~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

16.処刑場の貴石(1)

「……どこだ? どこにいる、ケテル!
ついさっきまで一緒だったのに……一体どこへ……返事をしろ、ケテル!」
タナトスは、懸命に捜し続けていた。
白皙(はくせき)の美貌、よく笑い、ときにはすねて見せ、あるいは泣き……表情豊かな、少年とも少女ともつかぬ、最愛の人を。

「我はここにいるぞ、おぬしのそばに。目覚めよ、サタナエル」
その声にまぶたを開くと、ケテルと眼が合った。
「ああ、いたのか、どこかへ行ってしまったかと……ん?」
腕を伸ばして触れようとして、タナトスは、自分が縛られていることに気づいた。
「何だ、これは! 無礼な! すぐに解放しろ、俺は魔界の王だぞ!」

「落ち着け、サタナエル。
本来ならば、おぬしを眠らせたまま刑場に向かうべきなのだが、せめて現実に立ち戻り、別れを告げたく思ったのだ……最後の我がままゆえ、許せ……」
金眼銀眼から、輝く貴石の涙がこぼれ、ケテルは彼に口づける。
その唇は、かさかさに乾き、冷え切っていた。

その一瞬で、タナトスはこれまでの経緯を思い出した。
「ケテル! 死ぬな! 俺と共に生きろ!」
()うの昔に、我は死んでおるのだぞ、サタナエル。そうして、今は虜囚(りょしゅう)の身……。
もはや気は済んだ。さあ、参ろう、エッカルト」
ケテルは、魔封じの(かせ)(いまし)められた手を上げて見せ、立ち上がる。
「タナトス様、これにて失礼致します」
魔法医は深々と頭を下げ、囚人を伴い、部屋を出ていく。

「ケテル、行くな! ケテルを返せ、エッカルト!」
いくら暴れても自由にはなれず、悲痛な叫びだけが虚しく響く。
半男半女の王子のすすり泣きが、長い回廊をゆっくり遠ざかっていくのが聞き取れて、魔界の王は居たたまれない思いをした。

『……マッタク、王子ダッタトハ思エナイナ、アンナニメソメソト』
それに反して、彼を捕らえている紫の蛇の言葉は冷たかった。
「貴様! 何だ、その言い草は!」
『我ガ本体ハ、泣クコトモ許サレナカッタゾ。ソレニ比ベテ、アノ王子ハ……』
「くっ、貴様、サマエルの敵討ちでもしているつもりか!?」
タナトスが歯を食い縛ると、小蛇は否定の身振りをした。
『イイヤ。我ハタダ、一番イイト思ワレルコトヲ、シテイルダケダ』

「一番いいだと!? これがか!?
ふざけるな! 覚えておれ、ここから解放されたら……!」
タナトスは、ぎりぎりと歯を噛み鳴らす。
『分カッテイル、我ヲ八ツ裂キニシテ、うっぷんヲ晴ラスノダロウ……ドウセ仮初(カリソメ)ノ命、惜シクハナイ。
ダガ、えっかると男爵ハ、処罰シナイデ欲シイ。ごみ同然ノ我トハ違イ、彼ハ魔族ニトッテ、大事ナ人材ダ』
「貴様……どうして、ケテルのことはそう思ってくれんのだ……!」

『……泣イテイルノカ、たなとす』
「泣いてなどおらんわ! おのれの無力さに腹が立っているだけだ!」
タナトスは、勢いよくそっぽを向く。
やれやれと言いたげに、蛇は肩をすくめた。
『ナゼ、ソレホド、アノ化身ニ執着スルノヤラ。
アレサエ、イナクナレバ、スベテガ、ウマクイクト言ウノニ』

「ふん。貴様の本体に聞いてみろ、なぜダイアデムに執着するのだとな」
顔を背けたまま答えたタナトスは、はっとして蛇を見た。
「そうだ、サマエルだ、おい、ヤツと話をさせろ!
あいつなら、きっと、ケテルを消さずにどうにか出来る方策を見出せるはずだ!」
蛇は小首をかしげ、舌をちろちろと動かした。
『……フム、タシカニ、ソウカモ知レナイガ』

「そう思うなら話をさせろ、そうしたら貴様も生かしておいてやる!
あいつが無理だと言うなら……くそっ、そのときは仕方がない、(いさぎよ)く諦める、だから、話をさせてくれ!」
タナトスは必死に頼み込んだ。
魔法陣に封じられているため、彼は今、念話が使えない。
『ソコマデ言ウナラ、我ヲ通ジテ、話シテミルガイイ』
蛇は眼を閉じた。

やや間があって。
『……タナトス。お前、私の髪の毛など使って、また変なものを創ったね?
どうせまた、いかがわしいことにでも使うつもりだったのだろうけれど』
眼を開けた蛇の口から、紛れもない、弟王子の声がした。
「サマエル! 聞け! 時間がないのだ、“黯黒の眸”の化身で……」
焦る彼を、サマエルはさえぎった。
『知っているよ、蛇の記憶を読んだ。さっき、直接、彼と話もしたしね。
……ケテル王子、か。死なせてやればいい』

「きっ、貴様!」
激昂(げっこう)しかけたタナトスは、落ち着き払った紅い眼に見つめられ、自分を取り戻した。
「……“焔の眸”を、その手で破壊したときの気分を思い出してみろ。
それに、ケテルとて本当は消えたくないのだ、でなければ、あんなに泣くものか。
頼む、何でも言うことを聞く、だから、あいつを救ってやってくれ!」

蛇は小首をかしげた。
『ふうん。そうまで言うなら、条件つきで考えてやってもいいが』
「本当か!? ありがたい!」
タナトスは(おもて)を輝かせる。
しかし、次の瞬間、吹っかけられた難題に、彼は眼を剥いた。
『そうだな、ケテルの前で私を抱く、というのはどうだい?』
「な!? 貴様、何を……」

けろりとして、第二王子は続ける。
『大丈夫。ケテルも魔界の王子、その程度で動揺などしないさ。
くく……私の後に彼、いや、彼女かな、を味見すれば、比べられて二度美味しいだろう。
そうだ、どうせなら、三人一緒というのはどう?』
「ふ、ふざけるなっ!」
『駄目? では、シンハも入れて、四……』
「いい加減にしろっ!」
それ以上言わせてなるものかと、タナトスは声を張り上げる。

蛇は、にっと笑った。
『そんなに青筋立てて怒鳴らなくても。残念、この話は無しか』
「もういい! 貴様には頼まん、放せ!」
タナトスが腕を振り回すと、爬虫類の(いまし)めは、あっけなくほどけた。
「この、色気違いめが!」
彼は跳ね起き、細長い体をむんずとつかんで放り投げる。
蛇は結界にたたきつけられる前に体をひねり、うまくベッドに着地した。

「くそっ、踏み潰してやる!」
怒りのあまり、魔界の王は足を持ち上げた。
だが、蛇は逃げるでもなく、むしろ、うっとりとした表情で彼を見上げた。
『ああ……死ぬってどんな気分なのだろうね、ぞくぞくするよ、想像すると』
「な、何だと、この変態!」

『気の毒に、ケテル王子は、酷い殺され方をしたのだったね。
けれど、そんな死でも、私はうらやましく思ってしまう……。
そうそう、シンハには違う意味で殺されかけたよ。二度ほど意識を失いかけたのさ。
とても気持ちがよくて……ああ……あのまま、本当に昇天出来たらよかったのに……』
蛇は色っぽく、体をくねらせた。

「……シンハが、貴様を失神させるほどだと……?」
夢魔の王は、怒りも焦りも一瞬忘れ、息を呑んだ。足も自然と下りていく。
『そう、精力絶倫という言葉は、彼のためにあるねぇ、まさしく。
お前も、ダイアデムでなく、シンハを相方にすればよかったのに。
きっと満足出来たと思うよ』

「た、たわけ、相手は獣だぞ、しかも雄だ!
あんなでかいのに、のしかかられてたまるか!」
タナトスは腕を振り回した。
蛇は再び、にやりと笑う。
『へえ、雌ならよかったの?』
「性別の問題か!」

『ふうん?
でも、お前のところにもカーラがいるし、のけ者にされたら、彼は淋しい思いをすると思うよ?』
「くっ、余計な世話だ!」
やはり痛めつけてやろうかとタナトスが睨みつけると、蛇は、ふっと真顔になった。

『お前はともかく、私は苦痛にまみれて生きていたからね、優しくしてくれるシンハに抱かれてみたいと思っていたのさ。
糧を得るためとはいえ、一度に何人もの相手をさせられ……泣いても叫んでも助けなど来ないことを、骨の(ずい)までたたきこまれ……すべてを諦めるしかなくて……。
それがどんなことか、お前に分かるか……?』

そこまで言ったとき、不意に紅い眼から涙が流れ、驚いた蛇はそれをぺろりとなめた。
『……おやおや。お前、これに、泣く機能までつけたのかい?』
「ふん、たまたまだ」

『シンハはね、ふふ……すべてにおいて行き届いていて、私がこうして欲しいと思うと……もう、色々と……ああ、思い出すだけで、たまらないよ……!』
言いながら、蛇はまたも体をくねくねさせる。
本体……人界にいるサマエルはさしずめ、紅く染まった頬を両手で押さえて陶然と身悶えしているところだろう。
それを想像すると、何とはなしに口惜しさがこみ上げて来て、タナトスは思わず拳を握り締めた。
今まで、彼の腕の中で、弟がそんな表情をしたり、仕草をした(ためし)などなかったのだ。

魔界王の思いなどお構いなしに、蛇は恍惚(こうこつ)と続けた。
『それに、彼ときたら、興が乗って来ると、噛みついたり、引っかいたりして……ああ、それも、すごくいいのだけれど……どうせなら、もう、いっそのこと、首を噛み切ってくれないものかなぁ……こんな幸せ、あり得ないよ……』
「やめろ、気違い! あいつがそんなことをすると思うか!」
あきれ返って王は叫ぶが、陶酔状態の弟の耳に届いているかどうか、怪しいものだった。

『だからね、汎魔殿の男達にとって、ディーネ女王の呪いは福音(ふくいん)だったかも知れないよ。
シンハを野放しにしておいたら、女性は皆、彼にメロメロで、男達は飢えてしまったろうからね。
あ、そんなことより、早くこれを踏み潰して、死んでいく感覚を味わわせておくれよぉ……ねぇ、タナトスぅ』
腹を見せてベッドに寝転がり、蛇は、ねだるように舌をひらひらさせる。

「まったく、貴様というヤツは……!」
脱力したタナトスは、額に手を当て大きく息を吐き、ベッドから降りた。
『なぁんだ、殺してくれないのか、詰まらない』
蛇のサマエルは、頬を膨らませて起き上がる。
遅まきながら、魔界王は約束を思い出し、蛇を指差した。
「当たり前だ、“そいつ”には、生かしておいてやると言ったのだからな!」

すると、蛇は、鎌首をもたげて彼の眼を覗き込んだ。
『では、妹背(いもせ)の君のところへ急ぐのだね、私とシンハの仲に嫉妬している暇があったら。
それに、今思い出したが、魔界と人界は今、かなり位相がずれているよ?
転移可能になるのは、少なく見積もっても十日ほどかかる。
それに、私だって忙しい、四人平等に、相手をしなくてはいけないからね。
ふふ、次は誰にしようかな、順番でいくとやっぱりフェレス……ああ』

再び陶酔しかけた蛇は、首を振って正気を取り戻し、タナトスを見た。
『そら、何をぼやぼやしている、結界は解いたぞ、早く行け。
大体、ケテルが待っているのはお前だ、他人など当てにせず、自力で救出してやるのが筋だろう?』
「ちっ、忌々しい役立たずが! 貴様などに期待した俺が馬鹿だったわ!
──ムーヴ!」
当てが外れたタナトスは、嫉妬も手伝ってか険しい顔で激しく舌打ちし、移動呪文を唱えた。

いもせ【妹背/妹兄】

1 夫婦。夫婦の仲。 2 兄と妹。姉と弟。