15.光の紅龍(3)
『そもそも、何の任責か。
シンハは首をかしげる。
「違うよ。インキュバスの私を、こんな気分にさせた責任さ……!」
彼は冷泉から腕を伸ばしてライオンを抱き寄せ、夢魔特有の、とろけるようなキスを与えた。
『さ、されど、我にはディーネの呪いが……』
狼狽したように頭を振って、シンハは身を引こうとする。
唇は離れたものの、逃がすまいと腕を絡ませたまま、ライオンの耳に口を寄せ、夢魔の王子は甘くささやく。
「前にも言ったが、私は男だよ。
ねぇ、シンハ、駄目?
幼い頃から、お前に抱かれることを、ずっと夢見ていたのだよ……口には出せなかったけれど、ね……」
シンハには、ディーネとの辛い思い出がある。
しばし、考えるように無言でいた魔界王家の守護精霊は、何の前触れもなく行動を起こした。
サマエルがいる冷たい風呂の中へ、飛び込んで来たのだ。
激しく上がる水しぶき、たてがみの熱で湯気となり、水が蒸発する。
「わ、シンハ、何を……!?」
その中で面食らう王子を、ライオンはたくましい前足で捕らえ、答えた。
『望みを叶えよう、ルキフェル』
「えっ、こ、ここで……?」
『冷水中にても、
シンハは、事もなげに言ってのける。
「そ、それは……あ、んん……!」
さらに口づけで抗議をふさがれ、あまり広くない風呂の中、王子はそのまま、ライオンに抱かれる。
一区切りがついて。
「はぁ、はぁ……シンハ、お前……すごい、な。
ディーネが……自制、できなく、なる、わけだよ……」
サマエルは、風呂のふちに体を預け、息を弾ませていた。
一足先に水から上がり、ご馳走様とでも言いたげに、猫めいた仕草で顔を洗っていたシンハは、前足を止めると彼の頬をなめた。
『汝は比類なき者、
思わずサマエルは頬を染め、それから尋ねた。
「ひょっとして、ベリアル王にも、こうやって……?」
『いかにも』
ライオンは、至極当然という顔でうなずいた。
「なるほど……彼が王妃に見向きもしなかったのも、無理はないな。
お前に毎晩、こんな風にされていたら……」
『されど、それは君主の命によるもの。我が本意ではない』
シンハは、ぶるぶると大きく体を震わせ、毛皮の水を切る。
それは否定の身振りも兼ねていた。
「そう……では、今のは? 私は魔界の君主ではないし、命令ではなく、お願いしただけだよ」
サマエルは、自分の胸に手を当てる。
ライオンは、無言で前足を振り、水の中を示した。
「え? 何かあるのかい?
──ディアファナム!」
呪文を唱え、自分達のせいで濁ってしまった水を透明に戻す。
すると、揺らめく水底に、赤を基調とした色合いで輝く石が一つ、沈んでいるのが見て取れた。
「あれは……」
『我が創ったものだ』
サマエルは急ぎ潜って、それを拾って来た。
だが、水から上げた途端、貴石は白く濁って色が消え、ひびが入ったかと思うと、粉々に砕けてしまった。
「ああ、もったいない……」
『水中にて生み出されたがゆえの宿命。大気中にては形を留められぬのだ』
「そうか、普通のオパールでも、乾くとひびが入ったりするからね。
水を吸って色変わりする、ということは、ハイドロフェーン・オパール……ミステリアス・オパールなどとも呼ばれる石に近いのかな」
『ともかく、今一度それを中へ』
サマエルは、言われた通り、石の破片を冷泉に
シンハは、前足でなでるような仕草をして元に戻すと同時に、ガラスの球体を呼び出し、それに水を張って宝石を封じた。
『これでよい。汝に
水、すわなち愛が満ちておれば、
「ありがとう、うれしいよ、シンハ。
ああ、美しい……水の中で燃える火のようだ……!」
ガラス球を水から引き上げて口づけ、あちこちと向きを変えては、うっとりと貴石を眺めていたサマエルは、やがて、上目遣いに問いかけた。
「満ちると言えば、今日は、これでおしまいなのかい……?
私はまだ、満たされてはいない、のだが……」
シンハは、そんな彼を横目で見た。
『
「
すねたように彼が口を尖らすと、シンハは大げさに息をついた。
『
されど、足らぬのであれば致し方あるまい、寝台にて仕切り直すか?』
「いいのかい!?」
喜び勇んでサマエルは水から体を引き上げ、指を鳴らして二人の体を乾かす。
ゆったりとした歩みで浴室を出る炎の獅子と、それに寄り添う魔界の王子は、さながら
そうして二人が寝室へ着き、サマエルがサイドテーブルに宝石の球を置くやいなや、シンハは、それまでの悠然とした態度をかなぐり捨てて彼に飛びかり、ベッドに押し倒した。
「うわっ、シンハ!?」
『我とてこの日を、いかに待ちわびたことか……!』
ライオンの瞳の炎は赤々と燃え上がり、熱い息が彼の顔にかかる。
尾までもが広く円弧を描き、勢いよく振られていた。
「えっ!? ま、待って……」
サマエルは戸惑い、思わずもがく。
しかし、柔らかい黄金の毛並みが、さわさわと素肌をなぶっていく感触は、えもいわれぬ心地よさで、彼もすぐにシンハを迎え入れた。
「もう、せっかちだね。
いいよ、好きにして。お前に滅茶苦茶にされたい……!」
そのまま夢のような五日ほどが過ぎ、サマエルもしまいには、力なくベッドに横たわることとなった。
その横で、ライオンは大きく伸びをした。
『もはや戦闘不能か?』
からかうようなその言葉に、サマエルは悔しげに頬を赤らめた。
「……いや、まだ終わりにはしたくないのだけれど……」
そうは言ったが、人界の獣の倍もある巨大な獅子が相手、しかも、その前に三人の化身達とも愛を交わした後である。
さすがに、夢魔の王子も疲労の色が濃かった。
『無理をするでない、ルキフェル。機会は、これより
シンハは彼の頬を、ざらざらの舌でなめる。
「……たしかに、時間だけはたっぷりあるしね。
それに、夢魔の君主さえも惑わす、
『
「ふふ、お前にそう言ってもらえるとは光栄だよ、シンハ」
サマエルは、ライオンの首に抱きつき、鼻にキスした。
そうして、彼らは一緒に眠りについた。
サマエルが目覚めたときは、夜明け前だった。
辺りは闇に沈んでしんと静まり返り、寝床の隣にいた獅子の姿はない。
代わってベッドの上に浮き上がり、輝きながらゆっくりと回転していたのは、巨大な紅い宝石だった。
内部には、黄金の炎がめらめらと燃え上がっている。
化身達が全員眠ってしまったために、本体に戻ったのだろう。
「ああ……“焔の眸”!」
差し伸べる手に、魔界の至宝は静かに下りて来る。
この
どれほどの間、そうやって、紅い輝きを胸に抱いていたものか。
寝具に入れて一緒に眠ろうかとまで思ったサマエルだったが、やはり宝物は大事にしまっておいた方がいいと考え直し、指を鳴らして母の形見を呼び出す。
蓋を開け、母が遺した香りの中へ“焔の眸”を入れてみると、見事にうまく収まった。
「あつらえたようにぴったりだな。……おや?」
そのとき彼は、内張りされた紺のビロードの四隅にある、浅いくぼみに眼を留めた。
元からあったものだが、大して気にしていなかったのだ。
もしやと思い、サイドテーブルに並んだ四つの石を手に取る。
これもまた寸分違わず、はめ込むことが出来た。
「もしかして……母上は、これを予知しておられたのか?
私が“焔の眸”と結ばれ……化身達とも愛を交わすと……!
ああ、母上、“焔の眸”!」
サマエルは感極まって、宝石箱をひしと抱き締めた。
泣くことができない彼の心の中を、熱いものが流れ落ちていく。
しかし、魔族の王子が、至福に浸っていられたのもごくわずかの時だった。
突如、彼の頭上の空間が切り裂かれ、何かが飛び出して来たのだ。
「うわ!?」
とっさにサマエルは宝石箱をかばい、それを払い落とす。
紅く発光しながら飛んで来たのは、一冊のぼろぼろの書物だった。
一旦床に落ちた本は、まるで死にかけた蛾でもあるかのように、ページをばたつかせて再び舞い上がると、再び彼目がけて滑空して来た。
「なぜ本などが……くっ、──イグニス!」
襲撃される理由が分からないまま、彼は炎の魔法を唱えた。
その一撃で簡単に焼失すると思えた書物は、炎に巻かれても燃え上がることもなく、彼の目前で静止し、ページを開いた。
「……襲って来たのではないのか。この本は一体……?」
彼は首をかしげ、ともかく書物を手に取った。
表紙を見てみる。
「……ん? 龍……の、唄?
こ、これは“紅龍の書”ではないか!」
思わず彼は本を放り出した。
サマエルは知らなかったが、その書は、汎魔殿にある“禁呪の間”に、長い間置き忘れられていたものだった。
書物は、なぜ捨てられるのか分からないといった様子で、またも彼の元へと戻って来る。
「あああ……どうして!?
このまま“焔の眸”と、静かに暮らせるものと思っていたのに!
私は、もう死にたくないのに……!」
ベッドから飛び降り、逃げる王子の後を、禁呪の書は追いかけていく。
「ああ……せっかく“焔の眸”と愛し合えたのに……ようやく平安を手に入れたと思ったのに……!
私はやはり“紅龍”へと変化して、世界を破滅に導くのか……それとも、火閃銀龍の餌として……兄に食われ、死んでいくのか……。
ううう……」
部屋の隅に追い詰められたサマエルは、頭を抱えて固く眼をつぶり、うずくまってしまった。
つうよう【痛痒/痛癢】
精神的、肉体的な苦痛や、物質的な損害。さしさわり。
せきせい【赤誠】
少しもうそや偽りのない心。ひたすら真心をもって接する心。
たんでき【耽溺/酖溺】
一つのことに夢中になって、他を顧みないこと。多く不健全な遊びにおぼれることにいう。
けいせい【傾城/契情】「契情」は当て字。
1 絶世の美女。傾国。
2 遊女。近世では特に太夫・天神など上級の遊女をさす。
《「漢書」外戚伝の「北方に佳人有り。…一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の国を傾く」から。その美しさに夢中になって城を傾ける意》