~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

16.処刑場の貴石(3)

その日から、ケテルの日常は一変した。
厳重な箝口令(かんこうれい)が敷かれ、それは彼の妹、ソノアにさえ及んだ。
父王は、彼と眼を合わせなくなり、母も会うなり涙にくれ、声を詰まらせる。
彼自身も、人の眼が恐ろしくなり、人前に出ることを避けるようになった。

あるとき、死のうとして母に止められ、気を取り直した彼は、自分でも図書館の本を調べてみることにした。
何かしていないと、頭がどうにかなってしまいそうだったということもある。
彼の場合、男女の性が複雑に入り組んでおり、現状では、女性の部分を完全に取り除くことは難しく、命にも関わるらしかった。

高い天井まで本棚がそびえ立つ図書室は、床面積が体育館が二つ合わさったほどもあり、幼い頃、彼の格好の遊び場だった。
幼少期から懇意(こんい)にしていた司書のリベラは、驚きつつも彼に深く同情し、懸命に目録を調べ、役立ちそうな書籍を見つけ出しては、彼の(もと)へと運んでくれた。

こうして、死に物狂いで文献を探すうち、悪夢のような誕生日から半年が経った。
王子の必死の思いとは裏腹に、膨大な冊数を誇る汎魔殿の図書室でさえも、望みの本や記述は発見出来なかった。
「ない、ない、ない! これほど書物があるというのに……!」
ついに、彼は半狂乱になり、本を放り出して床に倒れた。
周囲に山と詰まれた書物が、雪崩(なだれ)のように落ちて来る。

「殿下!」
リベラが、本の山から彼を助け出した。
「ああ……もう、我は駄目だ」
「お気をたしかに、諦めるのはまだお早い。“禁呪の間”ならば、あるいは……」
「何、そこにも本があるのか?」
「はい。お立ちになれますか。こちらです」
王子は司書の後に続いた。

案内された図書室の奥には、一人がやっと通れる、小さな木の扉があった。
本館同様、この部屋もまた、天井までびっしりと、大小様々な書物で覆い尽くされていた。
「ああ、まだ、こんなにあったのだな!」
ケテルは顔を輝かせ、室内をぐるりと見渡した。

「はい。ここには当初、名の通り、あちらの“禁呪の書”のみが収蔵されておりました」
司書は、部屋の左隅を示した。
「ですが、その後、あまり性質がよくない魔法の書や、その……王家にとっては都合の悪い文献、過去の遺物となった古文書なども収められるようになったと、聞き及んでおります。
それゆえ、もしかしたらと……」
「うむ、ここならば、きっと見出せよう!」
金と銀の瞳から涙があふれ出す。

ここが本当に、最後の頼みの綱だった。
忘れられた書物の中になら、きっと望むものがあるに違いない、そう確信したケテルは、()かれたように読み漁り始めた。
夜、自室に帰るとき以外はこの部屋で過ごし、どうかすると、読みかけで眠ってしまうこともあった。

この半年で、王子は別人のようになってしまっていた。
外で遊ぶことが何より好きで、よく笑う、“光の申し子”と呼ばれた明るい少年の面影はもう、どこにもなかった。
司書が運んで来る食事もろくに摂らず、薔薇色だった頬は血の気が失せて、やつれた顔に眼ばかりが異様な熱っぽさを帯びて光り、回廊ですれ違う女官達を怯えさせた。

運命の日。
うたた寝から目覚めると、ろうそくは消え、“禁呪の間”は、暗闇に飲み込まれていた。
彼も魔界の王子、夜目は利く。
「ああ……眠い、一旦部屋に戻るか」
眼をこすりながら立ち上がり、ドアを開けようとしてケテルは愕然とした。
そこにはただ、壁があるばかり。扉は消えてしまっていた。
「まさか、そんな馬鹿な!」
慌てて見回すが、他の部分はすべて本棚、場所を間違えるわけがない。

「う、嘘だ……!」
彼は一瞬パニックに襲われ、頭の中が真っ白になった。
「いや、落ち着け。誰かの、質の悪いいたずらに違いない。
そうだ、魔法を使えばいいのだ。
──ムーヴ!」
気を取り直して呪文を唱えても、魔法は効力を現さない。
「な、何ゆえ……そうか、魔封じの結界が張られているのか!」
彼の顔から血の気が引く。
ケテルは、何者かによって監禁されてしまっていたのだ。

「誰かいないか、誰か!
助けてくれ、母上、父上、助けて!」
声が嗄れるほど叫び、扉があった場所をたたいても、助けは来ない。
壁を壊すものをと思っても、剣も持って来てはいなかった。
彼はショックのあまり、気を失った。

どれほど経ったのか、ケテルは正気づいた。
窓もなく、どれほど時が経過したのか分からない。
彼は起き上がり、壁にもたれかかると息をついた。
落ち着いて考えてみれば、いずれリベラが気づくはずだった、扉が消えていることや、不自然な結界が張られていることに。
それに、自分の姿が見えなくなれば、必ず母が捜してくれるだろう、それを待っていればいいのだ。
王子ともあろう者が、取り乱して恥ずかしい、そう彼は思った。

しかし、どんなに待っても、助けは来なかった。
本の表紙をかじってみても飢えは満たされず、喉の渇きも次第に耐えられなくなっていく。
何とか脱出口を作ろうと壁に爪を立てるが、爪が剥がれ血が噴き出しても、わずかな引っかき傷が出来るだけだった。

そうして、闇の中、どれほどの日数が過ぎたかも分からないまま、とうとう彼は動けなくなり、大理石の床に横たわった。
死を覚悟したそのとき、目の前の空間が輝き始めた。
光は、やがて三つの人影になり、ようやく助けが来たかに思えたのだが。

「おやおや、しぶといな、まだ生きているぞ」
冷ややかな声が、ケテルの希望を打ち砕いた。
「だから言っただろう、もう少し、様子を見ればよかったのだ」
「仕方あるまい、陛下が、見て参れと仰られたのだから」
男達は口々に言う。

王子の弱っていた心臓は、早鐘のように激しく打ち始めた。
男の一人が、にやりと笑って彼を見下ろす。
「お聞き及びですか、王子様。
まあ、色々ありまして、陛下は、あなたが実子でないと判断なさいましてね、我らに始末を……いえ、あなたに死んで頂くようにと、命を下されたのですよ、お気の毒ですがね」

「う、嘘だ……ち、父上が、そんな、……」
彼は懸命に、かすれた声を絞り出した。
「本当ですよ、知らぬはあなたばかりなり、でね」
(あざけ)るように、別の一人が言った。
「ほう、死の間際のあなたも美しい……そう言えば、男であり女である、というのはどういうものなのでしょうな」
三人目の男が、ケテルの衣服に手をかける。

「何を……やめ……」
抵抗しようにも、もはや、彼には力が残っていない。
「おい、よせ」
最初の男が声をかけるが、第三の男はやめようとはしなかった。
「いいではないか、もったいない。
殿下、わたくしは、ずっと、あなたを抱いてみたいと思っていたのですよ……それが、何と半男半女とはね……そそられますよ、本当に!」
言うなり男は、力任せに彼の服を引き裂いた。

男達が消えた後、残されたケテルは、呆然と真っ暗な天井を見上げていた。
床の冷たさが裸体に沁み込み、痛みと出血もあったが、もはやどうでもいいことだった。
閉じ込められたこと……辱められたこと……何より、それを命じたのが父親だということ……。
そして、何より、王が、実の父ではないとは……?
どうして、自分だけがこんな目に……何のために生まれて来たのだろう。
当たり前だと思っていたすべては、粉々になり、消え去ってしまった。

意識が遠のき、消えようとする寸前、視界の隅で紅い光が(ひらめ)いた。
再び男達が戻って来たかと思い、ケテルの体は抑えようもなく震えた。
中の一人は、彼をかなり気に入った様子だった。
どうせ死ぬならと連れて行かれ、そして……。
もう安らかに死にたいと願い、彼は舌を噛もうとした。

だが、それがもっと小さなもの……書物だと気づいた彼は、死にかけていたとも思えぬ敏捷(びんしょう)さで、それを手にしていた。
開こうとしたが、糊付けされてでもいるかのように、びくともしない。
仕方なく、ケテルは表紙を見た。
金の(はく)押しで“龍の書”とあり、その下にも文字がある。

「……『黎明(れいめい)の龍は光と闇を包含し、ゆえに(ふた)つの名を持つ。玉響(たまゆら)の心地に負けじと、命の賛歌を(うた)え、光を(もたら)す者よ』」
導かれるように読み上げた途端、本の輝きが増し、勢いよく開いた。
ページが勝手にめくられていき、とある箇所を開いて止まる。

(何と、……!)
彼は眼を見開いた。
そこに記された呪文は、ひどく禍々しく、瘴気さえ発しているようで、すぐに、彼は、これが禁呪の書だと分かった。
「紅い……そうか、これは紅龍の書!」
思わず声を上げると、本は輝きを増し、名を呼ばれた犬が尾を振るように、ぱたぱたとページをめくって見せた。

「……たしかに、変化すれば、脱出は叶おう、されど、紅龍は世界を滅ぼす……。
ああ、父上……いえ、魔界王陛下。
死ねと一言仰って頂けさえすれば、我は、あなたの目の前で、見事、自害してご覧に入れましたものを……!」
彼は顔を覆った。
凍りついていた涙が、後から後からあふれ、滴り落ちていく。

もう最期が近い。
それを悟った彼は、辛抱強く待っていた本に、告げた。
「……このまま、逝かせてくれ」
書物は、静かにページを閉ざし、棚へ戻っていった。
輝きも消え、部屋は闇と静寂に覆われる。
これでようやく死ねると、彼は眼を閉じた、その瞬間。

“ほう、仇も討たぬまま逝くと申すか。
おぬしを陥れしが、まこと魔界王かも分からぬというに?”
出し抜けに、不吉な問いかけが頭の中で響いた。
(だ、誰、だ……)
彼はすでに、声を出すことも出来なくなっていた。

“我は『黯黒の眸』。おぬしの絶望に惹きつけられて参ったのだ。
アイン・ソフ・オウル、光の王子よ、目蓋を上げ、しかと我を見るがいい”
やっとの思いで眼を開いてみると、いつの間にか、暗いオーラをまとった漆黒の貴石が現れていた。
(もう、いい。死なせて、くれ……)

貴石の片割れは、彼の答えを意にも介さず続けた。
“されど、もし、王が(たばか)られておったなら、いかがであろうな。
讒言(ざんげん)にて王子の生命を絶たせ、王を傀儡(くぐつ)()す……その王も、いつの時まで恙無(つつがな)くいられるものやらな、くくく”
(何……)
“王逝去(せいきょ)の後、王妃と王女には、如何なる待遇が待っておるのやら。
美しき、高貴な女が二人きり。男どもには極上の餌であろうな、くくく……”
嫌らしい笑いが、ケテルの頭の中に響く。
(そ、そんな……!)

“分かったであろう、もはや、おぬし一人の話ではない、我を受け入れよ、アイン・ソフ・オウル。
さすれば、永遠の命を得、飢えも渇きも、もはやおぬしを苦しめぬ”
(永遠の命……!?)
“左様。思い描くがよい、それが、おぬしの新しき風姿となろう”
(新しい、姿……)
ケテルの体から力が抜ける。
彼の最期の思考に呼応するように、“黯黒の眸”を覆うオーラが、もやもやと形を成していった。

かんこうれい【箝口令・鉗口令】

ある事柄について他人に話すことを禁止すること。また、その命令。

ざんげん【讒言】

事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと。

せいきょ【逝去】

他人を敬って、その死をいう語。