~紅龍の夢~

巻の六 THE BRIDE OF DEATH ─死の花嫁─

15.光の紅龍(4)

消えていて欲しいと願いつつ、サマエルはそっと顔を上げる。
だが、紅龍の書は宙に浮いたまま、辛抱強く彼を待っていた。
「お前……どうして、私のところへ来たのだ?」
暗澹(あんたん)たる思いで、彼は声をかけた。
禁呪の書は何も答えない。

仕方なく、彼は再び本を手にした。
分厚い書籍はずしりと重く、かつては鮮やかな紅色をしていたらしい革表紙からは、破片がぱらぱらと剥がれ落ちて来る。
「……可哀想に、四冊のうち、お前だけが()み嫌われて。ぼろぼろなのもそのせいか?
──フィックス!」

自分を見ているようだと思った彼は、本を修復し、改めて表紙の文言(もんごん)に眼を通す。
「“黎明(れいめい)の龍は光と闇を包含し、ゆえに(ふた)つの名を持つ。玉響(たまゆら)の心地に負けじと、命の賛歌を(うた)え、光を(もたら)す者よ”……。
この状態で……誰が、命の賛歌など……!」
読んでいるうち、込み上げて来る感情を抑えられなくなった彼は、書物を壁に投げつけようとしたが、出来なかった。
力が抜けて、書はぽろりと床に落ち、彼は顔を覆った。

ややあって、魔界の王子はゆっくりと眼を開けた。
そこには、ここしばらく完全に鳴りを潜めていた、暗い影が宿っていた。
「そうだ、タナトスや叔母上の前で紅龍になれば、彼らは私を殺すしか……」
彼は自分が発した言葉にはっとし、膝の上の宝石箱に視線を落とした。
「いや、駄目だ、“焔の眸”と一緒に生きると決めたのに。でも……」
床の書物に視線を移した彼は、がくりと肩を落とした。

「結局、運命からは逃れられない、か……。
それなら、“焔の眸”が目覚めないようにしてしまおう……眠ったままなら、私の死を悲しむこともない……。
母上、“焔の眸”をよろしくお願いします、優しい眠りに閉じ込めて、」
不意にサマエルは言葉を切った。
あれほど輝いていた“焔の眸”の光が次第に色褪せ、書物の紅い輝きさえもが徐々に小さくなって、すべてが闇に包まれていく。

「……おかしい。周りが暗くなっていく。妙だな、涙で眼がかすむと言うが、私は涙など……」
目蓋をこすっていた彼は、急に耳鳴りと痛みを感じて耳を押さえた。
「痛っ、今度は耳か、本当にどうし……何だ、どうした!?」
彼は顔色を変えた。自分の声が聞こえなかったのだ。
「一体何だ、どうしたのだ、聞こえてくれー!」
叫ぶその声も、まったく耳には届かない。

それは、彼の視力と聴力が失われた瞬間だった。
幸福の絶頂から絶望のどん底へ……あまりにも激しい感情の落差……感覚器官は、それについていけず、感じることを拒否してしまったのだ。

彼の心に去来(きょらい)したのは、ただ諦めだけだった。
(……いいか、別に。どうせ私は死ぬ身。
叔母上の悲しむ顔も、タナトスが私を呼ぶ声も、見聞き出来ない方が辛くないし。
どうせ、紅龍になれば、声も出せない。
静まり返った闇の中、私は、一人ぼっちで死んでいく……。
ああ、でも、せめてもう一度、お前の輝きを眼にしたかったよ、“焔の眸”……)
王子は、手探りで魔界の至宝の滑らかな表面に触れ、化身が創った石達にも、順番に触れていった。

後ろ髪を引かれる思いで宝石箱の蓋を閉め、金の鍵で錠をかけるその手が、抑えようもなく震える。
彼は、少し考え、指の先を犬歯で傷つけると、その血を鍵穴に塗りつけて封印を施した。
そうしておいてから、床に(ぬか)づき女神に祈りを捧げる。

(女神アナテ、(こいねが)わくは、来世、私と“焔の眸”が添い遂げられられんことを……!
何とぞお願い申し上げます、今世の私は、生け贄として果てる覚悟を決めておりますゆえ、わずかでもこの私を不憫(ふびん)と思って下さるなら、来世の私に御加護(ごかご)(たま)わらんことを……!
伏して(おん)願い(たてまつ)ります……!)

一心に願いを捧げても、反応はなかったが、驚くには当たらなかった。
カオス神殿の祭祀(さいし)でありながら、彼自身は直接女神と言葉を交わしたことはなかったし、慈悲を(たまわ)ることができるのなら喜ばしいが、そうでないなら、“焔の眸”は、眠ったままにしておけばいいのだから。

サマエルは、震える足を踏ん張り、壁を支えに立ち上がった。
手探りでよろめき戻る彼の後ろから、飼い主を(した)うペットのように、禁呪の書が、ふわふわと飛んでついて行く。
(お休み、“焔の眸”。よい夢を。
来世でまた会えたらいいね……カオスの闇に堕ちた私は、生まれ変わることが許されないかも知れないけれど)
彼は、ベッドに置いた宝石箱に、名残惜しげに頬を寄せた。

(行かなくては。魔界に。そして……)
やがて、意を決し、箱にキスして起き上がった彼の手に、紅龍の書が、待ちかねたように滑り込んで来る。
本を握り締め、移動呪文を唱えようと口を開いた刹那、頭の中で声が響いた。
“我が声が聞こえるか、ルキフェル”

“アナテ女神様!?”
彼の心に希望の灯が点る。
“否。『禁呪の書』がおぬしの手へ渡ったゆえ、我との会話が可能となったと考えよ”
“……誰だ、お前は”
がっかりして尋ねると、謎の人物は言った。
“ルキフェルよ、よく聞け。その書こそ、おぬしの希望の源。
書に記されし呪文を唱えれば、たちどころに……”

“宇宙を滅ぼす邪悪なる龍が覚醒する。今、そんなことをしてたまるか。
お前は一体何者だ、たしかに私は紅龍に変化し、叔母に討たれようと思っていた、だが、世界の滅亡など望んではいない!”
サマエルが鋭く言い返すと、相手の声は苛立ちの響きを帯びた。
“左様なことではない。
聞くがよい、これはアナテ女神より、おぬしへの言伝(ことづて)だ”

“……女神からの伝言……?”
彼は、いかにも不審そうに言った。
“左様。紅龍の変化の呪文には二種ある。おぬしが知り得しものは、闇の呪文。
此度(こたび)はおぬしに、光の呪文を唱える資格が生じたゆえ、書がおぬしの元へと参ったのだ。
光の紅龍は、強大なる力と共に、理性の保持が(かな)う……すなわち、おぬしが生け贄にならずとも、故郷の奪還が可能になるということ”

“何だって……!?”
第二王子は絶句した。
ややあって、湧き上がる希望を押さえつけるように、彼は頭を横に振った。
“嘘だろう……信じられない……”
“女神のお言葉を疑うと申すか。
運命を捻じ曲げてでも、おぬしを救いたいと(おもんぱか)っておられるのに”

サマエルは、見えない眼を見開いた。
“まさか……女神が、そこまで……?”
“おぬしは、女神の伴侶にして息子、モトの生まれ変わり。
かてて加えて、『焔の眸』と共に過去へ飛翔し、女神となる以前のアナテに助言を与え、それにより、魔族は滅亡を免れた。
その功績を()って、特例と()すとな”

以前、サマエルは、女性の化身であるフェレス……当初は名はなく、性格等もほぼダイアデムのまま……を創った際、夢飛行で過去へ飛び、生身だった頃のアナテに会っている。
その飛行は意図したものではなく、おそらく、未来に対するアナテの懸念と、新しく生まれた化身の不安とが呼応し合い、過去へ引き寄せられたものと考えられた。

そして、たしかにあのとき、フェレスは彼女に告げた……ダイアデムの口調で。
『紅龍を呼び出す呪文を復習しとけ、アナテ。近い将来、必ず使うことになっちまうから』と。
神族の侵攻以前、紅龍は単なる伝説と考えられており、呪文の書も禁呪とはされておらず、変化の条件もさほど厳密なものではなかった。
しかし、初代も二代目も闇の紅龍であり、光の呪文があることは知られずにいたために、天界に対する抑止力とされながらも、一方で危険で禍々(まがまが)しいものとして、長い間封じられて来たのだった。

“なるほど……あの一言が、先祖、()いては魔族を救ったということになるわけか”
サマエルは警戒を解いた。
自分達以外には知るはずがない女神との因縁を、これほど詳しく知っているということは、真実、女神の命を受けていると判断してよいだろう。

“要石に刻まれし碑文は、闇の紅龍へ変化する条件と申してよい。
それを満たした者が、さらに真の愛を見出せば、光の呪文を読む資格が得られるのだ。
されど、永きに渡り、適格者は現われず……そうして、ついにおぬしの誕生……女神は、母堂(ぼどう)の宝石箱を通じて、気づきを促そうと考えた”
そこまで言うと、相手は急に、語調を変えた。
“……実はな、サタナエルは、母堂の形見を何一つ、譲り受けてはおらぬのだ”

“ええっ、まさか。
以前、あいつは、お前より良い物をもらったと、自慢げに……”
言いかけて、サマエルは気づいた。
あの意地っ張りの兄が、何ももらえなかったなどと話すわけがない。
さぞかし、弟が持つ母の形見が(ねた)ましかったろう。

実際、殴り倒されて、宝石箱を奪われたことが一度だけある。
てっきり壊されたか持ち去られたと思ったが、意識を取り戻したときに兄はおらず、体にも、おもちゃにされた形跡はなかった。
箱だけが、ぽつんとその場に残されていた。
もしかしたら、あのときのタナトスは、ほんの少し、母の思い出を抱き締めていたかっただけだったのかも知れない。

“では、タナトスは、母上の死に目に会えなかったのか?”
“左様。今際(いまわ)(きわ)の言葉として、バアル・ゼブルに告げられたそうだ、『弟を可愛がり、また、与えられた命は大切にするように』と”
“えっ? まだ小さい自分の子に、そんな言葉だけ?
あ、ひょっとして、母上も女神の予言を……”

幼いタナトスに下された託宣(たくせん)は、ひどく禍々しいものだった。
『第一王子サタナエルは、心を持たずして生を受けし子。
()の者が王位に()くならば、同族殺しに興ずる、血塗られし君主となるであろう』
もし、母が、死の床でこれを聞いたとしたら……?
考え込んでいる彼に、相手は言った。

“のう、ルキフェル、“焔の眸”と光の紅龍、二つの輝かしき宝を得たおぬしに、ぜひとも頼みたきことがある。
我が消えれば、サタナエルが(なげ)くは必至(ひっし)、生まれ立ての女や豹のみで、心の隙間を埋められるかは疑問だ。
それゆえ、何とぞサタナエルを、我が主をよしなに頼む、これ、この通り”
謎の人物は、深々と頭を下げる映像を、彼の心に投影して来た。

“タナトスが嘆く……生まれ立ての女や豹? では、お前は”
ここに至ってサマエルは、ようやく相手の正体に気づいた。
“左様、我が名はテケル、真の名は、アイン・ソフ・オウル。
“黯黒の眸”テネブレが第一形態にして、かつて魔界の王子でありし者!”
宣言と共に彼の脳裏に映し出された闇の化身は、次の瞬間、眩しいまでに白い、光の化身へと変化を遂げた。

“テ、テネブレの第一形態!? 王子だって!?
アイン・ソフ・オウル……たしか無限光と……あ、眩し……!”
その刹那、窓から朝日が射してサマエルの瞳に光が戻り、同時に、小鳥達のにぎやかなさえずりが、まるで祝福のファンファーレのように耳に届いた。

あんたん【暗澹】

1 薄暗くはっきりしないさま。暗く陰気なさま。
2 将来の見通しが立たず、全く希望がもてないさま。

こいねがわくは【乞い願わくは/希わくは/冀わくは/庶幾わくは】

ある事を強く希望する気持ちを表す。切に望むことは。なにとぞ。どうか。

おもんぱかる【慮る】

「おもいはかる」の転。「おもんばかる」とも
あれこれ思いめぐらす。考慮する。

かててくわえて【かてて加えて】

その上。

ぼどう【母堂】

他人の母を敬っていう語。母君。母上。

いまわのきわ【今際の際】

臨終の時。死にぎわ。

よしなに【宜しなに】

うまいぐあいになるように。よいように。よろしく。

アイン・ソフ・オウル(アイン・ソフ・アウル) [Ain Soph Aur]

カバラでは、世界の生成はアイン(無)、アイン・ソフ(無限)、アイン・ソフ・オウル(無限光)から起こったとされる。それぞれ、0、00、000という数字で表されることが多い。

カバラ(qabbalah, Kabbala, Cabbala)

ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想。独特の宇宙観を持っていることから、しばしば仏教の神秘思想である密教との類似性を指摘されることがある。