」
「おぬしが我に惹かれるのは、生き様が弟に似ておるゆえ。それだけのことであろう」
「違う!」
タナトスは声を振り絞り、否定した。
彼を見返す闇の化身は、この上もなく悲しげだった。
「のう、サタナエルよ。おぬしの息が止まりし後、口づけてもよかろうか……。
命あるうちには、かようにおぞましき者に唇を奪われるなぞ、さぞかし身の毛が
「な、何を言う、俺は、お前を……」
言いかけた刹那、タナトスは思いついた。
この化身に、首を絞めるのをやめさせ、
はいがん【拝顔】
人に会うことをへりくだっていう語。お目にかかること。拝眉。
しからば【然らば】
[1] 前述の事柄を仮定した場合に生ずる事柄を後述する。多く文章に使う。もしそうならば。それなら。
こうらん【高覧】
相手を敬って、その人が見ることをいう語。
ふしょう【不祥】
[1] めでたくないこと。縁起が悪いこと。また、そのさま。不吉。
[2] 運の悪いこと。不運。不幸。