~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

16.処刑場の貴石(2)

タナトスが移動したのは、汎魔殿の南方に位置するコロッセウムの入り口だった。
巨大な石を積んで造られた、壮大な円形闘技場は、“黯黒の眸”の処刑を見ようと詰めかけた数万人もの魔族達で、あふれかえっていた。
しかし、いくら巨大な建造物だろうと、魔界の住人すべてを収容出来るはずもない。
そのため、各地にスクリーンが設置され、都から離れたところでも処刑の様子を見ることが出来るように配慮がなされていた。

「へ、陛下!?」
「タナトス様、お待ちを!」
「うるさい、どけ! ケテルはどこだ! どこにいる!?」
驚き、止める衛兵を吹き飛ばし、タナトスが門を突破したとき、内部からどよめきが聞こえて来て、彼の足は(いや)が上にも速まった。
闘技場の中央部に、テネブレが引き出されたところだったのだ。
ケテルの存在は一般には知られていないため、テネブレの処刑という形で告知がなされていた。

「どこだ、ケテル! ケテル、返事をしろ!」
だが、それを知らないタナトスは、王子の名を呼びながら、薄暗い通路をひた走る。
コロッセウムは今、罪人の逃亡防止用に強力な結界で覆われており、入ることは容易でも出ることは叶わず、魔法も使用不能だった。

「くそっ、頼む、ケテル、生きていてくれ……!」
間に合ってみせるという熱く固い決意と、早く行かなければという焦り、冷たい(むくろ)を眼にすることになったら……という恐怖にも似た懸念が、交互に彼の心を支配する。

彼は今まで、自分が妃にと思い定めた相手を実際の伴侶とすることは、一人も出来ていなかった。
クニークルスのフィッダ……慎み深い彼女を王妃の位に()けたりしたら、短い命を気苦労で、さらに削ってしまったかも知れない。
そして、ジルは……そう、弟と一緒になって幸せだったのだろう。
たとえ彼の精気で、一度死んでいるその命を支えることができたとしても、サマエルを恋しがって泣き暮らし、日々やせ細っていって、やがては……。
かといって、意思に反して記憶を消したりすれば、廃人になったかも知れず、いずれにせよ、幸福にしてやれたかどうかは疑わしかった。

だが、今度は違う。
タナトスは確信していた。ケテルこそが、自分のために用意された相手……真の伴侶なのだと。
そのとき、前方に明かりが見えて来て、長い回廊がついに終わりを告げた。
直後、彼の眼に、魔封具によって(いまし)められた“黯黒の眸”の姿が飛び込んで来た。
彼は一瞬で、それが闇の化身だと見て取った。
テネブレが生きているということは、無論、ケテルも……。
彼は安堵しつつも、さらに速度を上げる。

「む、この気……?」
テネブレが気配を感じ取り、振り返ったときには、すでに魔界の王は、彼の元へとたどりついていた。
「テネ、ブレ……ま、間に、合った、な!」
走りづめだったタナトスは、膝に手を当て、息を整える。
(めし)いた瞳で、化身は彼を凝視した。
「おう、サタナエル……おぬし、何ゆえここに?
せめて我も一言、おぬしに別れを告げたいと思いしに、叶えられたは望外の幸運だが」

「な、何が、別れだ、俺は、お前を、助けに来たのだぞ!」
息を弾ませ、彼は答えた。
「されど、見よ、我がために、かくも多数が(つど)った……今さらおぬしが参ったところで、この処刑を回避する術など、もはやあるまいに。
それほどに、皆の、我に対する恨みは深い……」
テネブレは首を振り、うなだれる。

「お待ち下さいませ、タナトス様! 今は、……」
その刹那、息せき切って走り寄って来たのは、エッカルトだった。
「エッカルト、貴様、よくも!」
タナトスは眼にも留まらぬ早業で、腰に()いた黄金の剣を抜き、魔法医に袈裟懸(けさが)けを浴びせた。

「ぎゃっ!」
一声上げてエッカルトは倒れ、地面が血に染まる。
何事かと群集がどよめいた。
「タナトス様、何を!?」
「と、ともかく、男爵様を医務室へ!」
警護の兵士が二人、急いで魔法医の体をタナトスから引き離し、連れて行く。

彼はそれを見ることもなく、血まみれの剣で、残る兵士達を牽制(けんせい)しつつ、魔封具をたたき外して化身の手を取った。
「さあ、行くぞ、テネブレ。こんなところに長居は無用だ!」
だが、“黯黒の眸”の化身は彼の手を振りほどき、頭を横に振った。
「我は行けぬ」
「何? どうしたというのだ?」

「おぬしが欲しておるのは、ケテルであろう。
彼の夢にも、我は一度も出られなんだ……今、共に逃げたところで、おぬしは闇の我を封じ、光の王子とのみ、暮らす気なのであろう?」
「それは違う、俺はお前も……な、何をする!?」
テネブレに剣をたたき落とされ、タナトスは面食らった。
さらに闇の化身は、拾い上げた魔封具を、こともあろうに彼の手首にはめたのだ。

「お、おい……!?」
眼を白黒させる魔界の王を尻目に、テネブレは両手を勢いよく掲げ、声高らかに宣した。
「──者ども! 処刑を始めよ!」
「何、だと……!?」
刹那、驚きのあまり動けずにいるタナトスと、無防備な“黯黒の眸”目がけて、握り拳ほどの石が、雨あられと降り注ぎ始めた。

投石。これは、ケテルみずからが選んだ処刑法だった。
恨みのある者達自身が、処刑に手を貸すことが出来る上に、テネブレが意識を失ってケテルの姿へ戻っても、投げられ堆積した石が肉体を覆い隠してくれるからと。
そうして、一定の時間が経てば、魔力が失われた化身の体は石の下で消失し、光の王子と共に、禍々しい第二形態もまた、完全に消滅するのだ。

「……う、くそっ、これでは、何も出来んではないか!」
魔法を使おうとして、魔界王は歯を食い縛った。
さすがの彼も、結界と手枷により二重に力を封じられていては、それこそ、手も足も出ない。
せめて、魔封具だけでも外そうと剣を捜すが、今まで足元にあったはずなのに、影も形もない。
その間にも、人々が投げつける石が、彼の体中に細かな傷を作っていく。

「う、つっ、や、やめろ、貴様ら!」
テネブレをかばいながら叫ぶタナトスの声は、喧騒(けんそう)にかき消され、民衆には届かないようだった。
“やめろ、貴様らの君主がやめろと言っているのだぞ!”
ならばと、念を使ってみるが、なぜか、人々の心から反応が返って来ない。
何度、心の声で呼びかけてみても、投石がやむことはなかった。

「どうしたのだ……俺の声が聞こえないはずは……」
タナトスは戸惑い、周囲を埋め尽くす群集を見渡す。
年齢性別を問わず、声を()らして怒号を上げ、投石を続けている彼らの目つきは異常で、中には口から泡を吹き、びくびくと痙攣(けいれん)している者さえいる。

面妖(めんよう)な。一体、何が起こっているというのだ……む!」
ふと、後ろにいる闇の化身に眼をやった彼は、顔色を変えた。
テネブレは、つぶての雨をもろともせず、指を組み合わせて次々印を結んでは、何事かを唱えている。
「貴様、何をしている!?」
彼が詰問すると、化身は邪悪な笑みを浮かべた。
「知れたことよ。ここにいる全員の心を操っておるのだ」
「何だとぉっ!?」

「礼を申すぞ、サタナエル。
おぬしが手枷を外してくれたお陰で、連中の精神を(ぎょ)することが可能となったのだからな」
光のない瞳を彼に向け、そう話す間も、宝石の化身の指はせわしなく動き、印を結び続けている。
「まさか、強力な結界が張られているのだぞ!
魔封具が外れたくらいで、皆の心を操るなど、出来るわけがない!」

彼が叫ぶと、闇の化身は眼を細め、不気味な笑みを一層深くした。
「……くくく。その結界こそが、この場に横溢(おういつ)する負の力を外部に漏らさぬよう封じ込め、我に力を与えておる……としたら?
サタナエルよ、共に死のう。
おぬしが死去し、我が本体、“黯黒の眸”もが破壊されれば、魔族の結束、魔界の結界、双方共に失われ、結果、魔族は滅びるであろう……!」
不吉な神託を下す神官のように、重々しくテネブレは言い放った。

「やめろ、そんなことをして何になる!」
つかみかかろうとしたタナトスは、はっとして動きを止めた。
相手の見えない両の眼から、涙が流れていたのだ。
「お前、生きていたいのだな」
「当然であろう。元来、ケテルは偽善者よ。
真の願望とは、まるで(さか)しまな行動を取ったがゆえに、闇の化身である我に力を与えた……有体(ありてい)に申せば、我が庶幾(しょき)は、ケテルの熱願でもあると申せよう」
あふれる涙をそのままに、テネブレは、長い爪で自分の胸を指差した。

「嘘をつけ、ケテルがそんなことを望むものか!」
叫んだ途端、闇の化身はタナトスに足払いを食らわせ、地面に倒した。
「うわっ……ぐっ!?」
そして、王に馬乗りになり、いつぞやのように、その首を絞め始める。
「案ずるな、サタナエル。
おぬしを(しい)せしのち、我もすぐ()く……我は魂を持たぬゆえ、冥土への道行きには同行出来かねるが、な」
「くっ、う、よせっ、やめろっ!」
もがき、抵抗するものの、手枷に自由を奪われ、化身の手を振りほどくことが出来ない。

(く、くそ、誰かいないのか、こいつの術にかかっていない者!
力のある、王家の……そうだ!)
「お、叔母上はどこだ! イシュタル叔母上!」
必死にイシュタルを呼ぶタナトスをあざ笑い、化身はさらに力を込める。
「くくく……無駄だ、エレシュキガルはここにはおらぬ。
死にかけのバアル・ゼブルが、放さずにおるゆえな。
この場にて正気でおるのは、おぬしのみだ、サタナエル……“敵対する者”、よ」
エレシュキガルは、イシュタルの真の名である。
(くっ、い、息が……)
意識が薄らぎ始めたタナトスの心に、そのとき、とある情景が流れ込んで来た。

「何じゃと、ケテルは、男子ではないと申すか!」
王にふさわしい豪奢な衣装に身を包んだ男が、苛立たしげに叫ぶ。
「魔法医よ、いかなる呪いか知らぬが、()くケテルを男に戻すのじゃ!」
そばにいた女性もまた、声を上げた。
二人の前に膝をつく魔法医は、滴る汗をぬぐいもせず、答えた。
「お、恐れながら、王妃様、これは呪いではございませぬ、王子殿下のお体は、先天的に……」

「生まれつきじゃと!?
ならば、何ゆえそなたは、生まれた直後、王子の体の変異を見抜けなんだのか!」
すでに子供がいるとは思えないほど若く見える王妃は、柳眉(りゅうび)を逆立て指を突きつけた。
「も、申し訳、ございませぬ!」
魔法医は、床に額をこすりつけた。

「もうよい。妃よ、後はそちに任せる」
魔界の君主は冷ややかに言い捨て、くるりと後ろを向いた。
「陛下!?」
驚く王妃を無視し、王は部屋を後にする。
ケテルは、虚ろな眼でその様子を見ていた。

コロッセウム

(ラテン語:Colosseum, イタリア語:Colosseo コロッセオ)
ローマ帝政期に造られた円形闘技場。英語で競技場を指すcolosseumや、コロシアムの語源ともなっている。
長径188m短径156mの楕円形で、高さは48m、45,000人を収容できた。

おういつ【横溢/汪溢】

水がみなぎりあふれること。また、気力などがあふれるほど盛んなこと。

しょき【庶幾】

[1]こいねがうこと。切に願い望むこと。

しいする【弑する】

「しする(弑)」の慣用読み。主君・親など目上の人を殺す。